第八十七話:一家五人の日常
これは、王都を揺るがした夜の後の、一家五人の何気ない朝の話。
ウリエルが白湯を思わず吹き出すと、四人の視線が一斉に集まった。
「……うがいだ」
ウリエルはとっさに取り繕い、手の甲で口元を拭った。
I am the storm that is approaching。
あれは彼が部屋でよく口ずさんでいた歌だった。
ある、パワーを渇望する男の専用BGMだ。
まあ、全部母さんのせいとも言い切れない。
なにせ習ったことのない言語で、出だしの音も確かに似ていた。
何十回も聞かされたせいで脳に刻み込まれていて、戦場の緊張で二つの台詞がごっちゃになったんだろう。
頭の中でその光景を思い浮かべた。
地底深く、輝光級のエーテルフィールドが全開展開。
西洋剣は光輝に包まれ、敵は全員地に這いつくばって震えている。
そこへ母さんが、聖剣の魔女として完璧に冷酷な表情を作り、最も氷のような声音で——
「I am the storm that is approaching」という、パワーに満ち溢れた台詞を言い放つ。
ウリエルはカップに顔を埋めて、ゆっくりと白湯を一口飲み込んだ。
(……なんか逆にアリかもしれない、空間を斬り割るやつなら)
「……まあいいや。どうせ元の台詞なんて誰も知らないし」
カップをローテーブルに置き、ソファから立ち上がり、窓際に歩み寄って外を見た。
窓から差し込む日差しが心地よかった。
通りの向こうの朝食屋の煙突から白い煙が上がっていた。
遠くのあの山の輪廓が昨日と確かに違って見えた。
頭がはっきりしてくるにつれて、何となく色々なことに気づき始めた気がした。
次に何を言うべきか整理してから、振り向いた。
書記官モードに切り替え、ルミナ、フェンリア、キラの三人を見た。
「今回の作戦、ルミナの戦術立案、フェンリアの突破力、キラの情報攪乱——三人とも、非常によくやってくれましたね」
「独立作戦下で連携を保ち、突発状況にも対応できたということは、皆様が一人前になったという何よりの証拠です」
思考を切り替え、声のトーンを一段階落とした。
少し間を置き、ルミナへ視線を向けた。
「ルミナ。拠点攻略で魔女の動きに合わせながら、他の二つの戦線の状況も同時に見ていた。それは合格点以上のリーダーの仕事だ。よくやった」
ルミナは顔を伏せ、右手を左胸に当てた。
指先がかすかに震えていた。
言葉の代わりに、敬礼で褒賞を受け取った。
尖った耳の先まで真っ赤に染まっていた。
緑の短髪に映えて、やけに目立っていた。
何も言わなかったが、その動作はどんな返答よりも正直だった。
続けて残りの二人へ視線を向けた。
キラは自分が何をしたか分かっている。
フェンリアは、まあ、脳内補完してくれるだろう。
「フェンリアとキラも今回の功績は大きい。キラは騎士団と冒険者ギルドを同時に受け身に回らせた。フェンリアは戦闘で勇敢な動きを見せてくれた。地上での戦いが計画通りに完結したのは、二人のおかげだ」
フェンリアがソファのひじ掛けから飛び降りた。
胸を張って、満面の笑みだ。
——近所の娘、いつの間にか大きくなったな。
「へへっ! やっぱ書記官様はアタシのことちゃんと分かってるッスよ!」
そのままウリエルに向かって突進し、思いっきり抱きついて、すりすりと頬を擦り寄せた。
キラはその場に端然と立っていた。
だが、膝はわずかに内側へ寄せ合うように擦れ、指先は無意識にスカートの端を強く握りしめていた。
脳内では三つの妄想エンジンが同時起動していた。
一つ目——書記官様に執務室に呼ばれて勲章を手渡されるシーン。
二つ目——「作戦完了後、書記官様がホットカカオを差し出しながら微笑むシーン」と題された今夜の妄想日記の書き出し。
三つ目——フェンリアと同じように反対側にくっついたらどうなるか、という試算。
ウリエルはティアンの方を向いた。
書記官モードから日常モードへ。
目元がわずかに緩み、声のトーンが真面目なものから、半分冗談めいたものに変わった。
「で、魔女の方。台詞は間違えたけど、むしろ即興の方が破壊力高かったな。山まで割った、威圧感はむしろ上がったんじゃないか。後で台詞差し替えておくから、どうせ元のバージョンは誰も知らないし。戦闘も相当見応えがあっただろ。俺がいたら多分ずっと頷いてたと思う。お疲れさま」
ティアンは両手を膝の上で重ね、ゆっくりと首を傾けた。
目が細くなり、三日月の形になった。
いつものようにべたべたした長い褒め言葉は出てこなかった。
ただ静かに笑っていた。
褒められた満足感よりも、もっと深いところから来る笑みだった。
ウリちゃんが褒めるときは、目の中に光が灯るから。彼女は小首をかしげ、その「お疲れさま」という言葉を脳内で数回巻き戻し再生してから、心の奥の「一番大切」と書かれた瓶の中に、そっとしまった。
ウリちゃんが嬉しそうな顔をしているのが、一番いい。
ウリエルはローテーブルのカップを持ち上げた。
もう空になっていた。
戻した。
リビングの四人を見渡した。
エプロン姿なのに、聖剣の魔女モードからルームメイトモードに完全には戻り切っていない母さん。
耳の先が真っ赤なのに全力で真剣な顔を維持しようとしているエルフ。
頬をすりすりしてきて、尻尾で床を掃けそうなくらい揺らしている大型犬。
表面は氷山なのに脳内ではすでに妄想日記を執筆中の陰湿参謀。
フェンリアの頭を軽く叩いた。
フェンリアは素直に離れた。
窓の外、遠くのあの山の断面が、朝の光の中でガラス質の艶を帯びていた。
第二の大芝居、無事閉幕。
教団の暗線は根こそぎ引き抜いた。
セラフィーナは無事帰宅した。
過程に若干の誤差はあったが——台詞は間違えた、山が割れた、学院が完全消滅した——結果は予想を上回った。
たぶん。
ティアンは果物の皿をローテーブルの中央へ押しやって、名ばかりの小さなキッチンに向かった。
腰の後ろでエプロンの結び目がきれいな蝶結びになっていた。
軽やかな足取りで水道の蛇口を開け、皿を洗い始めた。
水音が、口の中でそっと転がっているメロディをかき消しそうになった。
昨夜の台詞の節回しだ。
I am the storm that is approaching。
一度口ずさみ、もう一度。ふと「なんか違う?」と首をかしげ、少し間を置いてから、別の音に変えた。
今度は異世界バージョンの節回し。
歌詞も I am Holy Sword Witch に入れ替えた。
二つのバージョンを交互にハミングしてみた。
どっちも悪くない。
ウリちゃんが換えていいって言ったから、変えるう。
どうせ両方ともウリちゃんが作ったものだし。
水音が止まった。
手を拭いて、窓の外のきれいな青空を見た。
瞳の奥の金色の光が、ゆっくりと揺れた。
いいものだ。
ウリちゃんが考えたシナリオ。
ウリちゃんがデザインした衣装。
ウリちゃんが書いた台詞。
ウリちゃんが整えた舞台。
あの子はこんなに色々できて、しかもちゃんと誰かのためになることをしている。
ママはただ、あの子と一緒に遊んで、一緒に舞台に立っただけ。
でもその舞台が終わったあとに、ウリちゃんが目を輝かせて「お疲れさま」「よくやった」と言ってくれた。
あの子に必要とされて、あの子に褒めてもらって、あの子にとって大切な役を任せてもらえる。
それが何より嬉しい。
この「役割遊び」の本質が分からないわけじゃない。
ウリちゃんが丁寧にシナリオを組んで、役を決めて、台詞を書くたびに——
あの子はいつも自分のやり方で、誰かを守ろうとしている。
相手のことも、ママのことも、自分自身のことも。
あの子にとっては、ふざけているわけじゃない。
真剣にやっていること。
だからママにとっても、ふざけているわけじゃない。
真剣な、一緒にいる時間。
次はどんなシナリオを書くんだろう。
まな板の上に夕瓜を置き、菜切り包丁を握った。
外にいる子たちへのおやつ用に、食べやすいひと口サイズに切っていく。
刃とまな板が一定のリズムで当たる、軽やかで規則正しい音。
何を書いてくれても、ママはちゃんと演じてみせる。
ただ次の台詞は、できれば短めにしてほしい。
覚えやすいように。
切り終わりかけたところで手が止まった。
何かを思い出して、キッチンのドアを開け、半身だけ顔を出した。
「ウリちゃん、台詞ね、次はちゃんと覚えるから。間違えないようにするね」
リビングからウリエルの声が返ってきた。
「はいはい、分かった」
ティアンはキッチンに戻り、ドアを閉めた。
その瞬間に、魔女の外套をさらりと肩に羽織った。
マントの裾がふわりと舞い上がり、美しい弧を描いた。これを羽織ったままフルーツを切るというのは、なんだかおかしな感じがする。
エプロンの上に外套。
なんか変。
今度ウリちゃんに魔女専用のエプロンをデザインしてもらおう。
黒と白のカラーリングで、制服と同じテイストで、できればポケット付きで台詞帳が入れられるやつ。
そんなことを考えながら、またメロディを鼻歌で歌い始めた。
鼻歌を歌っているうちに、いつのまにか節回しが変わっていた。
歌というより、子守唄に近いものになっていた。
どこか温かい、家庭の童謡のような響きを帯びていた。
【第八十七話・終】
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