第六十四話:帰り道
平凡な学生生活を望むウリエルと、何かを隠すセラフィーナ。互いに腹を探り合う帰り道は、思わぬ方向へとレールを曲がる。
セラフィーナは空になったカップを肘掛けの上に置いた。
ストローが最後のひと吸いでぶくぶくと虚しい音を立て、もう何も吸い上げられなくなった。
彼女は何事もなかったような顔でカップを脇に退けた。
さっき空気と格闘していたのが自分だとは、まるで思っていないような顔で。
ウリエルも空気を読んで「俺の分は」とは聞かなかった。
どうせ最初から自分の分などなかったのだろう。
残ったコーンの端をかじりきり、手についたかけらを舐めて、立ち上がった。
衣装の件は今日は無理だ。
セラフィーナを連れて仕立て屋に入り、黒と白を基調にした中二全開の軍服を説明するのは、その場で正体を晒すのと同じことだ。
次に魔女がセラフィーナの前に現れたとき、あの衣装を一目見て今日の買い物リストを思い出せば、パズルのピースが全部揃ってしまう。
ウリエルはこの件に『保留』のレッテルを貼った。
そう決めた瞬間、セラフィーナが口を開いた。
ミルクティーのカップをゴミ箱に投げ入れ、こちらへ向き直った。
街灯の光が浅い茶色の髪に落ちて、髪の輪郭を薄い金色に縁取っていた。
「何かやることがあるなら先に行ってもらって大丈夫ですよ。気を遣わなくていいです」
ウリエルは表情を動かさなかった。
首を横に振って、両手を制服のポケットに突っ込んだ。
「いやいや、何もないですよ。帰りましょう」
セラフィーナはひとつ視線を投げてきた。
短すぎず長すぎず、ちょうど「見抜いてるけど言わない」くらいの長さだった。
それから向き直り、商店街の反対側へ歩き出した。
ウリエルは隣に並んで歩いたが、しばらくして方向がおかしいことに気づいた。
宿への道ではない。
「帰るんじゃないんですか?」
「乗り物で帰ります」
セラフィーナは振り返らずに答え、広場を通り抜けて、ウリエルが今まで一度も目に入れていなかった停留所の前で足を止めた。
二本のレールが停留所の前から延びて、通りの曲がり角に消えていた。
レールの上には一両の車両が停まっていた。
幅は鉄道の客車と大差ない。
車体は深みのある青に塗られていて、側面には王都市庁舎の紋章が金色で描かれていた。
両側に整然と並んだガラス窓の向こうに、暖かい黄色い光が透けて見えた。
向かいのシートとこざっぱりした制服の係員の姿が窓越しに見えた。
(マジか、公共バスなんてあるのか)
(というか——王立路面電車とでも呼ぶべきか)
ウリエルは彫刻の入った停留所の看板を見上げた。
花文字で各停留所の名前が書き連ねてある。
これまでずっと、王都の公共交通手段は馬車か徒歩の二択だと思っていた。
貧民には縁がなく、貴族にも使われない。
だから自分の行動範囲に一度も現れなかったわけだ。
セラフィーナはすでに乗り込んでいた。
扉のところで出迎えた係員に声をかけ、切符を二枚買った。
係員は深青の制服を着た中年の女性で、差し出された銀行カードを受け取り、切符を二枚切って返した。
セラフィーナは切符を受け取り、車内に進んで窓側の二人掛けの席に腰を下ろした。
ウリエルも後に続いて隣に座った。
座面の合皮のクッションが思ったよりずっと柔らかく、宿のソファより半ランク上の座り心地だった。
車内は空いていた。
ぱらぱらと、半分も埋まっていない。
前の席では老紳士が新聞を読み、後ろの角では買い物かごを抱えた婦人がうとうとと居眠りをしている。そして向かいの席には若いカップルが座っており、女の子が男の子の肩に頭を預けて目を閉じていた。
カップル。肩。
(やばい、思考が勝手に走り出した)
頭の中でシナリオが再生され始めた。
セラフィーナが揺れる車内でうとうとして、頭がこちらに傾いてくる展開。
もしこんなギャルゲーのCG回収イベントが発生したら、どう対応すべきか?
押しのけるのは薄情すぎる。
かといってそのままにしておくのも意味深になる。
最適解は——会話だ。
到着するまでひたすら喋り続ける。
「セラフィーナ」
彼女はゆっくりと後退していく夜の街並みを見ていたが、声を聞いて振り向いた。
「どうして貴族っぽくないんですか?」
セラフィーナはまばたきをして、こちらへ顔を向けた。
声のトーンに、普段より少しだけ興味の気配が滲んだ。
「ウリエルさんの中の貴族って、どんなイメージですか。傲慢で無礼、とか?」
少し首を傾け、礼儀正しい微笑みはそのままに、語尾にだけ揶揄の色を乗せた。
「先入観は良くないですよ、ウリエルさん」
ウリエルは気まずそうに頬をかいた。
少しだけ真剣味のある声で言い直した。
「そういう意味じゃなくて。ただ、ちゃんとした家柄なんだなって思っただけで」
セラフィーナは両手を膝の上で重ねた。
少し首を傾けると、髪が肩から胸の前に落ちた。
「次は家族の話ですか。お互いの家柄を探り合うって、お見合いみたいですよね、ウリエルさん」
絶妙に軽やかな口調だった。
でも「お見合い」という言葉が出た瞬間、ウリエルは本能的に背もたれに体を預けた。
「違う違う。俺たちって名義上の恋人同士じゃないですか」
「そうですよね。名義上だって、ちゃんと覚えてるんですね」
ウリエルは口を閉じた。
待て。
この会話の流れがおかしい。
さっきベンチで彼女が言っていたこと——「あなたみたいな人はなかなかいない」「あなたは違う」——そして今「名義上だって覚えてるんですね」。
これは自白罠ではないか。
「名義上に決まってる」と言えば言うほど、「実はそうじゃないかもしれない」という可能性を証明しているような構造になっている。
数秒で頭の中を何周かして、考えるのをやめた。
黙っていたほうがいい。
セラフィーナがちらりとこちらを見た。
木の枝に鳥が一瞬止まってすぐ飛び立つような、軽い視線だった。
向き直り、窓の外へ目を戻した。
魔光灯の光が車窓から流れ込んで、彼女の横顔の上で明滅した。
「家の話は、他の貴族家と比べて特に変わったところはないですよ」
声が変わった。
礼儀正しいミリ単位の社交スマイルでも、さっきの毒舌モードでも、何を演じているわけでもない。
もっと平たく、もっと力が抜けた声だった。
仮面を外してもいいと思い出したような、そういう声だった。
「両親が権力闘争に絡んでるとか、地下室で禁断魔法を研究してるとか、そういうのはないですよ。毎日の悩みといえば、お昼に何を食べるかと、どの服を着るか、くらいで」
ウリエルは聞きながら、どこかがすっきりしない感じがした。
いや、そもそも全然普通じゃないだろ。
誰が自分の家を紹介する時にわざわざ『禁断魔法は研究してない』なんて強調するんだ?この墓穴を掘ったような既視感は何だ。
まさか、本当は家で何かを研究していて、わざとそう言って俺に調査させようとしているのか?
それとも彼女自身も何らかの被害者で、こういう軽い口調で俺に何かを暗示しているのか?
いや待て、深読みしすぎか——
「ただ、ちょっと普通じゃない従姉がいて。二つ上で、幼なじみみたいに一緒に育ったんですけど。今頃、星辰級に上がる準備をしてると思います」
ウリエルはうなずいた。
それから勢いよく首をひねって、静かな車内に声が弾けた。
「山銅級じゃないですか。二つ上で?!」
前の席の紳士が新聞のページをめくった。
ぱさりと乾いた音が響いた。
後ろの婦人がもぞりと動いて、意味のない寝言を漏らした。
セラフィーナは人差し指を自分の唇の前に立てた。
表情は「まあ予想はしてたけど」と「なんとかして」の中間だった。
「驚く気持ちは分かりますけど、声、大きすぎます」
ウリエルは音量を戻したが、頭の中の感嘆符はまだ消えていなかった。
二つ上で、山銅級の頂点。星辰級を狙っている。
どういうことだ。
ルミナたちが三年かけて古龍を撃退し、各地を転戦し、命がけの実戦を重ねて、やっと山銅級の入り口に爪先を引っかけた。あれだけで十分汗が出た。
セラフィーナの従姉は十五で学校を終えて冒険者になり、二十そこそこで星辰級を射程に入れている。
さっき観測者でスキャンしたルミナの数値を思い出す。
山銅に入ったかどうか、くらいだった。
その従姉は、ルミナより数段上にいる。
セラフィーナがこれを話しているとき、表情がいつもと少し違った。
礼儀正しい微笑みが数ピクセル分かけていた。
眉がほんのわずかに寄っていた。
話し終えてから、静かに息を吐いた。
作られた憂いではなく、本当に何か不快なことを思い出した人の表情だった。
ウリエルはその顔を見て、頭の中でピースが一枚はまった気がした。
基礎剣技を繰り返し磨き上げた戦闘スタイル。
派手な変化球なし。魔力頼りなし。
同じ基本剣技を一万回繰り返して骨に刻み込んだ、正確さだけで戦う流儀。
才能で従姉に追いつけないとわかっていて、別の道を選んだのだとしたら——
彼女なりの答えがある。
「戦い方、よかったと思う。あの人と比べる必要は全然ない」
言い方がいつもより少し真剣で、自分でも気づかないうちに少し柔らかかった。
セラフィーナはこちらへ顔を向けた。
暖黄色の車内灯の下で、薄灰色の瞳が深く見えた。
感動も、喜びも、不快もなかった。
ただ静かに見ていた。
そして口を開いた。
「ウリエルさん、何か勘違いしてますよ」
「え?」
「私、自分の戦い方、好きなんですよ。自分へのプレゼントだと思ってます」
ウリエルは首をかしげた。
好きなら、なぜ従姉の話をしているとき眉をひそめて息をついたのか。
従姉に勝てないことへの悔しさではないのか。
気づくと口が動いていた。
「てっきり嫌いなのかと思ってました。成長する過程でずっと誰かと比べられてきたから、みたいな」
セラフィーナは目をすっと細めた。
切り替わりは素早かった。
礼儀正しい微笑みが眼差しから弾き出され、代わりにウリエルが見慣れた、あの死んだ魚の目が現れた。
目を閉じ、今度は少し重い溜め息をついた。
「言うと長くなるし、長く話したくはないんですけど、黙ってると誤解されたままなのが困る」という色の溜め息だった。
「確かに嫌いです。でも理由は違います」
目を開いたとき、死んだ魚の目の奥に、複雑な感情の光が一瞬よぎった。
ウリエルにはその感情に見覚えがあった。
先日レオが肩を叩いて「お前、もしかしてゲイか?」と聞いてきたとき、自分の顔はたぶんこんな感じだった。
「あの人は——その、距離感がわからないんです」
ウリエルの瞳孔がわずかに開いた。
同士よ。
自分にも距離感のわからない母親がいる。
わかる。これ以上ないくらいわかる。
昨日、ルームメイト様が自分にセラフィーナの骨盤の幅の話をしてきたのだ。
しかしセラフィーナの言葉はまだ終わっていなかった。
唇がわずかに動いた。
言葉を選んでいるような間があった。
胸の前で無意識に髪の一束を指に巻き付け、くるくると回している。
指先がネックレスのチェーンを二回、軽く叩いた。
車両がガタン、と揺れた。
窓の外を街灯が一つ流れて、橙色の光が彼女の横顔を一瞬照らした。
少し青白く見えた。
「あの人……レズなんです」
【第六十四話・終】
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
もし「面白い!」「続きが気になる!」「笑った!」と少しでも思っていただけましたら、 ページ下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、作者のモチベーションが爆上がりします!
ブックマークの登録も、ぜひよろしくお願いいたします! 次回もよろしくお願いします!




