定時の駅前
飯塚航は、久しぶりに夕方の駅前を見た。退勤時刻がまだ明るいことに少し驚く。今夜の当番は小田切で、予備の連絡先も決まっている。急な対応が入れば呼び出される可能性はあるが、自分から事務所に残る理由はなかった。銀利は「予定にない残業は減らそう」と言った。
駅前の本屋に入ると、仕事とは関係のない旅行雑誌が並んでいた。買ったところですぐに旅行へ行けるわけではない。それでも飯塚は一冊を手に取った。ふと携帯を確認しかけ、胸ポケットへ戻す。連絡が来れば音が鳴る。自分が画面を見張っていなくても、必要なことは届く。
翌朝、彼が出社すると、小田切は夜間に発生した問い合わせを無事に処理していた。保留が一件あり、判断の理由も記録されている。飯塚が「昨夜、困らなかった?」と聞くと、小田切は「困ったら聞こうと思ってました」と答えた。それが当然の仕組みなのだと、飯塚はようやく理解した。
良助は資料を届けに来て「今日は顔色が良さそうですね」と言った。飯塚は「本屋に寄ったからな」と笑った。青年は理由を深掘りしない。人の生活に踏み込まず、変化だけを喜んでくれる距離感だった。 本屋の店頭には遠い港町の写真が飾られていた。飯塚はいつか行けたらと考え、予定を立てないままページをめくった。そういう余白が今は嬉しい。
午後、飯塚は当番の負担を表にした。休めた一日があっても、全体ではまだ過密だ。交代できる人の育成も、外部委託の費用も検討中である。それでも一度定時で帰れた経験が、仕事を変えられるという現実味を与えてくれた。旅行雑誌は鞄の底で折れずに残っていた。




