1.侍女の約束
巷には、剣と魔法でダンジョンに巣食う魔物を蹴散らし、隠された財宝を暴くと言った冒険譚が、ある種の娯楽としてあふれていた。媒体は本であったり、弾き語りの芸人であったり、はたまたダンジョンを探索した本人の口であったりと様々だが、いずれにせよ身分や老若男女を問わず、その類の物語は多くの人を夢中にさせた。
もちろん、それらが多分に脚色されていることや、実際はもっと血や泥や汚物の臭いにまみれた冒険であることは、誰もがちゃんと承知している。ただ、そんなことを指摘するのは野暮であるから、多少荒唐無稽な話であっても、それはすごいと驚いて見せるのが世間の約束事であった。
だからこそ、やんごとなき家柄に生まれたご令嬢が、ある日ダンジョンへ行きたいなどとと口走ったとしたら、大抵の人たちは彼女を世間知らずだと考えるだろう。暇を持て余した貴族が、制御された危険を味わいたがっているに違いない、と。
しかし、それは大いに誤りである。なぜなら、いわゆるお姫さまと呼ばれる人たちは、決して暇など持て余していないからだ。
暇とは、まさにプライベートな時間があればこそ。しかし、公人たる彼女たちに、そんなものはない。一日の半分近くは公務に埋め尽くされ、残りは稽古事。夕食さえ他の有力者たちとの、つながりを築くための場として利用される。
従って、ナバ伯爵令嬢たるアイリーン嬢にとって唯一くつろげるのは、ベッドの上にいる時間だけであった。もちろん、朝食もベッドの上で摂る。ベッドを降りて一度床に足を着けば、彼女はたちまち公人とされてしまうから、これは彼女の義務に対する精いっぱいの抵抗なのだ。
アイリーンの侍女であるドロシーは、すでにこの小さなわがままを承知している。今、ベッドでスープなどを口に運んでいる白っぽい金髪の姫君は、たかだか十一歳の子供なのだ。それでも大人たちが求める責任を、その小さな身柄に引き受けてきた。まったく頭が下がるばかりである。
それ故に、今日の予定を書き連ねた長いリストをベッドの脇で読み上げる作業は、ドロシーにとってひどく心苦しい行いだった。リストの一行は重く冷たい一本の鎖であり、それを幼く美しい姫君の身体に巻き付けていく様を想像するのは、なんとも興奮する――いや、彼女の名誉のために言えば、そうでもしないと痛ましい思いに胸が潰されてしまうため、この妄想は心の安寧を保つ数少ない手段なのだ。
ともかくアイリーンは、この日の朝食をとりながら、侍女にとっていささか聞き捨てならないことを、ポツリと漏らした。
「ダンジョンに行きたい」
ドロシーはリストの読み上げを中断し、
「今、なんとおっしゃいました?」
と、愛しい姫に聞き返した。
「ダンジョンに行きたい」
アイリーンは繰り返した。
「えーと、お嬢様」
「なあに?」
「ダンジョンが、どう言うものかご存知なのですか?」
「まあ、当たり前じゃない」
アイリーンは目を丸くする。そして、
「簡単に言えば古代の権力者が自分にとって都合の悪い人たちや罪人なんかを閉じ込めるために作った建造物のことよ。当然のことだけど閉じ込めた人たちを逃さないためもあるし反対に外部からの侵入を阻むために迷宮の形態をとっているから単に迷宮のことを指したりもするんだけど本来はやっぱり目的をもって作られた全体構造をダンジョンと呼ぶべきであって――」
ものすごい早口で話し始めた。
「ストップ。姫様、ストップ」
ドロシーは慌てて止めた。
今のは、なんだ?
姫君の思いがけない一面を目にして、ドロシーは混乱するばかりである。普段はお人形のように可愛らしいのに、今の彼女は何やら気持ち悪い。
「なによ?」
講釈を中断されて、アイリーンはいささか機嫌を損ねた様子だった。
「いえ。なんでまた、そんなにお詳しいんですか。その、ダンジョンについて?」
するとアイリーンは、「ふふ」と不敵な笑みを浮かべた。
「勉強の合間に先生方の目を盗んで、ダンジョンに関する色んな文献を読み込んだの。読めば読むほど、ダンジョンが奥の深い建築だとわかるわ。例えば、呪われた半牛半人を閉じ込めた塔を知ってる?
ある国の王が神々との契約を破ったせいで、妃が雄牛に恋する呪いをかけられてしまい、頭が牛で体が人の怪物を産み落とすのだけど、王は怪物を殺すわけでもなく、わざわざ名工に命じて迷宮の塔を造り、その中に怪物を閉じ込めてしまうの。たぶん、呪い子とは言え、自分の愛した妃が生んだ子を殺したくなかったのね。つまり、ダンジョンは単なる遺跡ではなくて、そこには作り手の思いが込められていると言うわけ」
その熱がこもった言葉を聞いて、ドロシーは思った。
なるほど、わからん。
「一つ確認なんですが、お嬢様はダンジョンを冒険なさりたいのですか?」
単なる知識欲であれば、適当な書物を与えれば満足するだろう。さもなければ、いささか面白いことになりそうだ、とドロシーは質問を投げかける。
「それができたら、どんなに素敵かしら」
もちろん、ダンジョン探索は軽々しく臨めるような甘い冒険ではない。そんな苦難の中に、このご令嬢を放り込むのだと考えれば、ドロシーは背筋にゾクゾクと粟立つような快感を禁じえなかった。
「よろしゅうございます。では、このドロシーが、お嬢様のご希望を叶えてみせましょう」
ドロシーは自分の胸をドンと叩いて宣言した。
「本当に?」
アイリーンは、きらきらと目を輝かせる。
「もちろん。でも、すぐにとはまいりませんから、仕込みが整うまでは普段通りでいてくださいね。もし旦那さまが知れば、絶対お止めになるでしょうから」
「そうね。お父様なら、確かにそうするわね」
アイリーンは表情を引き締め、神妙に頷いた。そして、
「他に、私は何をしたらいい?」
「そうですね」
ドロシーはにっこり笑って、テーブルの上にある皿を指さした。
「朝食をやっつけてしまいましょう」




