誰も怒鳴らない顧客
尾高千佳は、電話が鳴っても相手が必ず怒っているわけではないと頭では知っていた。それでも長年の経験から、呼び出し音だけで肩が固くなる。午後、契約先の担当者から連絡が入り、月次報告の閲覧方法について質問された。尾高は深呼吸し、まず困っている画面を聞いた。
先方は以前の報告形式に慣れていて、新しい説明メールを見落としていた。尾高は日下部が用意した定義の二行を読み上げ、必要に応じて画面の位置を案内する。質問は十分で終わった。相手は「丁寧にありがとう」と言った。それだけの電話だった。
席へ戻ると、良助が「今のは緊急じゃなかったですね」と言った。尾高は笑う。「そうね。昔は同じくらい慌ててた」。彼女は着信記録に「解決済み」と書く。分類を作ってから、問い合わせの顔つきが少しずつ変わって見える。急ぎのものを急ぎとして扱うため、急がなくてよいものも正しく扱う。
一方、飯塚の席では別の警告への対応が続いていた。こちらは見過ごせない事案だ。尾高は必要な窓口情報だけを渡し、技術判断へ割り込まなかった。各担当が自分の仕事を担っている。以前は全員が同じ電話へ飛びついていたと、ふと思い出す。 尾高は電話を切る前に、相手がほかに困っていることはないか聞いた。質問はなかった。必要な時にいつでも同じ窓口を使えると説明して終えた。
退勤時、尾高は机の付箋を数えてみた。まだ減っていない。しかし期限と担当者が分かるものばかりだった。家に帰って夕食を作る間、今日の電話の内容を思い出すことはなかった。心配を職場へ置いて帰れた日を、彼女はひそかに数え始めた。




