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第八十八話:田舎から来たママ

戦いの後の、小さな買い物の時間。

それでも、親子の間には、まだ秘密がいくつも転がっている。

学院委員会からの通知が、事件から三日後に正式に届いた。


ウリエルはソファに腰かけ、赤い公印の押された通知書を指先でつまんでいた。


内容は短かった。


文面は官僚的だった。


「第一高等学院は不可抗力により校舎が全壊したため、委員会の緊急協議を経て、本日より全校休校とする。復校時期および今後の教学手配については、別途通知する」


通知書をローテーブルに放り投げると、ウリエルの頭の中では二つの思考が激しく衝突し始めた。


魔女というのはかくあるべし。威圧感は最大値。潜在的な敵はみんな一から計算し直さざるを得ない。完璧な戦略的抑止。


いや待て。学校ぶっ飛ばしてどうするんだ。地上部分には生徒数百人が使っていた教室も、図書館も、実験室も、食堂も全部あったんだぞ。修繕中で校舎に誰もいなかったとはいえ、建物そのものは王都第一学院の財産だったんだが。


脳内会議が白熱した結果、最終的に導き出された結論はただ一つ。


休校だ。つまり、もう学校に行かなくていい!


午後の陽光が窓から斜めに差し込み、床の上に暖かな黄色の帯を作っていた。


ティアンはベランダにしゃがんで、窓台の多肉植物に水をやりながら、知らないメロディを鼻歌で歌っていた。


ウリエルはソファに寄りかかって少しの間それを眺めてから、立ち上がってぐーっと背伸びをした。


「母さん、街に出る。荷物選ぶの手伝って」


ティアンが振り返った。


じょうろの口を戻す間もなく、目が輝いた。


じょうろをベランダの隅に置き、エプロンを外して椅子の背もたれにかけ、振り返ったらもう玄関に立っていた。


そこでウリエルが付け加えた。


「前のママの格好に戻して。髪も少し伸ばして。第一学院の正門前で集合。出るときは旅館の正面玄関は使わないで」


ティアンはその突然の注文に一瞬固まって、理由を考えた。


自分が着ている灰青色の短い外套を見下ろし、また顔を上げてウリエルを見た。


瞬きをした。


ウリエルはもう靴を履き替えていた。


靴を履き終えると扉を開け、廊下を左右確認して、するりと出ていった。


扉が背後で静かに閉まった。


ティアンは首をかしげ、顎に指先を当てた。


前の格好に戻す。髪を伸ばす。正面玄関は使わない。


最後にはなんとなく答えに行き着いた。たぶんまた小ウリの何かの計画なのだろう。


身に着けている服を見下ろし、衣紋掛けから少し色が褪せた古い普段着を取り、ぱっと広げて、着替えた。




ウリエルは早めに着いた。


更地の縁に立ち、両手をポケットに突っ込んで、目の前の光景を見ていた。


しばらく動けなかった。


実際に目で見て初めて、その規模を実感した。


王都第一学院の跡地全体が、街よりも大きなカンナで一削りされたかのように、地盤の断面が鏡のように滑らかで平らだった。


何か理屈を超えた力が、構造ごと消し去ったとしか思えない切り口だった。


ただただ何もない綺麗な更地で、その綺麗さが逆に背筋を凍らせた。


本館、講堂、図書館、グラウンド、裏山、搬入通路——全部消えていた。


これほどの光景を見たのは、「お前は俺の全盛期を知っているのか」と尋ねてから石を二つ落としたあの男以来だ。


視線を更地に走らせたところで、ふと止まった。


更地の真ん中に、削られていない小さな一角があった。


おそらく一平方メートルほど。


周囲の滑らかな断面から、ぽつんと浮き出るように残っていた。


柱の根元のような形で、不規則だが縁は滑らかだった。


周りの全てが消されているのに、そこだけが無傷で、元の石畳の模様まで残っていた。


ウリエルは目を細めて少しの間それを見て、結論を出した。


(……たぶん母さんが立っていた場所だろうな。エーテルフィールドを展開したとき、自分の足元は当然巻き込まれない。意外と几帳面だ)


実際にそこはセラフィーナが座っていた場所だった。


魔女が結界を張った際に、意図して彼女を除外した安全区域だった。


しかし今のウリエルはその細部を知らなかった。


「ウリちゃ〜〜〜ん」


声が街角から飛んできた。


遠いのに、まっすぐ耳に届いた。


語尾が異様に長かった。


ウリエルは声の方向に顔を向けた。



ガラティーナが通りの向こうで、つま先立ちになって手を振っていた。


銀髪は記憶の中の長さに戻っていた。


少し伸ばしてあって、緩めの三つ編みにして肩の前に垂らしていた。


着ているのは、洗いすぎて少し色が抜けた無地のワンピースだった。

袖口と衿元が擦り切れていた。

肩には洗い晒しの布バッグをかけていた。


王都の商業通りを歩く、精緻なウール地のコートや絹のロングドレスを着た人々の中に立つと、田舎の小さな町から夜通し馬車に揺られて上京してきた初々しい若妻のように見えた。


ただ、その美貌だけは隠しきれていなかった。


その顔と古着が並ぶと、粗い麻布の上に真珠を無造作に置いたようなちぐはぐさがあった。


ウリエルが口を開く前に、ガラティーナはもう小走りで通りを渡ってきた。


一歩ぶんの距離で止まった。


両手でウリエルの肩をつかんで、そのままぐっと引き寄せた。


「ママ、ウリちゃんに会いたかったよぉ」


顔がガラティーナの胸元に埋まった。

鼻腔に、あの懐かしい、かすかな花の香りと陽光の匂いが混ざったものが広がった。


柔らかさは相変わらず規格外だった。


脳が一瞬フリーズした。


第一反応は手で押しのけようとすること。


しかしガラティーナの腕の締め付けが強く、身動きが取れなかった。


次に「昨日も会ったじゃないですか」と言おうとすること。


そこでふと思い出した。


これは学校に子供を訪ねてきた母親という設定だ。


長らく会えていなかった母親が、田舎から長い馬車旅をして王都までやって来て、学校の正門前で首を長くして待って、ようやく会えた我が子に抱きついている、という設定だ。


設定上は合理的だ。


(……ただ普通の親なら学校がなくなってるのを見て「学校どこ」ってなりそうなものだが)


ガラティーナの手の甲を軽く叩いた。


強くはなかった。


少しの諦念が込もっていた。


「これは演じなくていい」


ガラティーナは腕を緩め、半歩退いて笑った。


ウリエルは揉まれた衿元を直して、顎で方向を示した。


「行くよ。商業通り」




学院の更地から商業通りまでは、距離自体はたいしたことなかった。


ただ、道のりはウリエルの見積もりよりずっと長く感じた。


振り返られすぎた。


ガラティーナは静かにウリエルの隣を歩いていた。古いワンピースの裾が膝下でふわりと揺れ、肩の前に垂らした三つ編みと、両手で大事そうに抱えた洗い晒しの布バッグが、彼女の田舎娘という『設定』をより一層際立たせている。


視線は通りの両側のショーウィンドウと看板の間を跳ね回っていた。


何を見ても、ほんの少し目が大きくなった。


パン屋の店先で焼き上がったクリームロール、仕立て屋のショーウィンドウに飾られた夏物の新作、花売りの少女のかごに咲き誇る瑞々しいデイジー。


本当に何でも、きれいに見えているらしかった。


ウリエルは隣を歩きながら、ポケットに手を突っ込んで正面を向いて、後頭部で四方八方からの視線を感じ取っていた。




「ねえ見て、あの二人——恋人同士かしら? 都の坊ちゃんと田舎の村娘みたいで」


中年の女性が連れの肘をつついた。


「村娘って、あれ姉弟じゃない? 姉が田舎で弟を養って都に学校通わせてるやつ。ほら服見てよ、いいのは全部弟に回してる感じで」


「姉弟にしても年が合わなくない? あの娘そんな年寄りに見えないし。もしかして坊ちゃんの——なんか特殊な趣味?」


「ちょっと小声にして。あの男の子こっち睨んでる」


ウリエルは視線を戻して、表情を変えずに歩き続けた。


隣のガラティーナをちらと見た。


髪は確かに伸びていた。


旧い家にいた頃とほぼ変わらない長さだ。


「ほぼ」どころか、完全に変わっていない。


十年前の彼女も今の彼女も、同じ顔だ。


一本の皺もない。


肌は昔と変わらず滑らかで、笑っても目尻に細い線が入らない。


こちらを見下ろしてくるときの、目の奥に収めた金色の光も、十年前と寸分変わらなかった。


以前はスキンケアが行き届いているんだと思っていた。


でも今になって考えると、どれだけケアしても十年間まったく変化なしはありえない。


「母さん」


ウリエルが小声で訊いた。


「ん?」


「十年前と全然変わってない。髪も伸ばしたいときに伸ばせるし」


ガラティーナがこちらに顔を向けた。


笑みは消えなかった。


ただ口角がほんのわずかだけ収まった。


変化は極めて微細だった。


他の誰かなら気づかなかっただろう。


でもウリエルは小さい頃から彼女に育てられてきた。


彼女が答えにくい質問をされたとき、いつもこうなる。


「ママには祝福があるの」


少し言葉を選ぶように、いつもより間を置いた。


「体が自動的に最良の状態に調整されるの。髪もそう、だから気ままに変えられる。体も——最良の時期を保つようになってる」



ウリエルは黙った。


祝福。


自動的に最良の状態に調整。


最良の時期を保つ。


言葉が湖の中心に投げ込まれた石のように、波紋を広げ続けた。


第一の思考——長命種。


人間にそんな祝福はない。


高位冒険者でも体を「最良の時期」に固定することはできない。


せいぜい老化を遅らせる程度だ。


エルフは数百年生きられるが、それでも老いる。ただ遅いだけだ。


時間を完全に止められるのは、歴史書にも半ページしか記録が残っていないような、古い古い存在だけだ。


「長命種なの?」


喉まで出かかったが、飲み込んだ。


(やめておこう)


(聞いて「ママ、たぶん三千歳くらいかな」とか、もっとひどいのだと「ママもあんまり覚えてないなぁ」とか返ってきたら、今後、年の瀬に家族で食卓を囲んで「母さん」と呼べるかどうかすら怪しくなる)


数千、数百という数字は、知らないままにしておくほうがいい。


そう判断して、別の質問をした。


もっと実際的で、ずっと前から気になっていたことだ。


「髪は? なんで自由に変えられるの。短い方が楽じゃない?」


「髪には実際的な影響がないから」


ガラティーナは手を持ち上げながら説明した。


「だから気ままに変えられるの。ウリちゃんが長い髪が好きだから、ママは長くしてる」


ウリエルは心の中でその質問に答え合わせをした。


次の質問。


「身長は? なんで一八〇cmじゃないの。背が高いほうがリーチが伸びて、遠くまで届くんじゃない?」


「それはね」


ガラティーナは人差し指を顎に当てて、さっきより大きく首をかしげた。


「最良にも、"ちょうどいい"という要素があるの。ウリちゃん考えてみて、高すぎると目立ちすぎてかえって狙われやすいし、低すぎると存在感が出なくて場を制せない。今くらいがちょうどいい。それに攻撃範囲については——」


ふと、目を細めて笑った。


笑みの中に、隠しきれない少しの得意げな色があった。


「ママの攻撃範囲と腕の長さは関係ないの」


ウリエルはしばらく固まった。


それから、納得した。


そうだ。記憶すら断てる斬撃があるなら、距離なんて関係ない。


腕のリーチなんてものは彼女には文字通り意味がない。


(腕の長さなんて気にした俺がバカだった)


最初の二つの質問を消化してから、最後の一つを訊いた。


前の二つより、少し言い出しにくい話題だった。


でもずっと気になっていた。


ウリエルの視線がほんの一瞬だけ彼女の胸元へ落ち、そして誤魔化すようにすぐ顔へと戻った。


「あと——あれは。高速移動するとき、揺れてさ、邪魔じゃないの」


ガラティーナが視線を下げた。


ウリエルはその動作を見た瞬間、この話題が取り返しのつかない方向に滑り出したと悟り、すぐに言葉を重ねた。


「黄金比。0.618。視覚効果の最適解。たぶんそういう理由だ」


ガラティーナの視線が、胸元からウリエルの顔に移った。


少しの間、彼を見た。


それから顔中が一気に明るくなった。


笑みが目尻から眉の端まで広がった。


早朝の光が湖面に当たったときのように、波打つ輝きがあって、見ていると少し目が痛くなった。


手を伸ばしてウリエルの頭をくしゃくしゃとなでた。


「うん。ウリちゃんの言う通りね。ママが考えてたより、ずっと理にかなってる」


ウリエルは目を細めた。


(元々考えてたのは何だったんだ)


ガラティーナの笑顔を見て、追及しないことにした。


商業通りの仕立て屋は、静かな小路の中にあった。


扉を押し開けると、真鍮のベルがしゃんしゃんと鳴った。


「おう、お兄さん、引き取りに来たか。この前の注文、全部仕上がってるよ。セットごとに別包みにして、タグも書いといた」


店主がカウンターの奥から荷物を何個も運び出して、台の上に並べた。


牛皮紙できっちり包まれていた。



これはウリエルが計算した上でやっていることだった。


聖剣の魔女のあの黒白の軍装は、一つの店で作らせていない。


一度に仕上げてもいない。


一式を細かく分けて発注した。


この店でこのパーツ、あの店でそのパーツ、そこに何の脈絡もない普段着を混ぜて。


もし後日誰かが魔女の肖像を持って「この衣装を作った仕立て屋を知らないか」と聞き回っても、どの店主も思い当たらないようにしてある。


唯一の問題は、金がかかることだった。


細かく分けて発注すると、ロット割引は効かない。


セットごとに別々にパターンを起こして、仕立て代が何倍にも膨らんだ。


合計で金貨数十枚ほど余分にかかった。


普通の冒険者パーティーが一か月の依頼をこなして得る報酬と同じくらいだ。


ウリエルは荷物を眺めながら心の中で計算を終え、財布からカードを取り出して、カウンターに差し出した。


仕立て屋を出ると、ガラティーナが牛皮紙の包みを三つ抱えていた。


ウリエルは二つを手に提げた。


通りの向こうに、甘栗の屋台があった。


鉄鍋の中で栗が黒い砂に揉まれながら回っていた。


焦げた甘い香りが小路一本分を満たしていた。


ガラティーナの視線がそちらへ流れた。


足の裏が地面をほんの少しすった。


何も言わなかった。


「後で買う」ウリエルが言った。「先に荷物を置いてから」


ガラティーナは素直に視線を戻した。




二人は来た道を戻り始めた。


街角を曲がったとき、ガラティーナがふと顔を向けた。


「ウリちゃん、これだけ買ったらいくらかかったの。お金足りてる? ママが出してもいい?」


ウリエルは一瞬ハッとした。。


ガラティーナを見た。


抱えた牛皮紙の包みが三つ、あごより高く積み上がって、顔の下半分が隠れていた。


きらきらした目だけが、包みの上からこちらを見ていた。


「足りてる」


彼は手にした二つの包みを片手にまとめ、空いた手で彼女の肩をポンと叩いた。


「行くよ、帰ろう」




【第八十八話・終】

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