六時半の鍵
日下部透は、午後六時半に事務所の鍵を持っていた。最終退勤者になるのは珍しい。今日は飯塚が定時で帰り、野江も当番の引き継ぎを済ませていた。銀利は顧客との打ち合わせを終え、自分の机を片づけている。田倉は明日の書類を棚へ収めた。
「もう閉めますか」と日下部が聞くと、銀利は壁の時計を見た。「そうしよう」。社長の返事があまりに自然で、日下部は少し拍子抜けした。いつもなら誰かが夜遅くまで残り、鍵は机の端に置きっぱなしだった。監視設備は遠隔で動き、夜間の当番体制も別にある。事務所の灯りが消えても、仕事が止まるわけではない。
良助は入口の傘立てを整え、最後に扉の内側を見回した。「全部消えてますか」「確認したよ」。日下部が答えると、青年は自分の鞄を肩へ掛けた。片づけ方を一つずつ覚えている姿は、いつもの新人と変わらない。
駅まで歩く間、日下部は夕飯のことを考えた。今日は自炊できるかもしれない。銀利は交差点で別れ、明日の予定を携帯で確認していたが、歩きながら返信を始めることはなかった。会社が赤字から抜けたわけでも、顧客の問い合わせがなくなったわけでもない。ただ今夜は、必要な人だけが必要な持ち場にいる。 建物の管理人は、いつもより早く帰る社員たちを見て軽く会釈した。誰かが残業しているのが当然だった廊下に、今日は普通の夕方があった。
翌朝、日下部は一番に出社した。前日の机はきれいで、急ぎの資料は所定の棚に収まっていた。眠っている間に不具合が一件報告されていたが、当番が既に記録を残している。鍵を開ける音が事務所へ響き、いつもの一日が始まった。




