傘の名前
雨が続く週、事務所の傘立てには似た色の傘が増えた。誰かが間違って持って帰ってしまい、朝から田倉澄子が持ち主を探している。自分の名前を書けば済む話だが、そんなことさえ後回しになるのが忙しい職場だった。良助は紙と細い紐を用意し、希望者だけが付けられる小さな名札を作った。
「全部に付けなくていいの?」と広瀬が聞くと、良助は「自分で覚えられる人もいるので」と答えた。名札を付ける人、付けない人。誰も注意されない。田倉は見間違えやすい二本だけに印を付け、それで困りごとが消えた。立派な規則を一つ作らずに済んだ。
午後、真壁が雨で遅れる顧客訪問の時間を調整していた。交通機関の乱れは誰にも止められない。尾高は先方へ状況を伝え、会議資料を先に送る。真壁が到着した時、相手は既に質問をまとめて待っていた。時間は短くなったが、話すべきことは話せた。
事務所では久世が設備の点検を終え、野江が通知分類の再試験計画を書いていた。昨日の失敗が消えたわけではない。しかしそれだけに全員の注意が奪われることもなかった。田倉は支払表の更新へ戻り、飯塚は次週の当番を確認する。ひとつの職場に、同時にいくつもの時間が流れている。 田倉は濡れた床を拭きながら、入口に置く吸水マットの見積もりを思い出した。雨の日だけの小さな出費も、長く使えるなら考える価値がある。
夕方、雨足が弱まり、窓に小さな明かりが映った。良助は鞄から折り畳み傘を取り出し、名前札を付けずに帰っていった。彼の傘は、ほかの誰のものとも似ていなかった。田倉は忘れ物の棚を見回し、空になったことを確かめてから最後の灯りを消した。




