番外編「初恋の行方」(後編)
――大学を卒業するまで待って欲しい。
美咲は婚約を破棄され、両親から勘当されることも覚悟して、レイ皇太子に二度目の延期を申し入れた。
ところが、
『あなたが納得のいくまで、日本で学んでください』
そんな直筆の手紙と共に、延期承諾の連絡が来たのだ。
「こんなはずじゃ……ひょっとしたら、殿下もご結婚したくないのかしら?」
「それは判りません。でも、サトウ補佐官は一日も早い結婚を望んでおられました。議会では婚約を破棄して新たな婚約者を、という声が大きかったんですが」
親や使用人、他の護衛官の目を盗んで、二人は度々抱き合った。場所はどこでも構わない。美咲はマシューに求められるのが嬉しく、情事は彼が運転手を兼ねた車の中が最も多かった。
「大学を卒業する時、アズウォルドに行くわ。そして殿下とお会いして、私の気持ちを伝えるつもり」
「美咲様……私は」
美咲は努めて明るく微笑み、
「そんな心配しないで。あなたのことは言わないから」
王室護衛官は軍の所属ではなく、身分は警察官になるのだという。アズウォルドの公務員の中で、エリート中のエリートだ。その証拠に、彼らには外交官と同等の特権が与えられている。
マシューはアサギ島の中でも貧しい村の出身だった。成績優秀で奨学金をもらい高校に進学、さらには日本の大学まで進む。護衛官の試験に合格した時は、村を挙げてお祭り騒ぎだったという。彼は給料の多くを実家に仕送りし、弟妹は彼のおかげで高校大学と通っている。
(私のせいで、マシューを免職に追い込むようなことだけは出来ない!)
美咲は強く心に決めていた。だが、
「美咲様、私は財産も身分もない男です。ですが、あなたが私を求めてくださるなら……私は国も家族も捨てます。この命を懸けてあなたを守ります」
マシューは右手を自分の胸に置き、左手で美咲の手を握って指先にソッと口づけた。
「マシュー……ありがとう」
嘘でも構わない。たとえ気休めだったとしても。人目を忍んで指を絡めるだけで、ささやかな幸福を感じる。
だが、二人の想いはささやかなものでは留まらず――美咲は婚約者を、マシューは主君への裏切りと知りつつ体を重ね続けた。そんな背徳の悦びに、神は相応しい罰を与えたのだった。
~*~*~*~
『あなたがご実家を出られたことは聞いておりました。しかし、正規の手段を使わず出入国とは……いったい、誰があなたにこんな危険な真似をさせたのですか?』
今、美咲の目の前にいるのは婚約者レイ・ジョセフ・ウィリアム・アズル皇太子。
チョコレート色の髪と紺碧の瞳を持ち、多くの女性にとって優しく気の利いた素敵な王子様だ。だが美咲にとっては、幼い彼女の首に鎖をつけた男性――畏怖すべき対象でしかなかった。
『誰も……全てが私の責任なのです』
美咲は震える声で答えた。
四月の終わり、観光客の影に隠れるように彼女はアズウォルドに逃げ込んだ。本来、美咲が一番来てはいけない国だろう。だが、パスポートもお金も取り上げられた彼女に頼れる人は一人しかおらず……。
『ミス・トオノ。このような真似が出来るのは限られた人間だけだ。私は彼らを罪に問いたくはない。事情を話してくれないことには、力になりようがないでしょう?』
マシューから、皇太子は柔軟な考え方の出来る傑出した人物だと聞いていた。その反面、不法行為には厳しい対処をする、とも。アズウォルドの法律は大雑把にしか覚えていないが、重大犯罪が少ないため罰則規定は重いという。その中でも性犯罪に対する量刑が一番厳しく、死刑もあったはずだ。
美咲の両親は娘の、いや、自らの立場を守るため、病院で「娘は被害者だ」と口にした。それを皇太子が耳にしていたら、マシューは無理矢理犯罪者に仕立て上げられるかも知れない。
『罪は全て私にあるのです。殿下……どうか殿下から婚約を破棄して下さい。世間に、父親の判らない子供をみごもった恥知らずの女だと公表して下さい!』
充分に注意を払っていたつもりだった。だが今年に入り、美咲は体調の変化を感じ取る。恐ろしくて中々受け入れられずにいたが……細身で小柄な娘がふっくらとしてきたことに母が気付き、美咲の妊娠は判明した。
マシューにはぎりぎりまで伝えなかった。だが両親がでたらめを口にし、病院で人知れず処置されそうになった時、美咲は逃げ出したのだ。
そんな彼女を受け入れ、マシューは何か手立てを考えると言った。大使館の人たちも、二人の関係に気付きながら気付かぬふりをしてくれ……美咲を大使館内の彼の個室に庇ってくれたのだ。本国に知られたら、彼らの立場も危うくなるのに。美咲は申し訳なさに居た堪れない気持ちだった。
だが結局、皇太子の理解と協力がなければ事態は打開できないと知り……。
『この子が無事に生まれたら……私はどんな罰でも受けます。でも、子供にも父親にも罪はありません。私の愛を……我がままを……憐れに思い受け入れてくれただけなのです。ですから、どうか……』
美咲はマシューのことは口にしないと決めていた。
彼はアズウォルドに着くなり、美咲を宮殿に送り届け、姿を消した。マシューを恨むつもりなど毛頭ない。監獄に繋がれたような色褪せた美咲の人生に、彼は素晴らしい贈り物をくれた。これ以上、巻き込んではいけない。彼女は必死だった。
ところが、皇太子は深いため息を吐くと困ったように笑い、
『王室護衛官のマシュー・ウィルマー警部が辞表を提出し、そのまま王宮警察に出頭したそうだ。罪状は――警護対象であるミサキ・トオノに対する暴行罪。職権を濫用し恥ずべき罪を犯した、と自白している。共犯者・協力者、共になしと報告を受けているが、さて、どうしたものか』
口を開いたまま、声もない美咲に皇太子は教えてくれた。
マシューは美咲から逃げ出したのではなく、アサギ島に戻り両親に罪を告白して別れを告げてきたのだ、と。「どうか、美咲様がマスコミの餌食になりませんよう。無事に子供が生めますように……お慈悲をお掛け下さい」顔を合わせた皇太子にそう言って頭を下げた。
『他の護衛官や在日大使から叱られた。国のため、不本意な婚約をしたのは私だけではない、と。もちろん判っていたつもりだった。だが私にとって君は、プレゼントで機嫌の取れる九歳の少女のままだったらしい』
美咲は王宮病院のベッドから体を起こすと、床に転げ落ちるように座り込んだ。
『お願い致します。ミスター・ウィルマーには何の罪もありません。全てが私のせいなのです。彼を死刑にはしないで下さい。もしそうなるのでしたら、どうか私も一緒に』
冷たいタイルの上に正座し、両手を揃えて額を床に擦りつけた。
『やめなさい、ミサキ。君らは何か勘違いをしている。私は暴君ではないし、我が国には愛し合う恋人たちを引き裂く法律はない。悪いようにはしない。私を信じて任せてくれるね?』
美咲はこの時初めて、十二年間も婚約していた男性の本当の姿を知ったのだった。
~*~*~*~
『ミセス・ウィルマー! お久しぶりね。もっと王宮に遊びに来てくれたらいいのに』
聞き覚えのある声に美咲は振り返った。
声の主はなんとアズウォルド王国の王妃クリスティーナ。隣にはレイ国王も笑顔で立っている。
王宮正門前に広がる王宮前公園は、市民の憩いの場であった。老夫婦から若いカップル、遠足の子供たち、親子連れまで皆が思い思いに過ごしている。そこにフラリと現れるのが、即位したばかりの新国王夫妻だった。
美咲は、今年二歳になる長男ジョナスと二月に生まれたばかりの長女シェリーを連れ散歩中だ。
『両陛下……ご無沙汰しております』
礼儀正しく頭を下げようとするが……。
ジョナスは国王の後ろに立つマシューを見つけ、『パーパ!』と叫びながら飛びつこうとする。美咲は必死で息子の洋服を掴み引っ張った。
そんな美咲の様子をクスクス笑いながら、かつての婚約者は護衛官に向かって声を掛ける。
『ああ、マシュー、君に命令だ。私の元婚約者殿とその家族を、無事に自宅まで送り届けてくれ。君も直帰して構わない』
恐縮しながらも王命には逆らえず、一礼して美咲たちのもとに駆け寄るマシューだった。
『本当なら君があの場所に立ってたんだな』
遠ざかる国王夫妻の後姿を見つめつつ、マシューが美咲に話しかける。
マシューは結婚直後、通常の王宮警備の仕事に回された。左遷も同様だったが、この春、やっと護衛官の仕事に戻れたのだ。
しばらくはマスコミに名前が挙がり、官舎住まいの美咲は好奇の視線に晒された。
『二LDKの狭い官舎に住み、家事や育児に追われることなく……プリンセス同然に育てられて、本当のプリンセスになる運命だったのに』
夫の言葉に、美咲は少し口を尖らせた。
『それって……あなたが後悔してるってこと? 本当なら王妃専属の護衛官になれたのに、って』
低い身長は変わりないが、彼女は二度の妊娠出産で胸や腰回りはそこそこ豊かになった。白い肌は南国の日に焼けて健康的な色になり、二人の子供を抱えるため腕には筋肉もついている。
上目遣いで妻に睨まれ、マシューは慌てて言い訳を始めた。
『まさか、君を手に入れるためなら……日本まで泳いで渡る覚悟もあった。本気だよ』
はるか昔、この国では花嫁の住む島まで泳いで渡り求婚していたという。だが、いくらマシューが遠泳が得意でも鮫の徘徊する外海を二千キロも泳ぐのは不可能だろう。それを承知で美咲は尋ねる。
『本当に?』
『ああ、もちろんだ』
悪戯盛りの長男を抱きかかえ、二年前と同じ仕草で胸に手を当てた。
――美咲の前に彼女だけの王子様がいる。
そして彼女の漆黒の髪には、マシューだけに見える光のティアラが煌いていた。
~fin~
御堂です。
ご覧いただきありがとうございます。
キリ番(サイトアクセス100万)リクエストとして書かせて頂きました。
現在「琥珀色の誘惑」とのコラボ作品を連載中です。
タイトル「紺碧の海 金色の砂漠」⇒http://book.geocities.jp/arlequin_roman/pic/novel/kohaku2/index.html
(R15ですが「小説家になろう」さんの基準より、少し性描写が高めです)
良かったらお越し下さいませ(^^)/