緊急の札
月曜の朝、運用責任者の飯塚航が出社すると、共有ボードの全案件に赤い「緊急」の札が付いていた。顧客の訴えを大切にするために始めた区分だが、誰も札を外さなくなっていた。札のない案件は忘れられそうで怖い。結果として、本当に差し迫った事案がどれか分からない。
先週から研修を受けている良助は、ボードの前で少し首をかしげた。「今日はどれから教わればいいですか」。飯塚は答えようとして、視線を泳がせた。目の前には大きな赤が十七枚ある。指示を出すため、各案件の最新状況を読み直す時間が必要だった。誰かを責める前に、仕事の入口が壊れている。
飯塚は午前の打ち合わせで、優先度を付け直すことを提案した。野江は夜間の警告を最上位にすべきだと言い、小田切は通信が止まった端末のほうが見落とされやすいと話した。二人とも正しい。銀利は議論を遮らず、緊急性と影響範囲を別々に示す分類をその場で書いた。社長は技術の危険度を正確に見抜ける人間だった。
「判断に迷う案件は、保留と書いていい」と銀利が言う。飯塚にはその許可が何より助かった。分からないことを緊急という言葉で隠さなくてもよくなる。全員が自分の担当を確認し、札を外したり色を変えたりした。午後三時、赤い札は四枚に減った。 ボードの札を変える作業は、長く勤めた人ほど慎重だった。自分が付けた緊急の印には、相手を守ろうとした理由が確かにあったからだ。
夕方、良助は新しい分類表を見ながら、まだ知らない専門用語をメモしていた。「分かりましたか」と飯塚が尋ねると、「半分くらいです」と正直に答える。飯塚は説明する時間を明日の朝に確保した。誰にも秘密のない優先順位を、まず新人に伝えられる形へ整えたかった。




