第七十六話:次の一手
「次は何をすればいいですか?」
その問いに、ウリエルは静かに返した。
「君はどう考えている?」
上位者の究極奥義、判断の丸投げ。
「それで、次は何をすればいいですか?」
ウリエルは窓際に立っていた。
窓の外では細かい雨がガラスを叩いていた。
後ろ手に組んで、外の景色を眺める姿は、ちょうどいい落ち着きを漂わせていた。
主な理由は、ティアンとルミナに背を向けているせいで、情けない顔が窓に反射していなかったからだ。
まだ何も考えていなかった。
「場所が分かった」という報告が入ってから、まだ十分も経っていない。
頭の中が分業体制で回っていた。
一区画はルミナの報告に対応している。
一区画は「第一学院の地下」という情報を処理している。
一区画はティアンに密着されたあとの条件反射を必死に抑えている。
残りの一区画が、次の手を必死に考えている。
全区画が満杯で、長期計画を立てる余裕など一切なかった。
直接乗り込む? 中の兵力が分からない。
騎士団に通報する? 内部に教団の内通者がいるかもしれない。
エステラ側の動きを待つ? あのレズ痴女の従姉の行動ロジックは、今もまったく読めていない。
(どれも詰めが甘い……)
ウリエルはルミナを見た。
ルミナはウリエルを見た。
沈黙がしばらく続いた。
ウリエルは迷わず、上位者の究極奥義『判断の丸投げ』を発動した。
「君はどう考えている?」
ルミナの目が、わずかに見開かれた。
(書記官が……私に考えを試されているのだろうか?)
直接命令するのではなく、先に計画を聞く。
この順番が何を意味するのか、それ自体と同じくらい考える価値があった。
それから目を伏せた。
睫毛が目の下に小さな影を落とした。
一息ついて、全身がまるで別のモードに切り替わったかのように静まり返った。
しばらくして、顔を上げた。
「第一段階、情報封鎖でございます」
声の質が変わっていた。
「教団の拠点を私たちが発見したことを、向こうに気づかれてはいけません。旅団の全関係者はその場で沈黙に移行。学院外周に二名の監視哨を置いて交代で張り込み、二時間ごとに交替します。単独での長時間監視による見落しを防ぐためです」
一息ついた。
話速はまったく落ちなかった。
「第二段階、各方面の牽制でございます。冒険者ギルドでは、エステラが人手を集めて捜索隊を組織しています。本当の目的が人探しなのか別のことなのかはともかく、彼女が集めた戦力は現時点で最大の変数です。私の提案は、旅団から何名かを『民間ボランティア』として捜索隊に潜入させることでございます。公募で集めた人手であれば、自然に入り込めます。エステラの動向をリアルタイムで把握しつつ、必要に応じて捜索の方向を私たちの行動区域から遠ざけることができます」
ウリエルは小さく「ん」と言って、遮らなかった。
エステラに対してここまでやる必要があるかどうか、頭の中で検討を始めた。
「第三段階、騎士団への対処でございます。書記官は三日間、騎士団に拘留されました。解放されたのはエステラの口添えによるものです。
ここには二つの可能性があります。一つは、騎士団内部に教団の内通者がいて、尋問で嫌疑を固めようとしていたところをエステラが偶然遮ったケース。もう一つは、騎士団と教団に繋がりはなく、単純に対応が遅かっただけのケースです。どちらにせよ、騎士団の協力を前提とした計画は立てられません。キラに騎士団本部へ行かせ、『情報提供』を名目に偽情報を届けることを提案します。
学院と反対側、王都西部の廃坑道で不審者を目撃した、という内容です。騎士団の巡回戦力を少なくとも半夜は引き離せます」
(……そこまでやるのか)
ルミナはそこで一瞬止まることなく続けた。
「第四段階、拠点への突入……第五段階、セラフィーナの救出……」
この二段階も、驚くほど詳細な計画が語られた。
ただウリエルは前半が長すぎて、少し意識が飛んでいた。
ルミナが話し終えて、静かに立ち止まった。
それからウリエルを見て、書記官の評価を待った。
ウリエルは頷いた。
これは演技ではなかった。
情報封鎖から多方面の牽制、具体的な突入配置と撤退ルートに至るまで、すべてに手が届いていた。
彼女の実力は今頃山銅級の入り口あたりだが、立てた戦術計画は冒険者ギルドの作戦参謀として通用するレベルだった。
しかもこの計画を、頭の中で組み上げてから口にするまで、数分もかかっていなかった。この娘の能力は引くほどヤバい。
ルミナは彼が頷いたのを見て、表情をほとんど変えなかった。
ただ、耳の先が赤くなっていた。
認められた喜びを必死に押さえている赤さだった。
耳たぶから上に向かって、肉眼で確認できる速度で色が深まっていった。
エルフの耳とはそういうものかもしれない。
目も一瞬輝いて、すぐ引っ込んだ。
いつもの氷像美人の顔に戻ったが、袖口のあたりで体の横に垂らした指先が静かにこすれていた。
抑えきれない昂りが、そこだけ漏れていた。
ウリエルはその動作を目の端で拾った。
そして、もう一つのことに気づいた。
ルミナの計画は周到だった。非常に周到だった。
細部まで行き届いていて、分担も明確で、各段階に対応する人員が揃っていた。
フェンリアが突入を担当する。
ルミナ自身が結界への対処と後衛を受け持つ。
キラが騎士団への偽情報工作を担う。
魔法少女旅団のメンバーが張り込みと潜入にあたる。
ティアンの名前がなかった。
第一段階から最後の段階まで、ティアンの出番がどこにもなかった。
ルミナが魔女と自分を動かす必要はないと判断したのは分かる。
ただそれは困る。
理由は二つある。
一つ目は、魔女の名声がまだ十分に世間に轟いていないこと。
そして二つ目は完全に俺の私心だが、せっかくシナリオを書き上げたのだから、一番美味しい見せ場は魔女に持たせたかったからだ。
ウリエルは数秒、黙っていた。
それから口を開いた。
「計画はいい」
と言った。
「だが、抜けている部分がある」
ルミナの表情がわずかに引き締まった。
「一番重要な場所に」
ウリエルは右手の人差し指を立てた。
「魔女が行く」
後ろから、ティアンの「ん?」という短い声がした。
「だから」
ウリエルは視線をルミナに向けたまま続けた。
「魔女様が直接救出に当たる。突入、開路、救出、すべて魔女が担う。君は補佐と接応を受け持て。他の者は君の計画通りで変更なし」
ルミナは一度だけ瞬きした。
それから即座に頷いた。
「承知いたしました」
「時間は?」
「今夜でございます」
迷いがなかった。
「看守の交代パターンはすでに把握しています。今夜動けば、準備に充分な昼間が使えます」
「よし、今夜だ」
ウリエルは人差し指を収めて、手をポケットに戻した。
「外部の突発事態は君と魔法少女旅団に任せる。騎士団が動いた場合、冒険者ギルドが介入した場合、教団の増援が来た場合、どれも君が前線指揮を執れ」
「必ず成し遂げてみせます」
その言葉は、ルミナの普段の淡々とした陳述調とはまるで違っていた。
語尾にわずかな上がりがあった。
抑えても抑えきれない何かが滲んでいた。
彼女は礼はしなかった。
代わりに、魔女旅団の内部敬礼を取った。
右手を左胸に当てる、あの簡潔な動作だった。
それから振り返って、窓の方へ歩いた。
リビングの窓を押し開けると、細かい雨粒がすぐに隙間から吹き込んで、窓枠の縁を濡らした。
ルミナは片手で窓枠を支えて、軽く体を翻した。
濃い色の短い上着の裾が雨の中で一瞬ひらめいて、次の瞬間には庭に降り立っていた。
余分な音は一切なかった。
着地の音は、猫すら凌ぐほど静かだった。
ウリエルは開いたままの窓を見つめた。
雨粒が風に乗って吹き込んで、フローリングに濃い点をいくつか落とした。
窓を閉めに歩きながら、ひとりごとのように言った。
「……次からはドアを使ってほしいんだけど」
言い終わらないうちに、肩に重みがかかった。
ティアンの顎が肩の窪みに収まっていた。
両腕が後ろから伸びてきて、胸の前で重なった。
銀髪が頬をかすめた。
入浴後に残った石鹸の温かい匂いがした。
巨大なコアラが背中に張りついていた。
完全に拘束されていた。
胸腔から細かい震動が伝わってきた。
こっそり笑っていた。
「ウリちゃん、とっても頼もしいねぇ」
耳の後ろから声が降ってきた。
「任務を割り振ってるお顔、すっごく凛々しかったよぉ」
ウリエルは息を吐いた。
ティアンの手の甲を軽く叩いた。
ふたりとも動かなかった。
もう一度叩いた。
ティアンが少しだけ緩んだ。
体を回して向き直った。
ティアンの両腕を持って、手をほどいた。
正面から目を合わせた。
柔らかく温かい光を取り戻したその瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
なんだかすごくやる気に満ちていた。
「おおーっ! ウリちゃんの彼女さんを助けに行くんだね! ママにお任せあれぇ!」
ティアンは両手の拳を胸の前で握った。
声に妙な元気が乗っていた。
ウリエルは無表情で手を上げた。
コン。
人差し指の関節が額に当たった。
力はほとんどなかった。
チャイムのボタンを押すのとたいして変わらない力だった。
ティアンは「うぅ」と大げさな声を出して、両手で額を押さえ、首を傾けてウリエルを見た。
泣きそうな顔をしていた。
「表情管理の練習をしてくること」
ウリエルは手を引いた。
「うぅ」
ペチッ。
もう一回、同じ場所。
同じ軽い力で。
「台詞の練習も」
「うぅ……」
「今回は俺、ちょっと疲れたからついて行かない」
ウリエルは一歩退いて、腕を組んだ。
「本番で魔女の設定を忘れないように。いつも俺にしてるみたいなやつ、全部しまっておけ。温かくて、包んでくれて、絶対に怒らない、ああいうの、全部だ。聖剣の魔女にそれはない」
ティアンは額を揉んで、一度瞬きした。
それからゆっくり手を下ろした。
さっきまでの拗ねた顔が、静かな顔に変わっていた。
考えている顔だった。
「うん」
一言だけ。
ウリエルは少しだけ肩の力が抜けた。
こういうとき彼女はちゃんと分かっている。
いつでも分かっている。
ただ表に出てくる形が問題なだけで。
窓の外で雨が弱まっていた。
午後の光が雲の隙間から差し込んで、リビングの床にぼんやりとした光の斑点をいくつか落とした。
ウリエルは書き机まで歩いて、引き出しを開けてノートを取り出した。
空白のページに今夜の行動要点を書き始めた。
ティアンへの台詞ヒント。
崩れやすい場面のチェックリスト。
書く速度は早く、字は走り書きだったが、構成は整っていた。
書きながら、手が止まった。
一つ、まだ片づいていないことがあった。
あつらえてもらった西洋剣の受け取りだった。
もともと自分で取りに行くつもりだったが、今の状況でうろうろするのはまずい。
ルミナに頼む?
あの子はちょっと生真面目すぎる。
フェンリアに頼む?
道中で梱包を解いて剣を振り回しているところを誰かに見られそうだ。
キラに頼む?
今日は騎士団への偽情報工作がある。
ウリエルは少し考えてから、引き出しの中を探った。
封筒が一つ出てきた。
中にはレンタル彼氏用の口座カードと、武器工房の注文票が入っていた。
「母さん」
ティアンがキッチンの入り口から顔を出した。
さっきのカップを洗いに行っていたらしく、手にまだ水滴がついていた。
「一つお使いを頼めるか。魔女の佩剣の受け取りだ」
ウリエルはカードと注文票を差し出した。
「ロック老人の武器工房、商業街の裏路地にある。西洋剣を一本頼んである。今日受け取り予定だから、この注文票を店主に見せれば出してもらえる」
ティアンは手を拭いてから受け取って、下を向いて確認した。
ただ視線は注文票より、カードの方に長く留まっていた。
「あれ、これって銀行のカード? ウリちゃん、投資でもしてるの?」
「あ、まあそんなとこだ。それより今は剣だろ、剣」
ウリエルは素早く本題に引き戻した。
「魔女の剣ねぇ」
ティアンは顔を上げた。
目にあの光が戻っていた。
きらきらしていた。
「そう。受け取ったらすぐ帰ってくること。道で誰かと話し込まないように」
「分かった」
ティアンは封筒を丁寧にしまって、振り返って玄関のコート掛けから上着を手に取った。
ウリエルはリビングに立ったまま、彼女が出ていくのを見送った。
ドアが閉まって、錠の落ちる音がした。
部屋が静かになった。
窓の外を通り過ぎる風の音と、キッチンの蛇口がきちんと閉まっていない滴る音だけが残った。
書き机に戻って、ノートを新しいページに開いた。
簡単な行動フロー図を描き始めた。
矢印が左から右へ、上から下へ伸びて、各ステップを繋いでいった。
今夜。
第一学院の地下。
第二幕の開演。
【第七十六話・終】
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