第七十二話:正義の老騎士
「なぜ出ていかない?」
老騎士の問いに、ウリエルは一瞬、すべての言い訳在庫を脳内で捲った。
足が痛い、腹が減った、忘れ物——全部使い切った。
ならば、今の“表の身分”で最も自然な答えは何か。
ウリエルは騎士団本部の廊下のベンチで一夜を過ごした。
「横になった」とは言えなかった。
ベンチはあまりに狭く、横になれば骨が軋んだ。
上着を丸めて頭の下に敷いて、廊下の奥の魔光灯を数えながら、目を閉じた。
足が伸ばせなかった。
少し伸ばすと、ふくらはぎが宙に浮くか、ベンチの外に垂れ下がるかのどちらかだった。
そのまま一晩眠った。
翌朝、背中の鈍い痛みで目が覚めた。
ウリエルは起き上がって、腰をひねった。
背骨がバキバキと景気よく鳴った。
廊下にはもう人が動いていた。
当番の騎士団員がウリエルの前を通り過ぎて、一瞥した。
警戒でも困惑でもなかった。
もう見慣れた光景を見るような、あの手の無感動な顔。
「おはよう」
ウリエルは欠伸をした。
「……おはよう」
その人は早足で立ち去った。
早朝の留置区の廊下で、ウリエルはまるで自宅の裏庭にいるかのように、周囲の目を一切気にせずラジオ体操をしていた。両腕を上に伸ばし、体側を伸ばし、前屈してつま先に触れる。
いち、に、さん、し、に、に、さん、し。
朝の体操だった。
朝食盆を抱えた下級騎士が廊下の向こうから来て、ストレッチをしているウリエルを見て、バカでも見るような目で眺めながら、小さく迂回して脇を通り過ぎた。
ウリエルは動作を止めて、その背中が廊下の奥に消えるまで見送った。
(飯の時間だな)
騎士団本部の食堂は容疑者に開放されていなかったが、留置区には専用の臭い飯が用意されていた。
ウリエルはもうリズムを把握していた。
朝食は七時半頃に留置室の前に届く。
分量は一定だったが、配膳のおじさんはこの「解放されても居座る」少年に同情的で、毎回マッシュポテトを半杯余分によそってくれた。
留置室の方向に歩き出したとき、背後で足音がした。
昨日の当番騎士とは違う足音だった。
リズムが遅く、踏み込みが重かった。
靴底が石畳をこするような、サッサッという音が混じって、その間に小さな咳が一つ挟まった。
ウリエルは振り返った。
廊下に老騎士が立っていた。
六十を過ぎていた。
白髪が疎らに後ろへ撫でつけてあった。
顔の皺は深く、額の皺は、小刀で深く刻み込まれたように険しく、口の両側の法令線は刻み込まれたように落ちていた。
制式の鎧は着ていなかった。
洗い古した制服の外套を一枚羽織っていて、肩章の縁がほつれていた。
右手に杖をついていた。
拾ってきたような木の棒に見えたが、よく見ると旧式の士官杖だった。
老騎士はウリエルを見た。
ウリエルも老騎士を見た。
「昨日から聞いてたんだがな」
老騎士が口を開いた。
声は粗かったが、芯は通っていた。
「放免になった若者が居座って、一日一晩ここにいると」
ウリエルは答えなかった。
「今日、直接見に来た」
老騎士はベンチの横まで歩いて、杖を地についたまま立ち止まった。
「若いの、なぜ出ていかないんだ?」
ウリエルは喉を一度動かした。
質問は単純だった。
年寄りが道端の若者に世間話をするような口調だった。
だが白い眉の下にある灰青色の目が、静かにウリエルの顔に落ちていた。
鋭くも圧迫的でもなかった。
ただ静かだった。
その静かさが首の後ろをわずかに緊張させた。
(言い訳の引き出しを確認する)
足が痛い——使い済み。
お腹が空いた——使い済み。
忘れ物——使い済み。
応急処置に過ぎない——使い済み。
もう一度繰り返せば相手の知性を侮辱することになる。
騎士団の人間が全員馬鹿なわけがなかった。
ましてやこういう古参の老兵に対しては。
では何を言う?
外で待ち伏せがあると疑っていると言うか——無理だった。
エステラが何者か、王国最強、勇者候補、それを証拠もなく告発すれば、ただの被害妄想だった。
怖いと言うか——嘘っぽすぎる。
冤罪を訴えるか——訴えるべき冤罪がなかった。
ウリエルはベンチに座ったまま、表情を動かさなかった。
頭の中では理由が次々と浮かんでは消えていった。
昨日のエステラの四択より速いペースで。
老騎士はしばらく待った。
それから少し腰をかがめて、白い眉を寄せた。
声を落とした。
「何か理不尽な扱いを受けたのか。申し立てたいことがあるなら」
老騎士は続けた。
「こっそり話してくれていい。誰にどんな不当なことをされたのか、私は第一線は退いたが、言えば多少は動かせる」
ウリエルは老騎士を見た。
灰青の目の中に、古風な真剣さがあった。
四十年この組織にいて、何人もの若者が泣き寝入りするのを見てきた老兵だけが持てる、あの種の真剣さだった。
本当に何かあれば、この人は動く。
そういうことが分かった。
だが申し立てるべき理不尽はなかった。
あるのはただ、星辰級に届きかけたの百合系ヤンデレ従姉が外で待ち伏せているという状況だけだった。
では、自分の公開身份に最も自然に合致する理由は何か?
ウリエルの頭の中で、答えがひとつポンと浮かんだ。
単純すぎて自分でも呆れた。
だが、現在の「表の身分」には見事にハマっていた。
「授業がある」
口に出た。
老騎士が固まった。
「だから帰れないんです」
ウリエルは付け足した。
まるでそれが自明の論理であるように。
「君、何を——」
老騎士は自分が聞き違えたかと思って、後頭部の白髪を掻いた。
「何と言った?」
「サボりです」
ウリエルが定義した。
「欠席です」
次に公式な言い方に言い換えた。
そして老騎士を見て、反応を待った。
表情は崩さなかった。
職員室で担任に「頭が痛いので早退させてください」と申し出る学生の標準的な顔だった。
誠実で、落ち着いていて、わずかに疲れていた。
老騎士は何も言わなかった。
杖を反対の手に持ち替えて、空いた右手で顎の山羊髭をつまんだ。
親指と人差し指で疎らな白い顎髭を捻って、捻って、また捻った。
勉強しろと言いたかった。
それは老騎士の顔にはっきりと書いてあった。
口の端が動いて、眉が上がって下がって、髭を捻る指の速度が少しずつ遅くなった。
だが、その言葉は最後まで出てこなかった。
「今どきの学生は、そんなに勉学に追われているのか」
老騎士は呟いた。
ウリエルに話しかけているというより、自分自身を納得させているような口ぶりだった。
杖を地面に戻して、体を起こして、もう一度ウリエルを見た。
疑いでも品定めでもなかった。
素朴な困惑と、やれやれという諦めだった。
何百人もの新兵を見てきた老曹長が、自分の経験の範疇を完全に超えた若者の行動に直面して、最終的に「尊重する」という結論に達したときの顔だった。
「……最近の若いもんは、どうにもわからん。いっか、若者の未来を潰すわけにはいかんからな」
老騎士は溜め息をついて、体を向け直した。
木杖が石畳を、ゆっくりとしたリズムで叩いていった。
「騎士団本部に泊まり込んでまで授業を避けるとは」
首を振りながら、声が遠ざかっていった。
「今どきの学生は……まったく、王国の未来が心配になる」
ウリエルは老騎士の背中が廊下の角に消えるまで見送った。
(サボりで一日延長できた)
(聖光よ、感謝する)
午前が過ぎた。
午後も過ぎた。
ウリエルの行動範囲は留置室と廊下のベンチとトイレだけだった。
牢飯を二食食べた。
当番の看守と騎士団本部の食事レベルについてひとしきり話した。
午後の一時期、ベンチに寄りかかって仮眠を取った。
目が覚めると、誰かが掛けてくれた薄い毛布が体の上にあった。
夕方、廊下を数往復して血の巡りを戻した。
通りかかった文官の女騎士が一度見て、戻ってきてもう一度見た。
口の動きが「まだいるんですか」と言っていた。
三日目の朝。
ウリエルがベンチから起き上がったとき、背中の痛みはもはや単純な筋肉痛の域を超えていた。
脊椎がねじられたボルトのようで、一節一節が声もなく抗議を上げていた。
首を回すと、カキカキカキと連続して鳴った。
あちこちが痛かった。
立ち上がって少し動いた。
「ベンチ二日で骨がバラバラになりそうだ」
ひとり言が出た。
それでも朝の体操を始めた。
やっているうちに、腰の筋肉がぴくりと引き攣った。
今日は何か面倒なことが起きる。
その予感が首の後ろを走った。
腰を揉みながら動作を止めた。
顔を洗いに行こうとしたとき、入口の方向から声がした。
留置区は騎士団本部の大広間から廊下二本と鉄格子の扉一枚を隔てた場所にあった。
普段の雑音はここまで届かなかった。
だがこの声は違った。
大きくはなかった。
それなのに通った。
語尾がふわりと柔らかく伸びた。
まるで男の娘のようだった。
だがウリエルはこの世界の誰よりも、この声の裏にある恐ろしさを知っていた。
「僕の同室のウリエルさんを連れてきたって聞きました」
ウリエルは跳び起きた。
背中の痛みがアドレナリンに一瞬で塗り潰された。
扉に向かって駆け出していた。
耳が大広間の方向から届く言葉を一つ残らず拾っていた。
「三日も経ってるのに、なぜまだ放していないんですか」
(三日分の圧力をあの声に乗せてる……!)
「ちゃんと食べてますか。ちゃんと眠れてますか」
廊下の当番騎士が二人、目を見合わせた。
警戒ではなく、困惑だった。
この質問のどこがおかしいのか分からなかったのだ。
ウリエルには分かった。
ティアンが何かを抑えて話しているときの、声の変化のパターンを熟知していた。
蓋を閉めた圧力鍋だった。
表面は穏やかで、中身は沸騰していた。
衛兵の声が聞こえた。
「あなたは誰ですか。ここは勝手に——」
空気が変わった。
気圧が一段下がった。
耳の奥が微かに張って、皮膚の表面を冷気が走った。
廊下の当番騎士が二人同時に背筋を伸ばして、腰の剣の柄に手を置いた。
なぜ緊張しているのか自分でも分からなかったはずだった。
だが体が先に反応していた。
ウリエルは廊下の角を曲がった。
入口に、制服姿のティアンが立っていた。
向かいに騎士団員が三人いた。
守門の衛兵一人と、物音を聞きつけて来た当直騎士二人だった。
ティアンの目が細くなっていた。
唇が薄く一文字に結ばれていた。
垂らした片手を、ウリエルは観測者の視界で見た。
マナが竜巻のように渦を巻いて収束していた。
「ティアン」
ウリエルは声を張った。
少年がこちらを向いた。
目が合った瞬間、何かのスイッチが入ったようだった。
ぴんと張っていた眉間がほどけた。
細くなっていた目が普段の穏やかな弧を取り戻した。
薄く結んでいた唇が、静かに開いた。
顔全体が、「戦闘前の臨戦態勢」から「子どもを見つけたお母さんの顔」へ、一秒と経たずに切り替わった。
「ウリちゃん——あ、ウリエル」
ティアンがこちらへ歩いてきた。
足取りは軽かった。
視線が上から下へ流れた。
髪、顔、襟元、袖口、ズボン、靴。
すべての細部が、あの穏やかな目に丁寧に収められていった。
ウリエルはティアンの手の指の関節が、白から普通の血色に戻っていくのを見た。
それからティアンが足を止めて、衛兵の方を振り返った。
自然な動作だった。
何かを言い忘れていたことを思い出したような、ごく自然な振り返りだった。
だが側面から見えたその半顔で、目が再び細くなっていた。
唇が再び薄く結ばれていた。
コンマ一秒で「戦闘モード」に切り替わっていた。
「待って」
ウリエルは一歩で間に入った。
口を開かせなかった。
両手をティアンの肩に置き、力を込めて半回転させ、180度玄関の正面を向かせた。
「行こう」
騎士団員たちに向かって軽く言った。
下校後に友達に声をかけるのと同じ口調だった。
(とにかく今すぐここを出るんだ。ママがブチギレて暴れ出したら、なにもかもが物理的に終わる!)
ティアンの背中を押して歩き出した。
手のひらは肩に置いたまま、力を込め続けた。
半歩分自分が先に出て、二人の歩調を一つのリズムに引き込んだ。
騎士団本部の門が前で開いた。
朝の光が石畳に落ちていた。
空気に夜露と焼きたてのパンの匂いが混じっていた。
台階を下りて、本街道に通じる小道に折れた。
背後で鉄格子の扉がちょうつがいの音とともに閉じた。
二十歩ほど歩いた。
ティアンの声が前から来た。
「ウリエルさん」
「うん」
「目の下、黒くなってます」
頭が少し傾いた。
半分だけ横顔が見えた。
「あまり眠れなかったんですね」
「まあ」
「髪が少しべたついてる」
「……二日洗えなかった」
「元気もなさそう」
「そうだな」
ティアンが少し間を置いた。
それから、予想していたが聞いたら首の後ろが緊張した、あの一言が来た。
「ご飯も、ちゃんと食べられましたか?」
子どもが学校の食堂でちゃんと食べているかを心配する、あの口調だった。
だがウリエルにはその裏の意味が聞こえていた。
——今すぐ話してください。食事が良くなかったと言うなら、戻って聞いてきます。
ウリエルはティアンの肩を、少し力を込めて握った。
口をティアンの後頭部に近づけて、声を落とした。
平時より少し速く言った。
「家に帰ってから話す。とにかく帰ろう」
【第七十二話・終】
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