駅までの十五分
飯塚航が事務所を出た時、腕時計は二十一時を回っていた。運用チームのまとめ役である彼は、アラートを判断し、顧客へ報告し、夜間当番を埋める。誰かに頼めばいいと分かっていても、頼まれる側も手いっぱいだ。自分が最後に帰ることだけが、現場を守る方法になっていた。
駅へ向かう途中、後ろから「飯塚さん」と声がした。新人の良助だった。遠回りの道を選んでいたため、たまたま同じ横断歩道に出たらしい。「研修、お疲れさま」「飯塚さんも」。何を話したらいいか迷っていると、青年がコンビニの明るい窓を指さした。「あの店、店員さんが交代するとき五分閉めるんですね」。
飯塚は笑った。「一人じゃ回らないんだろうな」「そうですね。閉める五分があるから、その後ずっと開けられるのかも」。それは助言でも比喩でもなかった。店の前には実際に、清掃のため五分だけレジを止める札がある。飯塚は初めてその札を読んだ。
駅の階段で別れると、良助は母親から届いた買い物の連絡に短く返信した。家庭での介護が必要だった一年のことを、飯塚は詳しく知らない。だが青年は明日も決まった時間に来るつもりでいる。その予定があることを、少し羨ましく思った。 電車の窓には仕事帰りの人々が映っていた。誰も自分の名前を知らず、誰も明日の障害を心配していない。その当たり前の景色が、少し眩しく感じられた。
帰宅後、飯塚は翌日の当番表を開いた。自分の名前が、ほかの全員の空欄に入り込んでいる。彼は三か所だけ消し、代わりに「要相談」と書いた。翌朝、銀利へ見せよう。勝手な判断にしたくない。長く続けてきたやり方を変える最初の仕事は、思っていたより小さかった。




