席を空ける試験
田倉は予定していた一日の休暇を取る前に、支払確認の引き継ぎを始めた。書類の場所も銀行への連絡も、長く自分一人で覚えてきた。誰かに渡すには細かすぎると思っていた仕事が、書き出すと数ページになった。彼女は自分が休むための準備なのに、少し居心地が悪かった。
銀利は業務を代行する担当を決め、操作権限が必要な処理は事前に別途承認することにした。口座を扱う権限を気軽に共有してはいけない。真壁は請求書の送付状況を確認し、尾高は郵便物の受領だけを担う。何でも一人で代わろうとはしなかった。
田倉が市場で選んだのは、旬の果物と古本屋の文庫本だった。普段なら品物を手に取っている間も会社の支払日が頭に浮かぶ。今日は果物の値札を見比べながら、家族と週末の予定を話した。夕方帰宅すると、会社からの着信は一件もない。念のため確認したくなる気持ちを抑え、携帯を机の引き出しへ入れた。翌日、会社の報告を読む仕事まで奪う必要はない。休んでいる自分を許す練習が、ようやく始まっていた。
良助は田倉の机を見て「全部の引き出しを説明しなくてもいいんですか」と尋ねた。「必要なものだけね」。田倉はそう答えてから、私物と社内資料を混ぜていたことに気づいた。鍵を掛ける場所も、他人が開けられる場所も、はっきり区別した。
休暇当日、田倉は家族と少し遠い市場へ出掛けた。昼前に携帯が震えたが、仕事の連絡ではなかった。事務所では請求書の受領と照合が予定どおり進み、支払承認が必要な項目だけ翌日に残された。田倉の不在を誰も英雄譚にしなかった。ただ、空いている椅子を空いたままにできた。




