社長の出張鞄
銀利樹一は昔から付き合いのある顧客へ、一人で訪問する予定を立てていた。顧客の技術責任者とは長い付き合いがあり、専門的な話から契約条件まで自分なら一度で判断できる。社員に任せるより早いことは分かっている。しかしその早さが、会社を社長一人へ縛りつけてきた。
訪問前、銀利は真壁へ商談の資料を渡し、日下部へ技術的な説明内容を確認してもらった。二人は社長が全部知っていると思っていた部分に質問した。銀利は答えながら、前提が自分の記憶の中にしかなかったことに気づいた。
訪問先の顧客は銀利より年上だった。数年前の厳しい障害を一緒に乗り切った経験があり、社長同士で話すと決定が早い。しかし後任の若い担当者には、その背景が伝わっていない。銀利は過去の事情を秘密の武勇伝にせず、現在必要な事実だけを議事録へ残した。相手の責任者は「うちも人が育たないと困る」と笑った。駅へ向かうタクシーの中で銀利は、次回から若手同士の打ち合わせを先に行う案を考えた。
真壁は出張前の資料を受け取り、顧客との長い関係が銀利の判断を支えてきたことを知った。ただし自分がすぐ同じ役割を担えるとは思わない。分からない経緯を聞ける人がいる間に記録へ残そうと、質問を書き出した。
銀利は訪問先へ渡す資料の版数を確認し、真壁にも同じ控えを送った。社長が持っているものと、会社が持っているものが違っては困る。小さな確認を終えてから鞄を閉じた。
出張先の会議では、銀利は普段よりゆっくり説明した。顧客の責任者も、後任へ仕事を引き継ぐ予定があるという。二人は取引を続けるために必要な情報を整理し、次回は担当者同士の定例会を増やすことになった。帰りの新幹線で銀利は、自分だけが出られる会議を一つ減らせたと感じた。




