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第八十話:逃げ時だ

撤退の足音が、廊下の奥から雪崩のように押し寄せる。

研究員は用済みとなり、セラフィーナには「強くするもの」と称する注射が打たれた。

そして、無言のうちに差し込まれた小さな金属片、爪切り、皮剥きナイフ——囚われの令嬢を逃がそうとする、看守たちの精一杯の餞別だった。

地牢の空気が変わった。


廊下の奥から来る足音が、いつもより密で速かった。


誰かが怒鳴っている。


金属の打ち合う音が、交代の時より何重にも重なっていた。


セラフィーナは鉄格子の内側で薄い毛布の上に座って、手に持っていたパンの半切れを下ろした。


少し横を向いて、耳を傾けた。


それから鉄格子の端まで歩いた。


ちょうど若い看守が廊下の奥から小走りで来るところだった。


表情が強張っている。


以前、シチューが美味しいと言ってお碗を空にしていたときの顔と、まるで別人だった。


「外で何かあったの?」とセラフィーナは聞いた。


若い看守は左右を見てから鉄格子に近づき、声を落とした。


「……見つかりました。外から誰かが拠点の近くまで来ています。どこの組織の連中かは分かりませんが」


セラフィーナはその顔を見て、本当のことだと分かった。


少し考えてから口を開いた。


「じゃあ、このまま私を解放してくれればいいじゃないですか。あなたたちは逃げやすくなる、私は家に帰れる。お互いにとって良い話じゃないですか」


「それは無理です」


若い看守が首を振った。


説明しようとした瞬間、廊下の奥からまた足音が来た。


今度はかかとが石板を打つ硬い音だった。


若い看守は即座に口を閉じて、横に二歩退いた。


研究員が来た。


あの白い長コートのまま、モノクルの奥の表情がいつもより固く冷たかった。


後ろに二人の見知らぬ顔が付いていた。


いつものアシスタント二人が、別の人間に替わっていた。


セラフィーナはその細部に気づいたが、何も言わなかった。


研究員が鉄格子の扉を開けた。


見知らぬ二人が左右から彼女の肩を押さえた。


いつもより力が強かった。


研究員は革のケースから採血針を取り出した。


動作が明らかにいつもより荒かった。


針の刺し方が雑だった。


今回の採血でセラフィーナは眉をかすかに寄せた。


痛かった。


ガラス管の中に暗赤色の血液が上がっていった。


これまでのどの回より多かった。


研究員は針を引き抜いた。


今回はガーゼも巻かなかった。


綿の球を一つ肘の内側に押し付けただけで、器具を片付けて振り返って行ってしまった。


セラフィーナは自分で綿を押さえた。


指先に、拭いきれなかった血が少し付いた。


今の採血量が記録更新だったかどうか考える間もなく、また来た。


今度は違う人間だった。


先頭に立っているのは体格のいい中年の男だった。


深い色の長衣を羽織って、肩幅が広かった。


後ろには完全武装の看守が数人付いていた。


男は鉄格子の前で立ち止まり、セラフィーナを上から見下ろした。


手に金属の小箱を提げていた。


「管理人」と研究員が後ろから呼んだ。


研究員も入ってきて、管理人から二歩後ろに立った。


管理人が金属の小箱を開けた。


箱の中に注射器が一本収まっていた。


通常より一回り太い筒の中に、暗い紫の液体が入っていた。


火の光を受けて、ぬらりとした光沢を返していた。


左右で彼女を押さえていた看守二人が、思わず手の力を緩めて半歩後ろに退いた。


管理人が注射器を取り上げた。


針先から数滴が絞り出されて、筒の外側を伝った。


セラフィーナの左腕が引き伸ばされた。


何か言おうとする間もなく、針が刺さった。


「痛っ」と小さく声を漏らし、短く息を飲んだ。


刺入部からすぐに血の粒が滲んだ。


採血の針跡より大きかった。


俯いて自分の腕を見て、それから顔を上げた。


「何ですか、これ。毒薬ですか? 口封じするんですか?」


食堂の今日のスープが別のキノコに変わったのかと聞くような口調だった。


管理人は空の注射器を金属の小箱に戻して蓋を閉めた。


顔を上げてセラフィーナを見た。


口の端が少し持ち上がった。


大人が子供に説教する前に作る、あの顔だった。


「お前を強くするものだ」


セラフィーナは何も言わなかった。


「エステラ・ヴァルドリッチがどれほど強いか、知っているか」


管理人の話す速度は遅かった。


準備していた台本を読み上げるようだった。


「王国一の冒険者。勇者候補。あと数年で輝光級に届く。ヴァルドリッチ家から天才が出たと、誰もが知っている。それに比べてお前は」


ここで意図的に間を置いた。


視線がセラフィーナを上から下まで流れた。


「戦闘力は三十に届いているのか?」


セラフィーナは答えなかった。


壁に背中を預けて座ったまま、左腕の刺入部がまだじんじんしていた。


「あの子みたいに強くなりたくはないか? あの子を踏み台にしてみたくはないか?」


管理人がわずかに前に屈んだ。


「同い年にあんな存在がいたら、成長するあいだずっと息苦しかっただろう。家中の人間がお前とあの子を比べる。親戚の集まりで、あの子を紹介した後にお前を紹介するとき、声の調子が変わるだろう?」


セラフィーナの眉が、ごくわずかに動いた。


「お前は弱すぎる」


管理人の声が急に重くなった。


「ヴァルドリッチの名に泥を塗るほどに」


廊下がしばらく静かになった。


左右の看守たちが揃って俯いて、彼女の顔を見なかった。


セラフィーナはゆっくりと、これでもかというほど露骨に天を仰いだ。


「それだけですか」


口を開いた瞬間、管理人の口の端が固まった。


「もっとご大層な揺さぶり方でも用意しているのかと思っていました」


セラフィーナは極めて平静な口調で相手を評した。


「結局、三流の教師が落ちこぼれを煽る時に使うテンプレと、滅多に顔を見せない遠縁の親戚が言いそうな説教を混ぜ合わせただけじゃないですか。台本、どれくらい時間かけて書いたんですか? 少し勿体なかったですね」


少し間を置いてから付け加えた。


「一つ聞いてもいいですか。さっき注射したものって、怒ったら効くんですか?」


管理人の顔から余裕が消えた。


顎の筋肉が微かに引きつって、唇が細い一本の線に結ばれた。


否定しなかった。


セラフィーナは静かに頷いた。


答えないこと自体が答えだった。


管理人は勢いよく振り返り、看守にセラフィーナを縛り直すよう合図した。


「連れてこい」


扉の外を指差した。


二人の看守が廊下から一人の人物を引きずってきた。


研究員だった。


顔色が蒼白で、唇が震えていた。


白衣に暗い手の跡が何箇所も付いていた。


肩を二人の看守にがっちり掴まれていた。


「仕事は終わった。配合式もある。血も採り切った」


管理人は床に押さえ込まれた研究員を見下ろして、感情の抜けた声で言った。


「ここはもう捨てる。後始末だけだ」


押さえている看守に向かって頷いた。


看守が研究員の髪を掴んで頭を押し下げた。


後頸が晒された。


管理人が金属の小箱を開けて、二本目の注射器を取り出した。


研究員の後頸に針が刺さった。


セラフィーナへの注射より力が強かった。


研究員が短く鈍い声を上げた。


全身が激しく震え始めた。


管理人は引き抜いた空の注射器を床に叩きつけた。


ガラスが割れる音が石壁の間で何度も跳ねた。


「片付けて。あいつは連れていかなくていい。ここに残しておけ。撤退」


管理人はセラフィーナを最後に一度見てから、先に出ていった。


看守たちが慌ただしく痕跡の消去を始めた。



セラフィーナは自分の手首の縄を見下ろした。


今回は前より強く縛られていた。


手首を動かしてみた。


縄の粗い縁が皮膚に食い込んで痛かった。


若い看守が鉄格子のそばに来て、南京錠を引っ張って施錠を確認するふりをした。


錠前に指が触れた瞬間、一拍だけ余分に止まった。


その一拍で、彼は鉄格子の内側の暗がりに向かって、何かをそっと蹴り入れた。


別の看守に急かされた声がした。


「はい、ただいま!」と返して、俯いたまま早足で立ち去った。


セラフィーナはその後ろ姿を見て、それから床を見た。


暗がりに小さな金属片が落ちていた。


縁が薄く磨がれていて、形は不揃いだった。


わざわざ選んで持ってきたような形だった。


彼女が静かにそれを靴の裏で押さえようとした瞬間、別の看守が通りかかった。


鉄格子の蝶番を点検するふりをして、ポケットから何かを出して床に落とした。


爪切りだった。


何も言わなかった。


セラフィーナを見もしなかった。


振り返って立ち去った。


三人目に来たのは傷跡のある男だった。


急いでいる様子で、撤退を急かされているように見えた。


鉄格子の前を通るとき足を止めもしなかったが、腕を一振りすると、小さな何かが格子の隙間を抜けて飛び込んできた。


薄い毛布の上に落ちて、二度跳ねた。


皮剥きナイフだった。


刃は鈍かったが、先端だけわずかに研げば使えそうだった。


セラフィーナはこの無言の餞別を全部かき集めて、結局一番手ごろそうな金属片を選んだ。


縄を削り始めた。



手首の麻縄が半分ほど切れたとき、隣から音がした。


研究員は、廊下の反対側の椅子に縛られていた。

セラフィーナとは、鉄格子一枚を隔てた距離だった。


体が痙攣し始めると、脊椎が絞りすぎた濡れ雑巾のようにねじれ、不自然な角度で弓なりに反り上がっては崩れ落ちる。やがて喉の奥から転がり出た濁った呻き声は、徐々に高まり、かすれた絶叫へと変わっていった。


「うっーーあっーーあああああああああーー!」


セラフィーナは横を向いて、鉄格子の隙間から廊下の向こうを見た。


研究員の両手が不自然な角度で握り込まれていた。


爪が木製の肘掛けを引っ掻いて、耳障りなきしみ音を立てていた。


皮膚の下から血管が一本ずつ浮き上がってきた。


色が青紫から深黒へと変わっていった。


白目が充血した。


全体が暗赤色に染まった。


瞳孔が狂ったように左右に揺れた。


セラフィーナは視線を戻して、手を速めた。


金属片の縁が縄の上を行き来した。


麻の繊維が一本ずつ千切れた。


研究員の叫び声が廊下に反響し続けた。


音程が上がり続けた。


人の出す音では、もうなかった。


骨が割れる乾いた音が聞こえた。


連続した炸裂音が、乾いた枝を膝で折り続けるように続いた。


縄が切れた。



セラフィーナは立ち上がって、出口の方向へ数歩歩いた。


石壁に体を貼り付けて、暗がりからそっと覗いた。


研究員が拘束を引き千切っていた。


縄が紙のように数箇所からちぎれた。


ちぎれた跡は不揃いだった。


体が膨れ始めた。

内側から何かが押し広げるように、筋肉が異常な速度で盛り上がっていく。


布の裂ける音が地牢に響いた。


脊椎が上方へ引き伸ばされた。


肩が外に広がった。


一回り大きくなった。


もう一回り大きくなった。


最も凄惨だったのは額だった。


皮膚の内側から対称に二つの膨らみが押し上がってきた。


膨らみは大きく鋭くなり続けた。


最終的に皮膚が弾けた。


湾曲した二本の角が頭蓋骨から生えた。


山羊の角だった。


全身の筋肉の模様が作り直されたかのようだった。


青黒い血管が蜘蛛の巣のように腕と胸一面に這った。


呼吸が重く熱くなった。


一息ごとに獣の低い唸りのようだった。


それから肩が鉄格子の蝶番を砕いた。


続いて廊下の壁を突き破った。


砕けた石と土埃が四方八方に爆発した。


石材が崩れる轟音が地牢の中で炸裂して、床が揺れた。


煙の中にその巨大な影が一瞬だけあった。


それから地上へ続く方向へ突進していった。


足音が太鼓のように重く沈んだ。


セラフィーナは壁の陰から出てきた。


顔の前に立てていた腕を下ろした。


髪の中の石灰の欠片を振り払った。


壁に空いた大穴を見た。


それ以上は止まらなかった。


振り返って、研究員が出ていった廊下を早足で進んだ。


石板の床が緩やかに上り勾配になっていた。


空気の湿気が少しずつ減っていった。


数十歩歩いて角を曲がり、それから止まった。


前方に一人の騎士が立ち塞がっていた。騎士団の紋章が刻まれた制式鎧を身に纏っている。兜は被っておらず、その顔にははっきりとした輪郭があった。


年齢は四十五前後だろうか。


口の端が僅かに持ち上がっていた。


何か気分の上がるものを見たときの顔だった。


一人だった。


「騎士団の方ですか」


セラフィーナは足を止めて、軽く頷いた。


「こんにちは。助けに来てくださったんですか?」


その騎士は首を傾けて、視線を彼女の上に落とした。


笑顔は変わらなかった。


ただその笑みが、目の奥まで届いていなかった。


セラフィーナはその細部に気づいた。


少し沈黙した。


「一人で来たんだ」


疑問ではなく、事実確認の声だった。


助けに来た人間の顔ではなかった。


「俺はカルガスだ」


騎士が口を開いた。


「功勲騎士サマってな。会えて光栄だぜェ、セラフィーナ嬢。面倒な前置きは抜きだ。俺はてめえを助けに来たわけじゃねェ」


「……では、何をしに来たんですか」


カルガスは首を横に傾けた。


頸椎が二度鳴った。


大きく息を吐いて、声に愉悦が混じった。


「単純な話だァ。破壊衝動が抑えきれなくなってなァ。ヴァルドリッチ家の令嬢を拉致したとなれば、後で誰かが責任を取らされる。お前が逃げようとして自分で死んだなら、それが一番いい。俺が仕留めてもどうでもいい。どっちにしろ教団の連中が慌てふためくんだ。最高の暇つぶしだろォが」


セラフィーナは聞き終わって、しばらくの間その論理を整理しようとした。


それから一つだけ聞いた。


「あなたと、さっきの管理人は同じ組織の人間ですね」


「そうだ」


カルガスはあっさり認めた。


「でも、あなたの行動方針は彼と違う。彼は私を殺すとは言いませんでした」


「あいつはあいつ、俺は俺だ」カルガスは肩を竦めた。「俺はただ楽しみたいだけだ」


セラフィーナはその顔を見て、頭の中を素早く回した。


「私が死んだら、あなたの組織に後々大きな面倒がかかります。今あなたが想像しているより遥かに大きな面倒が。あなたは私を助けに来た、私はそれに感謝しています」


カルガスは笑った。


相手が少し面白くない冗談を言ったときの、適当な笑い方だった。


「このまま帰してしまえば、確かに都合はいい。教団は王都での潜伏を続けられる。次の計画も進む。騎士団でも教団でも俺は表彰されるかもしれない。悪くない」


セラフィーナは聞きながら、相手の表情がその言葉と一致していないと思った。


「だが……それは敗者の思考だ」


カルガスの目に、一瞬凶光が走った。


「さあ、見せてもらおうか。ヴァルドリッチ家の力ってやつを」




【第八十話・終】

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