第七十三話:母さんがいれば大丈夫
心安らぐ帰宅と、まだ終わらない駆け引き。どちらも本物だ。
扉を押し開けると、馴染み深い匂いがふわっと鼻をくすぐった。
干した布の温もりと、食事のにおい。
ティアンから漂う、花なのか日向の匂いなのかわからない、淡い香り。
ウリエルはベッドの端に腰を下ろし、肩の力が一気に抜けた。
騎士団本部のベンチで二夜を過ごした体が、部屋の入口にある古い玄関マットの模様を見て、初めて、この古い玄関マットが何よりも落ち着くものに思えた。
ティアンが後ろで扉を閉めた。
錠がカチャリと落ちた。
振り返ったティアンの穏やかな目が、ウリエルの体を上から下へ、左から右へ、もう一度丁寧に走った。
今度は臨戦態勢じゃない。
スキャンモードだ。
「痩せた」
ティアンが言った。
「たった二日で痩せるわけないだろ」
ウリエルは上着を脱いでフックに掛けた。
ティアンは聞いていなかった。
手を伸ばして、ウリエルの二の腕を掴んだ。
親指と人差し指で、袖越しに二の腕を軽く測るようにつまんだ。
表情は変わらなかった。
だが手を引いた後、指先をエプロンの端に軽くこすりつけた。
(あの仕草、また出た)
子どもの頃に見たことがあった。
木から落ちて膝を擦りむいたとき、ティアンがしゃがんで傷を確かめて、立ち上がったときも、あれと同じ動きをしていた。
「先に食べよう」
ティアンが食卓に向かった。
途中で一度振り返った。
「座って待ってて」
ウリエルは肘掛け椅子に移って、ずっと自分の体の形に沈んだクッションに背中を預けた。
テーブルに水の入ったコップがあった。
一口飲んだ。
ティアンの動きは速かった。
宿から持ってきたビュッフェの料理に加えて、借りてきた調理器具でさらにいくつか美味しいおかずをさっと作り上げた。
二十分ほどして、サラダ、フライドポテト、大きな皿に盛られた煮込み料理がウリエルの前に並んだ。
牛肉とじゃがいもとにんじんと玉ねぎを一緒にじっくり煮込んだ、どこか懐かしい家庭の味だった。
スープは濃くとろりとして、表面に薄く油が浮いていた。
熱気が塩気のいい匂いを連れて鼻に届いた。
ウリエルはスプーンを手に取って、一口食べた。
それから、騎士団の審問室では絶対に出なかった顔をした。
口の端が下がって、眉が中央に寄って、目が細くなった。
「どうした?」
ティアンが向かいに座って、その表情を見て少し体を引いた。
「ちょっとしょっぱい」
ウリエルが言った。
ティアンは一瞬きょとんとして、汁を捨てようかと聞こうとした。
「でもちょうどいい」
ウリエルは二口目をすくいながら、口の中で続けた。
「騎士団のマッシュポテト、塩ゼロで糊みたいだった。二日分の塩分をこれで取り戻せる」
もう一口食べた。
頬をふくらませたまま、咀嚼の合間にぼそりと言った。
「やっぱり母さんの飯が一番うまい」
その言葉が届いた瞬間、その瞬間、ティアンの顔がぱっと明るくなった。
頭を少し傾けてウリエルが食べるのを眺めた。
口の端の弧がゆっくり広がって、目の奥に押さえていた金色の光がそっと滲んだ。
蜂蜜みたいな温かい光だった。
何も言わなかった。
ただ肘をテーブルにつき、頬に手を当てて、ウリエルが煮込みをひと口ずつ、きれいに平らげていくのを見ていた。
器の底に残った最後のひとすくいのスープをウリエルがパンでぬぐって口に押し込んだとき、ティアンはようやく動いた。
ウリエルの額から垂れていた一筋の髪を、指でそっと払いのけた。
「まだあるわよぉ」
ティアンが立ち上がって器を引き取った。
「お鍋にまだあるから、もう一杯よそってくるねぇ」
「半杯でいい」
「一杯よぉ」
「……八分目くらいで」
「わかったわぁ」
食べ終えると、ウリエルはベッドに突っ伏した。
顔を枕に埋めて、両腕を端にだらりと垂らした。
お腹の中の温かい満腹感が四肢に広がっていって、張り詰めていた筋肉が、玉ねぎの皮をむくように少しずつ緩んでいった。
ベンチで眠ったせいで背中に残っていた鈍い痛み、その弛みにかえって際立っていた。
ティアンに食後すぐ伏せるなと言われた。
姿勢を変えなかった。
溜息と呻き声の中間みたいな音を出した。
「肩が痛い」
顔を枕に埋めたまま、くぐもった声で言った。
言い終わるより早く、温かい両手のひらが肩甲骨の上に乗った。
親指が迷いなく筋肉の一番硬くなっている場所に入った。
酸痛と気持ちよさのちょうど境目の力加減だった。
肩の窪みから背骨に向かって押すたびに、ウリエルの背中がわずかに持ち上がった。
「ここ?」
「っ——そこそこそこ」
「他は?」
「腰も。おふぅ、てか脊椎が折れそう」
ティアンの指が後腰に移った。
柔らかい生地をこねるように、丁寧に押し込んでいった。
ウリエルは枕に押し付けられて跡のついた顔を半分覗かせ、マッサージのテンポに合わせて声を震わせた。
「母さん」
「うん?」
「騎士団の医療員より全然うまい。あっちは一番安い治療薬を一瓶よこしただけだった」
ティアンの指が、一瞬止まった。
本当に一瞬だった。
それからまた再開して、力加減は何も変わらなかった。
だがウリエルはそのわずかな間を感じ取っていた。
ティアンが「後でそちらに話を聞きに行く」と心の中でメモを取る、あの小さな合図だった。
マッサージは十五分ほど続いた。
首の付け根から肩を越えて背中まで、また肩に戻って、それを繰り返した。
ウリエルの呼吸がだんだん長く深くなって、まぶたが半分閉じていた。
ティアンの手のひらが肩から離れた。
今度は後頭部を、ぽんぽんと軽く叩いた。
「洗ってから寝なさい」
「ぁ……」
「ちゃんと聞いてる?」
ウリエルはなんとか起き上がって、引きずるような足取りで浴室に向かった。
途中でティアンに後ろ衿を掴まれて二歩引き戻され、きれいなパジャマを胸に押しつけられた。
「髪も洗いなさい。その油で炒め物ができそうよ」
ウリエルはパジャマを抱えて浴室に入った。
お湯が頭から降り注いだ瞬間、頭が真っ白になった。
作戦も謀略も、あのレズ痴女の従姉のことも、全部熱いシャワーと一緒に思考の彼方へ流されていった。
洗い終えて出てくると、髪がまだ滴っていた。
タオルを首に掛けたまま、きれいなパジャマ姿でベッドの端に来て、そのまま倒れ込んだ。
すぐにティアンに捕まえられて、頭を丁寧に拭かれた。
布団には日干しの匂いがした。
深く吸い込んだ。
意識が瞬時に底へ沈んだ。
どのくらい経ったか分からない頃、呼び鈴が鳴った。
ウリエルは片目を開けた。
カーテンの外の光の具合から、一時間ほどしか寝ていない。
閉じた。
無視しようとした。
もう一度呼び鈴が鳴った。
それからティアンが足音を立てないよう気をつけながら扉を開けに行く音がした。
蝶番が静かに回って、扉の外で誰かが話した。
声は低かった。
寝室の扉越しではっきりとは聞こえなかった。
だがその音色に、ウリエルは心当たりがあった。
ベッドから起き上がった。
目をこすって、スリッパを突っかけて、するりとソファに転がり込んだ。
ルミナが玄関に立っていた。
私服姿で、精霊魔法師には見えなかった。
課題を届けに来た先輩といった雰囲気だった。
だが姿勢が真っすぐすぎた。
つま先が扉枠の隙間に揃えられていて、両腕が体の横で微動だにしなかった。
その立ち姿は、無意識にでも身についたものだった。
ルミナはウリエルを見て、小さく頷いた。
それからウリエルの体に視線を止めた——パジャマ、目の下の隈。
表情は変わらなかった。
ただ目の焦点が少しずれた。
何かを確かめているようだった。
「書記官」
部屋に入ってから口を開いた。
「騎士団本部をお出になったと伺っております」
ウリエルは壁に背中を預けて、欠伸をした。
「帰ってきてすぐに来たのか」
半分出かかった欠伸を途中で収めながら、軽く言った。
「騎士団に見張りを張ってたのか?」
「はい」
ルミナの答えに余分な言葉はなかった。
「本部の四つの出口全てに監視を配置しておりました。書記官が出られた瞬間、連絡が来ました」
「……本当によくやる」
「当然の務めでございます」
ウリエルはルミナが玄関に立っている様子を見た。
背筋が伸びていて、表情は氷のように冷えていた。
だが耳の先がわずかに赤かった。
褒められたのだ。
「他には?」
「エステラにも監視を付けております」
ルミナの話す速度がわずかに上がった。
「冒険者ギルドで人手を集めています。現在、捜索隊を編成中でセラフィーナの行方を探っている状況です。すでに四つの小隊が集まっており、引き続き増員中です」
ウリエルは頭を掻いた。
(そりゃそうか。二日間俺を待つためだけに動いてたわけじゃないよな)
(エステラが人を集めて従妹を探すのは自然な行動だ。問題は——本当に探しているのか、それとも探すことを口実にして別の何かをしているのか)
その考えを一旦棚上げにした。
今はもっと重要なことがあった。
「セラフィーナは見つかったか?」
何気ない口調だった。
任務の進捗を確認する、いつも通りの上下関係の会話と同じ語調だった。
ルミナはすぐには答えなかった。
体の横に垂れた手の指が、わずかに内側に折れた。
極めて細かな動きだったが、ウリエルの観測眼はそういう細部に敏感だった。
ルミナは考えていた。
返答の言葉を考えているのではなかった。
この一言そのものの意味を考えていた。
頭の中でいくつかのバージョンが同時に走った。
バージョン一:書記官は委ねた任務の結果を問うている。これは考査だ。
バージョン二:書記官はすでに答えを知っていて、自分が正直に話すかどうかを試している。
バージョン三:書記官もセラフィーナのことを心配していて、この一言は字義通りだ。
バージョン四、五、六が続いて、それぞれに対応策と影響の評価が付属していた。
最終的に、一番安全な選択肢を選んだ。
「まだです」
目を上げて、ウリエルをまっすぐ見た。
「鋭意対応中です。王都外縁の三つの区域まで範囲は絞れています。現在精査中です」
言い終わると、顎が少しだけ締まった。
判決を待つような顔だった。
ウリエルはルミナを見た。
自責しているのが分かった。
ルミナの肩が、わずかに落ちた。唇が一文字に結ばれていた。
十四歳の頃から「書記官に頼まれた任務を完遂すること」を信条にしてきた人間は、完遂できなければそれを背教のように感じた。
(やばい、こいつガチで思い詰めてるぞ……)
だが「実はぼくも何もない」とは言えなかった。
それは士気を根元から折ることになる。
ウリエルはソファのティアンをちらりと見た。
ティアンは頭を傾けながら、ウリエルを見て、ルミナを見て、「母さんが手伝おうか」と表情全体に書いてから、口では何も言わなかった。
ウリエルは視線を戻した。
(ティアンに動いてもらうわけにいかない。彼女が「探す」と言えばもう隠密行動ではなくなる。王都の上空に信号弾を上げるのと同じだ。それに彼女の「見つけ方」には、たぶん「処理」がセットでついてくる。そのあとの絵が想像できない)
ウリエルは窓の方へ歩いた。
王都の午後の稜線が広がっていた。
高低がまちまちな屋根が陽光の中で灰色に続いていて、縁だけが金色に縁取られていた。
右手で筒を作り、それを右目に当てた。
観測者、起動。
周波数を銀級前後に合わせた。
視線が壁を、街路を、地下の暗層を、一層ずつ透過していった。
人の気配が無数の燭火のように広がっていた。
それぞれが等級の違う個体だった。
ない。ない。やっぱりない。
視野の中の人の群れが砂のように指の間から落ちていって、残るのはぼんやりした光の斑だけだった。
セラフィーナの色は、どこにもなかった。
手を下ろした。
「見えない」
ウリエルが言った。
ルミナの表情は変わらなかった。
だが肩が、ほんのわずかだけ落ちた。
少しだけ、力が抜けた。
ウリエルはそれを見た。
沈黙が居間に数秒広がった。
ウリエルは少しばかり後ろめたさを感じた。単に『人が見つからない』というだけでなく、『任務を丸投げしておいて、自分でも策を練っていたくせに結局手詰まりだった』という事実があるからだ。
本来なら、常に胸に成算を秘め、永遠に後手を打つことのできる人間であるはずだ。だが今の彼には、本当に何の奥の手もなく、何の糸口もなかった。しかし、ルミナたちを前にして、自分に残された唯一の『知略』というアドバンテージまで失ってしまえば、それこそ旅団から蹴り出されてしまう。
だが今、本当に次の手がなかった。
頭の中に何もなかった。
ウリエルは咳払いした。
自分のために、自分に言い訳を作った。
「私と魔女様が今、どんな身分かわかっているでしょう?」
彼は両手を軽く広げ、その口調に少しばかり自嘲的な軽快さを交えた。
「王都第一学院の生徒だ。学院が襲撃されたばかりで、今は目立つ行動は取りにくい」
ルミナに向かって頷いた。
表情を自嘲から、仕事の顔に切り替えた。
「だから後は任せる。人が見つかったら、知らせてくれ」
その言葉が届くと、ルミナは顔を上げた。
冷えた瞳の中に、澄んだ光が凝り直した。
左胸に右手を重ねて、簡潔な礼をした。
「はい」
それだけ言って、体を起こし、扉を開けて出ていった。
振り返らずに扉を静かに引いた。
廊下を踏む靴音のリズムが、来たときより明らかに速かった。
ウリエルはその閉じた扉を見ながら、首の後ろを揉んで、今さら気づいたことを思った。
(そういえばいつも窓から入ってくるのに、今日は玄関から来たな。他の人に見られたりしてないかな)
「歩くの、速くなった」
ティアンの声がソファから届いた。
「……うん」
ウリエルはベッドに向かいながら、続けた。
「やる気が戻った証拠だ」
ベッドに倒れ込んで、また目を閉じた。
頭の中でひとつの問いが繰り返していた。
セラフィーナは、どこにいる。
だが本当に眠かった。
意識が縁でふらついて、二度目の底へ沈んだ。
【第七十三話・終】
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