消さずに残す
緊急対応の二日目、顧客から「不審なファイルをすぐ削除してよいか」と質問が来た。野江蓮は端末が既に隔離されていることを確認し、証拠保全と復旧の手順を順番に説明した。危険なものを消したい気持ちはよく分かる。しかし消してしまえば、何が起きたか調べられなくなる場合がある。
久世は取得する記録を選び、先方の担当者と作業時間を合わせた。保存された証跡はアクセス権を制限し、取り扱い履歴を残す。便利だからと複製を増やさない。銀利は顧客へ必要な判断を示し、復旧の可否は調査結果に基づいて協議すると伝えた。会社の規模は小さくても、手順を小さくするわけにはいかない。
良助は昼の休憩中、野江から概要だけを聞いた。「消さないほうが安全なこともあるんですね」。野江は「あとで守れるものがあるからな」と答えた。青年は祖母の介護記録を保管した経験を思い出したのか、しばらく何も言わなかった。説明に口を挟まず、聞き終えると給湯室の片づけに戻った。
夜までに、端末への不正な操作が試みられたことは確認された。ただし重要な情報が外部へ持ち出された痕跡は、調べられた範囲では見つからなかった。銀利は「見つからない」と「絶対にない」の違いを顧客へ伝えた。責任ある言い方を選ぶため、報告書の一行を何度も直した。
小田切はようやく当番を引き継ぎ、深く頭を下げた。飯塚は「ありがとう。今日は帰って」と言った。彼女が残した記録のおかげで、後から加わった人間も同じ事実を見られた。仕事を抱えたまま眠るのではなく、次へ渡して眠れる。その手応えだけを持って帰った。




