給与日の前夜
田倉澄子は給与振込のデータを作り、画面の最終確認を二度行った。働いた人へ約束どおり支払う。当たり前のことほど、会社の資金が細い時には神経を使う。銀行への送信を終えた後、彼女は椅子から立たず、しばらく青白い画面を見つめていた。
銀利が会議室から出てきた。大口顧客との更新交渉は不調だったらしい。値上げの必要性を説明し、相手の都合も聞いたが、答えは持ち帰りになった。「今月の給与は大丈夫です」と田倉が先に報告すると、社長は静かに頭を下げた。雇っている側が、いつも支えられているような顔をする。
翌朝、良助は通勤路の花屋で小さな鉢植えを眺めていた。職場へ着いてからは、いつもどおり郵便を受け取り、共有フォルダの整理を始めた。田倉の険しい表情を見て、余計な質問はしない。ただ「今日の発送、午後からで間に合いますか」と尋ねた。彼女は午前に銀行の控えを確認する時間が取れると分かり、ほっとした。
昼過ぎ、田倉は精算書類の束を先に片づけた。良助が代わりにできる作業と、権限上自分だけが行う作業が分かれている。彼に任せたから負担が消えるわけではないが、順番は組み直せた。銀利も外出前に承認を済ませてくれた。 机の上には、先月から使っている電卓があった。キーの文字が一つ薄くなっている。毎月そこを押してきた回数だけ、会社の暮らしを支えていた。
夕方、全員へ給与明細が配られた。誰も特別なことを言わない。その普通さを守るため、田倉が何度も数字を見直したことを知っているのは数人だけだ。彼女は帰りに花屋へ寄り、窓辺に置ける小さな苗を買った。根が張るまで水をやり過ぎないように、と店員に教わった。




