第七十五話:書記官の指針
すべてを見通す書記官が「見えない」と仰った——ならば地下。
学院の学生という言葉——ならば第一学院。
ルミナが再び玄関に姿を見せたとき、ウリエルは極めて危険な快適状態にあった。
具体的に言うと、ソファに突っ伏して、洗い込まれてけばだった薄い毛布を体にかけ、手元の小テーブルにはちょうどいい温度のハチミツミルクが一杯あった。
ティアンはソファの反対側の端に座って、ウリエルのすねを自分の膝の上に乗せ、指で脚の筋肉を揉んでいた。
午前中いっぱいかけてシナリオを書いていた。
シナリオというのは名ばかりで、実際はペンを持って、ノートに粗い骨子をいくつか書き散らしただけだった。
字が乱れすぎて、自分で後から読み返しても判読できないものまであった。
それでも「仕事をしている」という体裁だけは維持しなければならなかった。
そうでもしなければ、怠けていることにすら後ろめたさを感じられなくなる。
ルミナが何十人も引き連れて外を駆けずり回ってセラフィーナを探している最中、書記官として何かはしていなければならなかった。
たとえそれが『やってるふりをしているだけ』だとしても。
とはいえ、外に出ない理由はちゃんとあった。
外は危険すぎる。
エステラがいる。
あの星辰級一歩手前のレズ痴女の従姉、頭上に吊るされたダモクレスの剣だった。
今その剣がどの位置に吊るされているか、分からないのが問題だった。
騎士団も張っているかもしれない。
老騎士はごまかせたが、団長は馬鹿じゃない。
逃がしたからといって尾行しないとは限らない。
総合的に判断すれば、家にいるのが最適解だった。
騎士団が民家に踏み込んで人を捕まえることはできないし、エステラも大通りで堂々と手を出すわけにはいかない。
だから後ろめたいかけらも感じずに突っ伏していた。
ティアンの指がすねから足首に移って、一周揉んでからまた戻ってきた。
今日の昼食はチキンカレーと甘酢キャベツ炒めで、食後のデザートはカスタードプリンだった。
食べ終わったウリエルはソファにぐったりと埋もれて、自分がまさに焼き鳥のようにパンパンに詰め込まれた獲物になった気分だった。
「ウリちゃん」
ティアンの声がソファの向こうから流れてきた。
「ん」
「背中、まだ凝ってる?」
「だいぶよくなった」
「じゃあ肩もほぐしてあげるね」
ウリエルは寝返りを打った。
ティアンの手のひらが肩甲骨にそっと触れて、寝間着越しに体温が伝わってきた。
力加減が弱から強へ段階的に変わり、背骨の両側の筋肉に沿って丁寧に押し広げていった。
クッションに顔を埋めたまま、気持ちいいのか、それ以上なのか、曖昧な唸り声が漏れた。
これぞまさに、逃れられない『ママみ地獄』だった。
世話を焼かれすぎて、断れない。
「自分でやります」と言おうとすると、断ることは罪だと言わんばかりの目で見つめられる。
「少し休んでよ」と言おうとすると、首を傾けて微笑みながら「ウリちゃん、ママのことが嫌いになった?」と聞いてくる。
勝ち目がない。
ウリエルは抵抗を諦めて、クッションにさらに深く沈んだ。
そのとき、ティアンが言った。
「ウリちゃん、あとで一緒にお風呂入る? 背中流してあげるよ」
ウリエルは勢いよく顔を上げた。
「いりません。自分で入ります」
「小さい頃、ウリちゃんはお風呂でママに背中流してもらうのが大好きだったのに」
ティアンの声にほんの少しの拗ねが混じったが、それより多いのは分かっていて聞く優しさだった。
「洗い終わったあとも、タオルを抱きしめたまま絶対に離そうとしなかったわよねぇ」
「それは六歳の話です」
「六歳はウリちゃんじゃないの?」
断りの文句を高速で組み立てているところに、玄関のベルが鳴った。
短く二回。
こんなチャイムの鳴らし方をする人間は、王都広しと言えども一人しかいない。
ティアンが立ち上がって扉を開けた。
外に立っていたのはルミナだった。
胸がかすかに上下していた。
何かをやり遂げた直後、興奮を抑えながら報告を待っているときの、あの特有のリズムだった。
ウリエルはソファから起き上がった。
ルミナの顔を見て、まず胸がひやりとして、次に落ち着いた。
何かが起きた顔ではなかった。
何かをやり遂げた顔だった。
「書記官」
ルミナが玄関を跨いで、ウリエルに向かって軽く頷いた。
「セラフィーナの居場所が判明いたしました」
ウリエルの頭が一瞬、止まった。
それから超過回転を始めた。
見つかった?
まだ一日しか経っていない。
昨日タスクを渡して、今日ルミナが玄関に立って「見つかった」と言っている。
こちらが渡した有効な情報はゼロだった。
いや、ゼロは美化しすぎだった。
渡したのは、自分の無力さを誤魔化すための言い訳の寄せ集めだった。
それで一日で見つかった?
(……マジで?)
顔の平静を保ちながらソファから立ち上がって、部屋着のポケットに両手を突っ込み、ゆっくりルミナの前まで歩いた。
この動作で少し時間を稼いだ。
「すべては書記官が下さったご教示のおかげでございます」
ルミナが付け加えた。
ヒント?
ウリエルは頭の中をひっくり返して昨日の発言を探し始めた。
「任せた」──これは丸投げだ。
「私と魔女大人は今、動きにくい立場にある」──これは言い訳だ。
「見つかったら知らせてくれ」──これは当たり前のことだ。
ヒントなどどこにもなかった。
表情は微動だにしなかったが、瞳孔がわずかに縮んだ。
整理がつく前に、ティアンが後ろから顔を出した。
両手をウリエルの肩に乗せて、顎を肩に乗せて、柔らかい誇らしさを声に乗せた。
「ウリちゃん、やっぱりすごいねぇ。ちゃんと手を打ってたんだぁ。ママ、分かってたよぉ」
(違う。打ってない。何も打ってない)
ウリエルは今まさに『誤解』という名の貨物列車に真正面から轢き殺されそうになっている気分だった。しかも自分は部屋着のまま、裸足で線路のど真ん中に突っ立っている状態だ。
喉まで出かかった血をぐっと飲み込み、半分冷めたハチミツミルクを一口飲んだ。
冷たさが喉を通っていって、少しだけ頭が冷えた。
カップを置いたとき、表情はすでに「何を言っているんだ」から「分かっていたが試している」という書記官の定番モードに切り替わっていた。
「では聞こう」
ポケットから手を出して後ろに組み、顎をわずかに上げた。
「私のヒント。何を読み取った」
ルミナの目が一瞬、輝いた。
これを待っていた。
リビングの中央に立って、両手を自然に体の横に下ろして、報告を始めた。
「まず「見えない」についてでございます。昨日、観測能力を用いてもセラフィーナの位置が「見えない」と仰られました」
ルミナはウリエルを見上げた。
薄緑色の瞳に、迷いはひとつもなかった。
「私は熟考いたしました。「見えない」という言葉の真意を。つまり、視界の及ばない地下にいるのだと」
ウリエルは後ろ手のまま、小さく頷いた。
(……そういう意味があったのか。自分で言ったことなのに)
「もし彼女が地上のどこかにいるのなら、書記官なら必ず捕捉できるはずです。つまり、すべてを見通せるあなたが『見えない』と仰ったのは、別の意味――彼女が視界の及ばない地下にいる、という提示だったのですね。ただし、地下にも無数の場所があります」
ルミナは続けた。
「王都の地下には廃坑道、旧排水路、地下倉庫が数十箇所あります。『地下』という条件だけでは絞り込めません」
ひとつ間を置いた。
考えているのではなく、起承転結の呼吸だった。
構成のしっかりした報告書を読み上げるような、段落ごとの明確な区切りだった。
「そこで、書記官がもうひとつおっしゃっていたヒントを思い出しました」
ウリエルの背中の筋肉がわずかに張った。
待った。
「『私と魔女大人の今の立場』」
ルミナは一字一句そのまま復唱した。
「王都第一学院の学生であると仰られました。つまりあれは、場所——第一学院を暗示しておられたのですね」
リビングが静かになった。
ウリエルは窓の前に立っていた。
光が横から顔に当たっていた。
表情はいつもと変わらなかった。
眉は寄っていなかった。
唇は結ばれていなかった。
まぶたも揺れなかった。
しかし頭の中では絶叫していた。
そういう意味だったか? 違う。動けない理由として学生の身分を出しただけだ。それの何が場所のヒントになるんだ。あの発言は何秒だった? 三秒? 五秒? それだけの言葉から地理座標を掘り出したのか?
ゆっくりカップを持ち上げて、もう一口飲んだ。
ミルクはすっかり冷めていた。
舌先がしびれた。
緊張のせいかもしれなかった。
戦術的な水分補給を終え、カップは空になった。
何か言おうとした瞬間、ティアンの腕が横から伸びてきた。
ウリエルの首に腕を回して、頭をそっと自分の肩に引き寄せ、もう一方の手で頭頂部をゆっくりと撫でた。
動作は穏やかで、入浴後に残った石鹸の淡い香りがした。
「ウリちゃんは、もうぜんぶ分かってたんだねぇ」
声が頭上から降ってきた。
「ちゃーんと準備してたんだぁ。ママ、誇らしいなぁ」
ウリエルの顔は、ティアンの肩と銀髪の間に埋まっていた。
抵抗しなかった。
目を閉じて、ゆっくり息を吸った。
鼻腔が、母親の清潔で温かい匂いで満たされた。
それから静かにティアンの腕を軽く叩いて、柔らかい束縛から自分を解放した。
姿勢を正して。
乱れた髪を直して。
空になったカップをもう一度持って、落ち着いた所作で。
「続けて」
と言った。
ルミナは今の母子のやり取りに対して、何の評価も加えなかった。
報告モードが起動すると、外部のいかなる要因にも中断されない。
「書記官の示した場所をもとに、第一学院の地下に範囲を絞りました。学院は半壊状態ですが、礼拝堂や図書館の構造は今も残っています。図書館の地下一階、旧文書室の隠し壁の裏に、さらに下へ続く入口を発見しました。降りたところに、改造された廃施設がありました。規模と構造は通常の地下牢を大きく上回っています。外周部に看守交代の痕跡を確認、現在も使用中です。教学棟の地下に直結する通路も見つかりました。もともとオスワルドが逃走用に用意していた密道だったと推測されます」
目を上げた。
「セラフィーナはその中にいます。地表から約二十から三十メートル下。三交代制の看守。外周部に魔法の罠はありませんが、内部に魔力の揺らぎがあります。結界が張られているかもしれません。教団上位幹部の痕跡は確認できず、中間拠点と判断します」
ウリエルは空のカップをテーブルに置いた。
第一学院の真下にある、この深度の拠点。
オスワルドが摘発される前は学院長だった。
この拠点を誰が作ったか、答えは言うまでもなかった。
灯台下暗し。
王都で最も捜索される可能性が低い場所は、すでに一度摘発された現場だった。
教団は馬鹿じゃない。
頭の中で情報を更新しながら、表には何も出さなかった。
ティアンがまた横に寄ってきた。
今度は動作はなく、ただ隣に立っているだけだったが、彼女から滲み出る温かい気配は自動的に広がって、周囲の全員を安心させる。
ウリエルを除いて。
「全員が自分のことを全部計算済みだと思っているが、実際には自分が何を言ったかすら危うく忘れるところだった」という状況が、ゆっくりと自分を飲み込んでいた。
しかし書記官モードは起動した。
このモードは、一度起動したら自動では止まらない。
ルミナがウリエルを見ていた。
ティアンもウリエルを見ていた。
二人とも彼が口を開くのを待っていた。
窓の外でいつの間にか雨が降り始めていた。
細かい雨粒がガラスを叩いて、さらさらとしたホワイトノイズを鳴らしていた。
ウリエルは後ろ手に組んだまま、窓の外の灰色の雨幕を眺めた。
「よくやった」
と言った。
ただ、ティアンもルミナも、それだけでは終わらないと分かっていた。
二人が同時に口を開いた。
「それで、次は何をすればいいですか?」
【第七十五話・終】
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