第九十話:ちゃんと勉強しなきゃダメだよ
世界を良くするために、自分が強くなる。
それが、この母さんの“教育”だった。
富豪二世の現実を消化し終えた頃には、空がすっかり暗くなっていた。
消化に時間がかかったわけでも、日が沈んだわけでもない。ただ、大雨が降ろうとしていただけだ。
雲の塊が西から押し寄せてきて、何層にも重なって夕焼けの残り火を完全に覆い隠した。
空気の中に湿った土の匂いが混じり始め、通りの露店商たちが次々と空を見上げて、手早く店じまいを始めた。
「雨が来るね、ウリちゃん」
ウリエルが頷いてクラフト紙の包みを二つ提げると、ガラティーナも残りの三つを大事そうに抱え直す。二人が急ぎ足で商業通りの路地を曲がったその瞬間——大粒の雨がポツリと落ちてきた。
数粒降ったと思ったら、大粒の雨に変わっていた。
石畳の上でパッと弾けて、黒い小花を咲かせた。
空が誰かにいきなり引き裂かれたみたいに、雨が一気に降り注いだ。
ガラティーナの反応は速かった。
三つの包みを胸にかき寄せ、肩を少し傾けて斜めに吹き込む雨を遮り、すぐ横の閉まった雑貨店の軒下に目をやった。
二人して小走りで軒下に駆け込んだ。
軒は狭かった。
辛うじて二人と五つの包みが収まるくらいで、端から流れ落ちる雨水が水のカーテンになって、足元の石畳を叩いていた。
「ママ、傘持ってきてるよ」
ガラティーナが片手を空中に伸ばした。
手首にはまだ服の入った紙袋の紐が引っかかっていた。
収納空間から二本の傘を引き出した。
一本は地味な折り畳み傘、もう一本は少し大きめの水色の長柄傘だった。
ウリエルは傘を見て、それから外の土砂降りを見た。
石畳に叩きつけられた雨飛沫がもう足首ほどの高さになっていた。
通り向かいの街灯が雨幕の中でぼんやりした黄色い光の塊に滲んでいた。
地面にはすでに水たまりができていた。
「この雨、けっこうやばいな。服も持ってるし」
包みを揺すって持ち直した。
「少し待とう。雨が弱くなってから行けばいい」
ちょうど隣がカフェだった。
入口に吊るされた木製の看板が雨に濡れて艶光りしていた。
花文字で「鹿のマークの珈琲店」と彫ってあった。
ウリエルは肩でドアを押し開けた。
入口の真鍮の鈴がチリンと鳴った。
店の中は狭かった。
テーブルが五つか六つ、暖かい色の灯りが濃い色の木の天板を柔らかく照らしていた。
空気の中にコーヒー豆を焙煎した焦げた香りが漂っていて、雨の日特有の湿った匂いと混ざり合って、意外と悪くなかった。
窓際の席がちょうど空いていた。
ウリエルはそこに歩いていって包みを隣の椅子に置き、椅子を引いて座った。
ガラティーナは彼の向かいに座ると、まずは三つの紙包みを壁側の椅子の内側に丁寧に重ねた。
どこからか吹き込んでくる雨飛沫に当たらない位置を確認してから、やっとメニューを手に取った。
ホットコーヒーが二つ運ばれてきた頃には、窓の外の雨はさらに激しくなっていた。
ウリエルはカップを持ち上げてひと口飲んだ。
苦みが舌先で爆ぜて、それからコーヒー豆特有の濃い後味が広がった。
この体験はなかなか特別だった。
頭の中のコーヒーのイメージといえば、前世では缶コーヒーか甘いやつだった。
こういう味は初めてだった。
椅子の背もたれに寄りかかって、窓の外を見た。
通り向かいの軒下には、三、四人の雨宿り客が集まっていた。買い物かごを提げた女性が裾の水滴を払い、学生らしい二人連れが鞄を頭に掲げ、杖をついた老人が一番奥でじっと立っている。
傘を差した通行人が足早に横切り、雨が傘面を叩く音だけが通りに響いていた。
傘の表面を雨が叩いてパラパラと音を立てていた。
通りの角から馬車が曲がってきて、馬の蹄が水たまりを踏んだ。
跳ねた泥水が軒下で雨宿りしていた人の脚を直撃した。
その人が跳び上がって何か怒鳴った。
馬車の御者は振り返らなかった。
そこで、一人の人間に目が止まった。
通りの向こうをもう少し先、二軒の店の間の軒のない空き地に、看板持ちの若者が立っていた。
若い男だった。
すでに雨でぐっしょり濡れた安物の布服を着ていた。
胸と背中に木製の看板がそれぞれ一枚ずつぶら下がっていた。
派手な彩色文字で書いてあった。
「王都大劇場・新演目《薔薇騎士団》・毎夜七時開演」
手には小旗も持っていた。
雨に打たれて旗竿に貼りついていて、元の色が全く分からなかった。
雨水が髪から滴り落ちて、頬を流れて、襟元に入っていった。
彼は顔の水を手で拭って、深く息を吸い、誰もいない通りに向けて叫び続けた。
「《薔薇騎士団》——今夜上演——前列席まだあるぞ——」
声は雨幕の大半に吸い込まれて、ここまで届いたのは途切れ途切れの音節だけだった。
彼は雨宿りに行けなかった。
すぐ横に軒を持つ店が何軒もあったが、他人の看板を持って他人の店先で客を呼ぶことはできない。
それは暗黙のルールだった。
公共の屋根もなかった。
アーケードもなかった。
彼はただ雨の中に立って、叫び続けた。
ウリエルは誤魔化すようにコーヒーを一口飲んだ、雨で滲んだガラス越しにその男を見た。
(こういうのはどの世界にもあるんだな)
声には出さなかった。
転生する前にも見た。
転生した後にも見た。
時代が変わった。
世界が変わった。
魔法が科学の代わりになった。
それでも雨の中で看板を持って立つ若者の姿は、何一つ変わっていなかった。
「ウリちゃん」
向かいからガラティーナの声が聞こえた。
「ん?」
「あの人、見えてる?」
ウリエルはカップを置いた。
「見えてる。大変そうだな」
(来た)
DNAが反応した。
次は何を言うか分かっている。誰もが子供の頃に一度は聞かされる言葉だ。
雨の日、道端で誰かが働いている。
そういう場面で大人は子供にこう言うものだ。
だからちゃんと勉強しなさい。
そうじゃないとあの人みたいに雨の中に立つことになるよ。
(ついに来たか)
(母さん、まさかあんたまでそんな打算的な俗物になっちゃったのか)
でも母さんは心が優しいし、型通りにやらない人だ、ということも分かっていた。
指を折って考えてみた。
おそらくこう来る。
「そうじゃないと、こんなふうに苦労してる人を助けてあげられないよ」
そしてウリエルが頷いて、話は終わる。
「そうだね」
ガラティーナは小さく息をついた。
そして立ち上がった。
「だからウリちゃん、ちゃんと勉強しなきゃダメだよ」
水色の長柄傘を手に取った。
「そうじゃないとぉ、みんなをあんな風に辛い目に遭わせずに済むように、助けてあげられないからねぇ」
ウリエルは頷きかけた。
予想通りだ——
待て。
眉がゆっくりと寄った。
みんなって誰の話だ。
ガラティーナはもう傘を差してカフェを出ていた。
あの看板持ちの若者の前まで歩いていって、折り畳み傘を差し出した。
若者は呆然と立ち尽くし、信じられないといった顔をした。額を伝い落ちる雨水をそのままに数度瞬きすると、差し出された傘へと視線を落とす。濡れた小旗を握りしめるその指は白く凍え、関節は強張ったまま曲がっていた。やがて、口元が微かに動く。
「ありがとう」と言ったのかもしれない。
雨水が唇を震わせただけかもしれない。
傘を受け取った。
濡れた指がしっかりと柄を握りしめた。
気がつけば、ガラティーナはもう踵を返してカフェに戻ってきていた。入口で長柄傘の雫をパサパサと振り払い、チリンと鈴を鳴らして店へ入る。彼女は何もなかったように元の席へ座り直すと、壁に傘を立てかけ、すっかり冷めたコーヒーをひと口飲んだ。
そして眉をわずかに顰めた。
ウリエルは彼女を見つめ、聞き間違いではないかと追及した。
「母さん。今何て言ったの。みんなに辛い思いをさせない、って」
「みんなだよ」
ガラティーナはカップを置いて、両手を膝の上で重ねた。
表情は真剣で、迷いがなかった。
「ウリちゃんが一生懸命勉強して強くなったら、世界をもっと良くできるでしょ。みんながこんな苦しい思いをしなくて済むように。ママはそう思ってるから」
ウリエルはコーヒーカップを持ち上げて、戦術的にひと口飲んだ。
確かに冷めていた。
苦みがさっきより際立っていた。
世界をもっと良くする。
みんなが雨の中で看板を持たなくて済むように。
大きすぎる命題だった。
どこから手をつければいいのかも分からない。
どっかに熱血主人公いないかな。
こっちに回してくれ。
カップを置いて、指を机の上でトントンと叩いた。
この重さをどう受け止めるか考えて、とりあえずツッコミで返すことにした。
「母さん、俺に背負わせてるの、ちょっと重すぎない? 世界を変えるって、さすがに」
「そう?」
ガラティーナがわずかに首を傾けた。
その顔は「ママはあなたを信じてるよ!」という、ありきたりな精神論の励ましではなかった。
もっと落ち着いていた。
すでに確認済みの事実を述べているような顔だった。
「水は低いところに流れる」「太陽は東から昇る」を話すときと同じ顔だった。
当然で、疑う余地がなかった。
「でも、ウリちゃんはすごいから絶対できると思う」
彼女はそう言った。
「それ、プレッシャーがすごいんだけど」
ウリエルはジト目を向けた。
ガラティーナは彼を見た。
それから口の端がもう一度ゆっくり上がった。
さっきの「当然の事実」を語る眼差しとは少し違う光が瞳の中に流れていた。
眉を顰めてぼやいている彼をあやしたいけど、あやされたとは気付かせたくない、という柔らかさだった。
「じゃあウリちゃんは自分がやりたいことをやればいいよ。ウリちゃんは優しい子だから、心のままに動いても、世界はきっとちゃんと良くなるって、ママは思う」
ウリエルは適当に返事をして、コーヒーカップの縁に指を当てた。
心の中では、まあそんなもんかもな、と思った。
優しいとは言えない。
でも少なくとも積極的に誰かを傷つけようとは思わないし、雨の中で立っている人間を見たら辛そうだと感じる。
もし自分が優しくなかったら、たとえば彼女に悪いことをやらせようとしたとする。
——それはもう、世界を滅ぼす大魔王そのものだ。
母さんはたぶん断らない。
真剣に最後まで聞いて、頷いて、「ウリちゃんがそう思うなら絶対に理由があるよね、ママやってあげる」と笑顔で言う。
この世界が今日まで存続しているのは、たぶん自分が二回分の人生を合わせてどうにか及第点の倫理観を持っていたおかげだ。
そう考えると、「ウリちゃんは優しい子」という彼女の言葉もあながち間違ってはいない。
この因果関係は、どこか可笑しくて、どこか言葉にならない重さもあった。
窓の外の雨が少しずつ弱くなっていた。
土砂降りからしとしとの霧雨に変わっていた。
通り向かいの軒下の人たちが試しに手を伸ばして雨の勢いを確かめ始めていた。
確認が終わったら足早に走り出した。
石畳の水たまりに街灯の光が映って、雨粒が叩くたびに輪が広がった。
「行こうか」
ウリエルは立ち上がって、クラフト紙の包みを二つ手に取った。
ガラティーナが三つの包みを抱えて、水色の長柄傘を持った。
カフェのガラスのドアを押し開けると、雨上がりの清々しい空気が土と草の匂いと一緒に飛び込んできた。
通りに人が少しずつ戻り始めていた。
あの看板持ちの若者はもう元の場所にいなかった。
傘を持ったので別の場所に移動したのか、それとも早めに上がったのか。
ウリエルはその空っぽの場所を一瞥して視線を戻す。身体の奥がほんの少しだけ温かい。ホットコーヒーのせいかもしれないし、そうじゃない理由かもしれない。
二人は並んで、雨に洗われた石畳の道を、急がず、遅れず、宿の方向へ歩いていった。
【第九十話・終】
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