値引きの履歴
真壁千尋の営業鞄には、顧客ごとに折った見積書が入っていた。会社を存続させるため、新規の契約を一件でも増やしたい。しかし昨年と同じ価格を出せば、運用の負担が増える。値段を上げれば、今度は競合へ流れる。真壁はそんな板挟みの中でも、顧客の受付担当に名前を覚えられる仕事をしてきた。
午後、銀利から「新しい契約書を出す前に実際の監視条件を確認して」と言われる。真壁は社長の意図が分かる。赤字の原因を調べているのだ。机に戻ると、良助が古い提案資料を年代順に並べていた。「いつから追加報告が入ったんですか」と質問された。真壁は顧客の強い要望を思い出した。最初は月一回だった報告が週一回になり、さらに臨時の会議資料が増えていた。
「追加料金は?」「取れなかった。向こうにも事情があったし」。責められると思った。ところが良助は「じゃあ、事情を残しておいたほうがいいですね」とだけ言い、議事録を探し始めた。値引きの理由も、無償対応を決めた事情も、真壁の記憶の中にしかなかった。
夕方の打ち合わせで真壁は、顧客を切る案には反対した。銀利も反対しなかった。「切るか残すかより、何を約束したかが先だ」。社長は顧客の目的を理解した上で、次の更新条件を組み直すつもりだった。その慎重さを見て、真壁は肩の力が抜けた。
帰り道、彼女は鞄から最も古い見積書を出した。紙の隅には、顧客の担当者が書いた「助かった」の文字がある。安売りが悪いのではない。助けた仕事の形を残さなければ、次も同じ無理を引き受ける。真壁は明日の訪問先に、過去の追加依頼を確認する時間をもらうメールを送った。




