第九十二話:姉妹
誘拐から戻ったセラフィーナを、従姉のエステラが片時も離れず見守っている。
セラフィーナは枕元に寄りかかって、『近代史綱要』を膝の上に広げていた。
ページは中ほどで止まっていた。
実のところ、ここ数行の文字は全くと言っていいほど頭に入っていない。
ただ、こうして本を持って読んでいる姿を見せておけば——
(特にさっきから十分おきに扉の隙間からジッと様子を窺ってくる従姉さんが、少し大人しくなってくれる)
家の人間から見れば、それはそうだろう、とセラフィーナも分かってはいた。
何日も物騒な連中に監禁されていた上、肘の内側には複数回の採血の痕まで残っているのだ。
どう考えても、本当に無事なはずがない——
「私、何ともないんですが」
と言うたびに、怒涛の小言で押し切られてしまうのだった。
三度試みて、三度とも同じだった。
諦めた。
ベッドの上で本を読んでいる方が、まだ小言を聞かされるよりはいい。
窓のカーテンは半分だけ引かれていた。
午後の光がそこから斜めに差し込んできた。
しばらく体験できていなかった、何でもない昼間の心地よさだった。
シーツは昨日替えたばかりで、洗濯石鹸のかすかな香りがまだ残っていた。
ベッドの横に従姉さんがいなければ、もっと落ち着けるんだけど。
エステラはベッド脇の椅子に座っていた。
手にりんごと果物ナイフを持っていた。
座り方は冒険者ギルドの会議室にいる時とまったく同じで、どっかりと股を広げて構えており、家の中だからか、かろうじて大開きにするのだけは控えている様子だった。
家の中だと少しくらい気を使うらしかった。
表情は真剣で、集中していた。
ただその集中力が、りんごの皮をむくことに向けられていたので、結果はよくなかった。
ナイフの入り方が深かったり浅かったりで、むけた皮は太さが揃わず、何か所も途中で切れた。
りんご自体はもう、どこから見ても球体ではなかった。
不規則な多面体と呼ぶ方が正確だった。
剣の柄を握り慣れた手は、果物ナイフの力加減には向いていないらしかった。
セラフィーナは本のページの上から目だけを出して、そのりんごがまた一刀受けるのを見た。
果肉が余分にえぐれて、途中で千切れた皮と一緒に皿に落ちた。
「……苦手なことを無理にしなくていいですよ。皮つきのまま食べられますし、侍女を呼べばいいです」
エステラはナイフを止めた。
手の中のりんごを見た。
セラフィーナの、本の上からのぞいている無表情な目を見た。
少し間があった。
それから黙ってりんごを差し出した。
セラフィーナは受け取って、皮をむかれていない面を探して一口かじった。
エステラはナイフをベッドサイドテーブルに置いた。
親指で刃についたりんごの汁を拭って、ハンカチで拭いた。
何気ない動作だった。
でもセラフィーナには分かった。
この流れの次には、本題が来る。
「血を抜かれたこと、何のためか分かるか?」
「分かりません。何も言われなかったので」
セラフィーナは口の中のりんごを飲み込んで、付け加えた。
「別のものは注射されましたけど」
エステラは勢いよく立ち上がった。椅子の脚が木の床を擦り、悲鳴のような甲高い音を立てた。彼女はセラフィーナを見下ろし、目をカッと見開き、口を真一文字に結んで、歯を半分剥き出しにしていた。
「なんで今まで言わなかった。そんな大事なこと——」
「言う必要がないと思ったので」
セラフィーナはりんごをもう一口かじった。
「変異もしてないし、中毒症状もないし、どこか調子が悪いこともないです」
「それは今たまたまそうなだけかもしれない。発症してないだけで」
エステラの声が少し上がった。
セラフィーナの手首に手を伸ばした。
「行くぞ、神官のとこに——」
セラフィーナは枕の方へ数センチだけ身を引いた。差し出された手を避けるように、ベッドの内側へわずかに身を引いた。
座り直しているように見える、自然な動きだった。
エステラの手が宙で止まった。
引っ込めた腕を見た。
その無表情な目を見た。
一瞬、止まった。
手を引っ込めた。
「……神官を家に呼ぶ」
エステラが再び口を開いた時、声のトーンは普段に戻っていた。
「いりません」
セラフィーナは少し低い声で答えた。
「もう治してもらいました。昨日来た神官も、特に異常はないって」
「注射されたって言ったじゃないか」
「注射されました。でも治してもらいました」
セラフィーナはりんごの芯を皿に置いて、ベッドサイドテーブルからティッシュを一枚引いて手を拭いた。
「逃げる時に、一人に会って。騎士団の、カルガスという人でした。でも助けに来たわけじゃなくて、殺しに来たんです。拉致した連中と同じ側の人間でした。一発殴られて——かなり吹っ飛びました。もう少しで死んでいたと思います」
エステラは途端に眉をひそめた。
「なんだと!? カルガス? 勲功騎士のカルガスか? あいつがその連中の仲間だったってのか?」
彼女はその名前に覚えがあった。騎士団の中で実力トップ3に入る古株で、少々素行が悪く、体術に長け、実戦では凶暴な男だ。
「勲功騎士ですか。もしかしたらそのカルガスのことかもしれません。本人は勲功とは言っていませんでしたが、確かにすごく強かったです」
セラフィーナは手振りで示した。
「一発で。私を吹き飛ばして、もう少しで死ぬところでした。そこに一人の人が現れたんです。自称、魔女とかなんとか」
「魔女?」
エステラが眉をひそめた。
セラフィーナはこくりと頷き、ティッシュを丸めてベッドサイドの小さなゴミ箱に捨てた。ゴミ箱の底にはすでにいくつも丸まったティッシュが溜まっており、すべて彼女がこの午後、手や口を拭いては捨てたものだった。
「聖剣の魔女、と自分で言っていました。黒と白の配色で、細い西洋剣を持っていました。最初に治癒魔法をかけてくれました。緑色の光が飛んできて、体に当たったら——温かかったです。ぬるいお湯の中にいる感じ。骨折していた場所が痛くなくなって、内出血も止まりました。数秒で」
エステラの眉がゆっくりと上がった。
「それほど手慣れた治癒術なら、冒険者ギルドに放り込んでも引く手あまたの神官になれるな。で、そのカルガスは? 魔女を追ったのか?」
セラフィーナは視線をエステラの顔から外した。
カーテンに半分隠れた窓の向こうの青空を見た。
「魔女に殺されました」
エステラが黙った。
治癒ができて、なおかつ秘銀級の功勲騎士を打ち倒した。
攻撃も回復も戦場の制圧も、一人でこなせる——
冒険者ギルドの等級区分では、もうどのカテゴリにも収まらない。
「魔女が領域を展開しました。丸い、泡みたいな形で、私だけ外に出しました。中が白い光で満たされて、何も見えなくなって。光が収まったら——魔女も、カルガスも、学院もなくなっていました」
セラフィーナは水を一口飲んだ。
エステラは何も言わなかった。
気づくと立ち上がっていた。
脳裏に別の光景が浮かんでいた。
王都第一学院の方角から光の柱が夜空に向かって伸びた、あの瞬間。
空が真っ二つになった。
片側が白昼で、もう片側が夜だった。
あれを見た夜、エステラはめずらしく眠れなかった。
後日、ギルドの内部資料室で調べられる限りの記録を当たった。
勇者関係の記録を除けば、あの出力を出せる冒険者も、神器も——記録には一件も存在しなかった。
その光柱の出所が、たった一人の人間だった。
丸い光の領域を展開して、カルガスと学院ごと物理的に消し去って、静かに立ち去った誰か。
(勇者か)
(魔界四天王か)
(あるいは、魔王か)
頭の中で選択肢を並べた。
今代の勇者はまだ正式に確認されていない。
候補者は複数いて、それぞれが独自に動いているという情報がギルドの極秘回覧に載っていた。
エステラ自身も、その候補者の一人に数えられていた。
でも、あの魔女は——大陸中の実力者の名前を頭の中で引っ張り出しても、一件も一致しなかった。
先代の勇者なら、誰も知らないはずがない。
勇者候補なら、身元は公開されている。
魔界四天王なら、わざわざ人間の貴族令嬢を救う動機がない。
そして魔王なら——
(王都の地下で、怪我をした女子学生を治療して、何も奪わず静かに立ち去る魔王)
背筋に、初めて薄い寒気が走った。
それも、ありえない。
ならば何者なのか。
エステラはゆっくりと椅子に戻った。
立ち上がった時の十倍くらい、ゆっくりと。
両肘を膝の上に置いて、組んだ指を額に当てた。
「私は、あの魔女は悪い人じゃないと思います」
考え込んでいたエステラが顔を上げた。
セラフィーナはこちらを見ていた。
いつもの死んだ魚のような目ではなく——めずらしく、少し自信のある目をしていた。
「セラ、お前はまだ学生だ。外の厳しさをまだ全部は知らない」
エステラは背もたれに体を預けた。
腕を肘掛けに乗せた。
「一瞬で第一学院を消して、ペルシ山を両断した。あの魔女にとって、お前は道端の野良猫が蹴られかけているくらいの話だったかもしれない。ついでに助けた、だけかもしれない。でも、悪い人かどうかの問題じゃないんだ。それが善人かどうかなんて、あの次元では意味をなさない」
立ち上がった。
今度は素早かった。
扉の前で一度だけ振り返った。
「ゆっくり休め。私はギルドに行ってくる」
扉が外から閉まった。
廊下で侍女に「お嬢様をベッドから出さないで」と声を潜めて言いつける声がした。
それから足音が二階から一階へ降りていった。
段を踏むたびに急いている音がした。
玄関の重い樫の扉が、低い音を立てて閉じた。
セラフィーナは閉まった扉を見た。
皿の上のぶどうを一粒取った。
口に入れた。
あの円形の結界のことを思い出した。
光が満ちる直前、魔女が光の中に立っていた。
西洋剣の光芒がほとんど直視できないほど眩しかった。
でも、その表情は——少し、怒っているように見えた。
カルガスが何を言ったのか、どの言葉が魔女の気に障ったのか、思い返してみても分からなかった。
(まあ、いい)
ぶどうをもう一粒取った。
従姉さんはギルドに行って調べるだろう。
勇者、勇者候補、魔界四天王。
何でも調べればいい。
ギルド中を巻き込んで調べればなおいい。
そうすれば少なくとも、ここ数日は——
(従姉さんが来てドアを覗かないで済む)
セラフィーナはもう一粒つまんで、また本を開いた。
文字は相変わらず全然頭に入ってこなかったけれど、それはまあ、別にいい。
【第九十二話・終】
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