選ばなかった値段
田倉澄子は大手向け見積を出さなかった理由を収支計画へ反映した。受注前の案件を確定売上に入れてはいない。それでも営業の見込みを整理するたび、金額の大きい案件に目が引かれる。紙の上で大きく見える仕事ほど、負担も大きいことを改めて知った。
銀利は現在の顧客ごとの収益と工数を見せた。更新条件を見直した会社も、来年どうなるかは分からない。採算を維持できる範囲を確かめ、新しい仕事はその上へ載せる。大きな契約を見送った日は、社員の勤務予定を動かさずに済んだ日でもあった。
田倉は会議後、真壁へ「断るのも営業の仕事なのね」と声を掛けた。真壁は笑って「難しいですよ」と答えた。かつて値引きして取った仕事を支えたのは現場の社員だった。その人たちが今も机に向かっている。真壁は不採用になった案件の資料を破棄せず、判断の理由だけを社内の記録へ残した。顧客の秘密を必要以上に持ち続けないよう、保存範囲も日下部へ確認した。断った相手にも誠実でありたいと彼女は考えた。
良助は一枚の見積書を受け取り「数字が書いてあると、もう来るお金みたいに見えますね」と言った。田倉は「まだ誰も払うと決めていないのにね」と笑い、見込みと確定を別の色で表示した。色を変えるのは便利だが、凡例を残さなければ読み手は困る。
夜、真壁は家で食器を洗いながら、断った仕事の条件を思い返していた。売上の機会を失った悔しさは残る。それでも誰かに夜中の電話を際限なく取らせてまで受注したいかと問われれば、違うと答えられる。翌朝、彼女は小規模事業者からの見積確認に向かうつもりだった。




