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第七十九話:エステラ

冒険者ギルドを臨時司令部に、エステラはセラフィーナを探し続けていた。

手がかりはゼロ。それでも姉は諦めない。

そこへ、何者かがカウンターに残した一枚の紙片——「第一学院地下」。

騎士団本部を出たあの日から、エステラは冒険者ギルドを臨時司令部にした。


ギルドの大広間に王都とその周辺の大地図を張り出して、赤いピンで捜索済みの区域を一つずつ打っていった。


数日後、赤いピンが地図の隅々まで密集した。


廃坑、旧下水道、郊外の倉庫、貴族区の空き別邸、採石場まで。


手が空いている冒険者は全員かき集めた。


捜索隊を四班に分けて交代制にして、四人一組でセラフィーナの似顔絵を持って一軒一軒当たらせた。


手がかりは、ゼロだった。


一本もなかった。


毎日夕方に各班が戻って報告する。


答えはどこも同じだった。


目撃者なし。争った痕跡なし。異常なし。


ウリエルの方にも人を張り付けさせていた。


返ってきた言葉はたった一言だった。「宿に戻ってから一度も出ていない」。


騎士団にも人を通じて照会した。


尋問記録は全部読んだ。


隠蔽はなかった。


エステラは報告に来た冒険者に手を振って下がらせ、机の上のカップに手を伸ばした。


空だった。


水を入れるのを忘れていた。


ギルドの執務室は小さかった。


窓の外には王都のスカイラインが見えた。


彼女が窓枠に背中を預けて微動だにしないでいると、窓下の街路から誰かの大声が響き、馬蹄が石畳を叩く音が鳴り、さらに遠くからは炊煙が緩やかに空へ立ち上るのが見えた。


セラは小さい頃、暗いのが怖かった。


雷も怖かった。


雷雨の夜になるたびに、小さなその子は自分より大きい枕を抱えて、こっそりエステラの部屋の前まで来た。


ノックしない。声も出さない。


廊下の影の中にぼんやり立って、エステラが自分で気づくのをただ待つのだ。


エステラはいつも、寝返りを打ってわざとらしくあくびをして、「トイレに起きた」という顔で扉を開けた。


そして毎回「わざとらしいほど驚いた顔」をして、扉の前にいる可哀想な子鴨を見つけ自分の布団の中に引っ張り込んだ。


セラフィーナの体はいつも冷たかった。


足の指先が氷みたいに冷えていて、触れるたびに目が覚めた。


なんでノックしないのと聞いたら、お姉ちゃんの邪魔をしたくなかったから、と言った。


あのとき、セラは六歳くらいだった。


聞き分けが良すぎて、胸が痛かった。


その後、家族がセラに専用の部屋を与えた。


前より広くて、窓も増えた。


雷が鳴るとガラスがびりびり震えた。


でもセラが枕を抱えて来ることは、二度となかった。


もう少し大きくなると、学校に行くことになって、二つの家は離れた。


遠くはなかったけれど、一緒には住まなくなった。


それからエステラが冒険者になると、帰る間隔がどんどん長くなった。


一週間に一度が、一ヶ月に一度になった。


一ヶ月に一度が、半年に一度になった。


帰るたびにセラが少し背が伸びていた。


話し方がどんどん丁寧になって、どんどん遠くなった。


「お姉さん」と呼ぶ声の調子が、誰に対しても変わらなくなった。


どこで何が変わったのか、エステラには分からなかった。


ただセラを守りたかっただけなのに。


「タイミング悪すぎ」


エステラは窓ガラスの中の自分の顔に向かって言った。



執務室のドアを開けて大広間に出ると、もう冒険者はほとんど残っていなかった。


受付のカウンターに二十代前半の娘が一人、今日の台帳を整理しながら俯いていた。


足音に気づいて顔を上げて、にこっと笑った。


「エステラ様、まだいらしたんですか」


「水を飲みにね」


エステラはカウンターの端に寄って、据え置きの水差しを手に取り、カップに半分注いだ。


カップを口元に運んでから、ふと視線がカウンターの台面に落ちた。


一枚の紙片。


水差しの下に挟まっていて、角だけが覗いている。


普通のメモ用紙で、端が綺麗に切れておらず、ノートから手でちぎったような断ち口だった。


エステラは確信を持って言えた。


二十分前にここへ水を飲みに来たとき、これはなかった。


カップを置いて、紙片を引き抜いた。


広げた。


字は小さかったが、一字一字がはっきり読めた。


一行だけ書いてあった。


「第一学院地下」


署名なし。差出人なし。条件なし。


エステラの瞳孔がギュッと収縮した。


顔を上げて、大広間を見回した。


装備の手入れをしている冒険者が三々五々座っていた。


長剣に油を塗っている者、矢筒に矢を補充している者、マナポーションをゴクゴクとがぶ飲みしている。


受付嬢は相変わらず台帳を整理していて、カウンター側に何かが増えたことに気づいていなかった。


広間はいつも通りだった。


足音、話し声、金属の軽い打ち合い。


どんな隠語も残さないほど雑然としていた。


「さっき誰が来た?」


エステラは紙片の裏を確認した。


白紙だった。


受付娘が首を傾けて瞬きした。


「えっ、いっぱい来ましたよ。クエストの完了報告に来た方や、新しい依頼を受けた方、今日の午後はすごく混んでいて」と言って隣の書類の山を指さした。「誰かお探しですか?」


「このカウンターにメモを置いた人間がいる。心当たりは?」


受付娘は少し考えて、首を振った。


「ごめんなさい、全然気づいてなくて。冒険者さんが多くてせわしないので、カウンターに物を置いていかれること自体はよくあるんですよね。依頼人からの補足メモとか、クエスト報告時のちょっとしたメモ書きとか。何か書いてありましたか?」


「いや、大したことじゃない」


エステラは紙片を二つ折りにして、上着の内ポケットに入れた。


カウンターに肘をついて水を一口飲んだ。


カップを置いても手を離さなかった。


指先がカップの縁を、静かに二度叩いた。


第一学院地下。


確かに考えていなかった場所だ。今は改修中だ。


セラを匿うには悪くないか、それとも別の意図があるか。


罠だとしたら、このメモは雑すぎる。差出人も接触方法も何もなくて、ギルドのカウンターに無造作に放り込んでいる。誰が拾ってもいい状態だ。


もしセラが本当に第一学院の地下にいるなら、騎士団が学院を隅々まで捜索したとき、なぜ見つからなかったのか。


——陽動。


その言葉が頭をよぎった。


自分をギルドから引き離して、その隙に何かを動かす。


ただ、それが成立するためには、相手が自分がギルドで指揮を執っていると知っていることが前提となる。

これ自体が、相手に情報のアドバンテージを握られているという証拠だ。メモを置いた者は、私の居場所を把握している。そして、セラを探していることまでも。


……どちらにせよ。


王国一の冒険者。勇者候補。


こんなメモを怖がってどうする。


「ギルド長に伝言を頼む」


エステラは装備室へ向かって早足で歩き出した。


ブーツのかかとが床に打つリズムが、乾いた音で連なった。


「第一学院に行く、と伝えてくれ。明日の朝までに戻らなかったら、そのとき人を寄越してくれればいい」


「えっ、今からですか?! 何か急ぎの事情が——」


エステラはすでに装備室のドアを押し開けていた。



出てきたとき、私服から着替え終わっていた。


深藍色の半身軽鎧を胸元で留めて、背に一振り、腰の左に一振り。


野太刀と、三分の一だけ短い太刀。


ギルドの正面扉を押した。


夜風が正面からぶつかってきた。


王都の街路が深い青の闇に沈んでいた。


街灯は半分だけ点いていた。


石畳の上に帰宅者がまばらに歩いていた。


大通りを遅い辻馬車が一台通り過ぎて、蹄の音が次の角で消えた。


エステラは大通りを約三百メートル走って、第一学院の方向へ折れる小路に入った。


轟。


遠かった。


重く沈んだ炸裂音。それなりの威力の術式が弾けたような音だった。


地面が微かに揺れた。


石畳の目地から砂埃が落ちた。


直後、遠くで黒煙が膨れ上がった。


夜空の中で広がって、縁が下からの炎光に暗い赤に染まっていた。


方向は学院ではなかった。


西の方角。旧倉庫区か廃坑の辺りだ。


エステラは足を止めて、煙の上がる方へ顔を向けた。


爆発。しかも規模が小さくない。冒険者同士の揉め事で出せる音じゃない。


ほんの一瞬だけ止まって、それから視線を戻した。


第一学院の方向へ、走り続けた。


あそこで何が炸裂しようと、今の自分には関係ない。


セラが第一学院の地下にいる。


屋根を連続で跳んだ。


爪先が瓦を蹴るたびに乾いた軽音が散った。


夜の冷気が鎧の肩当てと首元の隙間に吹き込んできて、燃焼と灰の匂いを連れてきた。


学院の本棟のシルエットが視界の端に現れ始めた。


叫び声が聞こえた。


学院の東側の外壁沿いの路地だった。


金属が打ち合う高速の音と、短い悲鳴が聞こえた。


そちらを見ると、三人の騎士団員がいた。


二人が黒い影と乱戦していた。


一人がすでに壁に寄りかかって動かなかった。


エステラは三階分の屋根から真下へ跳んだ。


肩が路地入口の物干し竿の横桟に当たって、木が乾いた音で砕けた。


その音に騎士の一人がはじかれたように振り返った。


「エステラ様!」


騎士の声が震えていた。命拾いをした者の声だった。


「ヤバいことになってます! 学院の中から人型の怪物が出てきて、団長でも仕留められなくて!」


黒い影たちはエステラの名前を聞いた瞬間、逃げようとした。


エステラはまだ着地したばかりで、太刀も抜いていなかった。


ただ勢いのまま一番近い影に強烈な蹴りを見舞うと、その一撃で男の脊椎は真っ二つにへし折れ、体は「くの字」にへし曲がったまま吹っ飛んでいった。


残りを全員まとめて巻き込んで、石畳に重なって倒れた。


雑魚の処理に一秒もかからなかった。


騎士が続きを話しかけたが、エステラはすでに聞いていなかった。


着地の直後、鋭い戦闘感覚が何かを引っ掛けた。


遠くから、おかしな気配が来ていた。


エステラは屋根に跳び戻って、遠くを見た。


暗闇の中から巨大な人影が押し出てくる。


人の形をしていたが、比率がおかしかった。


肩幅が歪に広く、腕が膝まで垂れていた。


皮膚の表面が凸凹した角質で覆われていた。


胸に長剣で貫かれた傷口があって、向こうの壁が透けて見えた。


だが傷口の縁の筋肉が蠕動していた。


肉眼で分かる速さで、再生していた。


二本先の通りの広場で、騎士団長が十数人の精鋭を率いてその怪物を包囲していた。


戦況は、完全に泥沼だった。


防御と自癒がまるで反則だった。


団長が多大な消耗を払う「爆破剣」を叩き込んで半身を吹き飛ばしても、肉腫が数秒のうちに増殖して原形を取り戻した。


「エステラ様、こちらは俺たちに任せてください! 団長のところへ急いで!」


路地の下から騎士の声が上がった。


エステラは怪物と学院の方向を交互に見比べ、距離と状況を瞬時に計算した。


このまま騎士団とあの怪物を引き合わせておいても、三十分以内に民間人に及ぶことはない。


死者も出ないはずだ。


その時間があればセラを連れ出せる。


でも——


怪物が、一歩前に出た。


「エステラ様!」


エステラは怪物を見た。


学院の方向を見た。


太刀の柄を握る指に、力が入った。


関節が白くなった。


セラを助けに行く。


これは姉としての私情だ。


あの怪物を斬る。


これは王国一の冒険者、勇者候補が背負うべき鉄則だ。


「……チッ」


エステラは学院の方向から視線を引き剥がした。


賭けには出られない。


踏み切って、騎士団の方へ走り出した。




【第七十九話・終】

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