二本の署名
契約書の最終版が届いた朝、真壁千尋は印刷機の前で紙が出そろうのを待っていた。値上げをお願いしてから一か月。大口顧客の更新条件は監視範囲、連絡先、報告頻度まで見直され、双方の担当者がようやく合意した。赤い修正履歴が消えた書面を手にしても、真壁はまだ肩の力を抜けなかった。営業としての仕事は、署名をもらう直前が一番危ういと知っていた。
「付属資料の番号が一つ古い」。銀利樹一は七ページ目で指を止めた。本文は正しいが、別紙の版番号だけが先月のものだ。顧客の法務担当へ連絡すると、向こうも修正版の受領を確認してくれた。銀利は謝意を伝え、差し替えた書類をもう一度先頭から確かめた。急いで取りたい契約ほど、急がないという判断を守っている。
午後、相手方の署名済み書類が戻った。田倉澄子は入金予定表の「見込み」を「確定」に書き換えたが、入金日は変えなかった。契約が成立する日と、お金が届く日は違う。次の給与日までの残高を考える手は止めない。「これで終わりじゃないのね」と真壁が言うと、「仕事が始まるほうね」と田倉は答えた。
盛良助は製本した控えに見出し紙を挟んでいた。古い別紙は勝手に捨てず、差し替え記録と一緒に保管する。「間違った紙も必要なんですね」と首を傾げる青年に、日下部は「どちらを相手に渡したか説明するため」と教えた。良助は納得し、封筒に新しい管理番号を書いた。
夕方、真壁は得意先の担当者から「社内の説明、通りました」という短い電話を受けた。相手もこの一か月、何度も資料を作り直していたらしい。契約書には二社の署名が並ぶ。真壁は受話器を置き、向こうにも同じだけ働いている人がいることを改めて思った。




