第六十二話:普通の日々
契約上の恋人。計算された距離。
そんな“普通の日々”が、思いのほか穏やかに過ぎていく。
夜ごとの母の詮索も、友人の嫉妬も、すべては許容範囲。
あの「レンタル彼氏」契約を結んでから、ウリエルの学院生活は妙に規則正しくなった。
朝はティアンと学院へ向かい、
昼はセラフィーナの隣で食事。
野外授業では自然と同じ班になり、
放課後は荷物持ちや図書館の返本に付き合う。
傍から見れば、完全に恋人同士だった。
距離は近すぎず、遠すぎず。
肘が触れると、ほんの少しだけ距離を取り、それ以上は離れない。
手を繋ぐこともあったし、食堂では相変わらず小皿の料理をこちらへ押してくる。
彼が箸を伸ばすとき、彼女は瞼一枚動かさなかった。
もう慣れた、という顔で。
レオとカイの二人は、衝撃から麻痺へと進化を遂げていた。
レオはまだたまにテーブルに突っ伏して「なんでなんでなんで」と呟いている。
カイのほうは冷静で、ウリエルとセラフィーナが別れる日に備え、彼から学んだことを全部そのまま使うつもりでいるらしい。
(別に好きにすれば)
ウリエルは特に気にしなかった。
問題は、夜だった。
宿舎に戻ってからが本当の試練だった。
「今日、何を取り分けてもらったの?」
「青菜」
「それだけ?」
「あと魚が一切れ」
ティアンはベッドの端に両手を膝の上で重ねて座り、真剣な顔で聞いた。
毎日の食事レポートを記録している人みたいだった。
「魚を取り分けてくれたってことは、彼女自身が好きなもの? それとも——」
「母さん」
「なぁに?」
「もう寝るよ」
ティアンは口を閉じた。
少し間があって。
「ふたりはどこまで進んだのぉ?」
「寝るよ」
毎晩これだった。
母さんの好奇心が、完全にセラフィーナへ向いてしまっていた。
立ち居振る舞いから性格、性格から体つき——話題がおかしな方向へ転がりはじめると、ウリエルの脳は自動的に電源を落とした。
そんなある夜のことだった。
「ウリちゃん、今日のセラフィーナちゃんのスカート、気づいた? あの丈、すごく彼女に合ってたよぉ。歩くのに引っかからないし、走るときも邪魔にならないし」
ティアンはベッドの端に腰かけ、ウリエルが今日脱いだ制服を丁寧に畳みながら言った。
夕飯のメニューでも話すような、柔らかい声で。
ウリエルは図書館で借りた魔力理論の教本をうつ伏せで読んでいて、顔を上げずに「ふーん」と答えた。
「それと今日の髪型、横に小さなおさげが一本あったでしょう。ああいう編み方、一人ではできないから、きっとお友達に頼んだんだよぉ。派手にはしないけど、細かいところにちゃんと気を使う女の子ってことだよね。そういう子を家に迎えれば間違いないよ」
「母さん」
「なに?」
「いつから人のおさげを研究するようになったの」
ティアンは畳んだ制服を枕元に置き、少し首を傾けた。
温かみのある顔には、気まずさのかけらも見当たらなかった。
大事な育児の知見を共有している、というような顔をしていた。
「それとね、体のつくりもよかったよぉ」
ウリエルは手にした教本をバタンと閉じた。
「骨盤の形がすごくいいのぉ。あれならお産もきっと楽。ママね、昔ギルドで女性冒険者の体格をたくさん見てきたから分かるんだけど……あの骨格は出産向きなの」
ウリエルは教本を顔に被せ、そのままマットレスに沈んだ。
「母さん。また子作りの適性の話してる」
「ママはね、ちゃんとした話をしてるんだよぉ」
「母さんだって十分スタイルいいじゃん」
ウリエルは教本を顔から外し、仰向けに転がって天井を見た。
虚無の境地から説教モードへ、語気が切り替わった。
「でも、中身は真っ白じゃん。感情の土台が一番大事なんだよ、分かる?」
ティアンはそれを聞いても、特に傷ついた様子はなかった。
衣服を枕元できれいに揃えてから、両手を膝の上で重ね、ほんの少し首を傾けてウリエルを見た。
母性の目尻が柔らかく下がった。
「ウリちゃんの言う通りだね。深みがあって、しっかり自分の意見を持って、感情を大切にする。ママ、すごく嬉しい」
ウリエルは教本を顔の上に戻した。
このまま話を続けたら今夜は眠れない。
そう悟って、別の話を切り出した。
「最近どう? 一緒に授業出てないけど」
「頑張り屋の子たちと野外授業に出てるよぉ。進度に追いつくのを手伝ってて。ある女の子が石礫魔法でいつも的を外しててねぇ、何回か教えたら今は当たるようになってきたよ」
ウリエルは教本を少しだけずらし、そこからティアンを見た。
袖口を整えながら下を向く横顔が、薄暗い灯りの下でやわらかかった。
(やっぱり、一人でいても同じだな)
どこへ行っても、誰かの世話を焼いている。
数日後の午後、剣術の授業が終わり、木剣を武器棚に戻したとき、ウリエルはあることを思い出した。
魔女の装備だ。
先日、学院長室でティアンが水筒から作り出した光の剣は見た目の迫力は十分だったが、あれは臨時の間に合わせに過ぎない。
まともな剣を一本仕立ててやる必要がある。
衣装も問題だった。
前回の黒白の軍服は魔力で編んだもので、ティアンは十年は保つと言っていたが、毎回あれで対応するわけにもいかない。
きちんとした本物を仕立てなければ。
授業後、訓練場を抜けて教棟の入り口へ向かうと、ティアンがいた。
クラスメートに魔法陣の書き方を教えているところで、石床にしゃがんでチョークで正しい符文の構造を描いてやっていた。
ウリエルは肩を叩いて、声を落として言った。
「行こう。王都をちょっとぶらついてくる」
ティアンはチョークの粉を手から払って立ち上がり、ついてこようとした。
「ウリエル君」
後ろから声がした。
振り向くと、セラフィーナが廊下の柱の横に立っていた。
図書館から借りてきたらしい本を二冊抱えている。
顔には標準装備の礼儀正しい微笑み。
しかし彼女の視線がウリエルの肩越しに、その背後半歩のところに立つティアンを捉えた瞬間——
足が止まった。
三歩手前で、ぴたりと。
本を抱える指が、そっと締まった。
関節が白くなるくらいに。
その距離の取り方は微妙だった。
親しくない人同士の間に生まれる、ごく自然な社交的間隔。
「交際している男子の同室の友人」に対して保つべき距離ではなかった。
ティアンの反応は素早かった。
ウリエルがフォローの一言を思いつく前に、彼女はすでに片手を額に当てていた。
ばしん、と盛大な音を立てて。
身体まで一緒に揺れた。
「ぼ、僕、頭が痛くてぇ……熱があるみたいっす」
棒読みだった。
痛みも苦しさも一切感じさせない棒読みで、顔にはっきりと「仮病」と書いてあった。
「具合が悪い人」の声ではなかった。
目がこっそりウリエルのほうへ流れてきた。
その顔には「ママがチャンスを作ってあげたから、無駄にしないでね」と書いてあった。
「先に戻るね」
そう言って、ティアンは走り去った。
足取りは軽く、弾んでいた。
熱のある人間の歩き方ではなかった。
廊下の角を曲がり、姿が消えた。
ウリエルは消えた方向を眺めながら、口の端がひくっと引きつった。
(バレバレすぎる)
まあ、いい。
セラフィーナのほうを向いた。
もうお母さんがこっち方向に台本を押し込んでしまったのなら、今更引き戻す気にもなれない。
(まあ、ちょうどいいか。魔女の剣を注文する用事があるし、途中で上手く彼女を撒けばいいだけだ)
「ちょっとぶらつかない?」
セラフィーナはしばらく彼を見つめ、それから頷いた。
王都の繁華街は第四学院からそう遠くなく、徒歩で十五分程度の距離だった。
夕暮れの光が沿道の日除けの隙間から差し込み、石畳の上に細長い金色の帯を引いた。
ウリエルの目的地は明確だった。
商店街の裏手の細い路地に潜む、武器の特注を受けてくれる小さな工房だ。
間口は狭く、入り口には看板すらない。
かろうじて、砧の形をした木の表札があり、そこに「鍛」という文字が一文字刻まれているだけだった。
冒険者ギルドの掲示板でここを見かけたとき、職人の腕は大店に劣らないが人付き合いが苦手という評判を読んだ。
それは都合がよかった。
路地の入り口に差し掛かったとき、セラフィーナが足を止めた。
「あっちで何か食べてきます」
大通りの方角を指さした。
屋台が並んでいる一角で、炭火の煙と焼き菓子の甘い香りが混ざって漂ってきている。
ウリエルは一瞬間を置いてから、頷いた。
(気を利かせてくれたのか)
来た目的が私用だということを、きちんと察した。
詮索もせず、ついてくることも強いず、さりげなく自分から場所を外してくれた。
野暮な好奇心もなく、しつこく問い詰める気もない。
……いや、単に人買いを警戒されてる可能性もゼロじゃないな。
工房を出る頃には、空はすっかり薄暗くなっていた。
注文したのは一振りの西洋剣だ。
聖剣の魔女の黒白の軍服に合わせたデザインで、鍔は銀色の半球型、刃はレイピアに近い細身のもの。
職人は背の丸まった老いたドワーフで、ウリエルの説明を聞き終えてから、眼鏡の縁越しにじっと五秒間見つめてきた。
それから鼻を鳴らした。
「お前さん、誰のために作らせるんだ。これは護身用じゃない。人を殺すための剣だぞ」
「刃は要りません。丈夫なだけでいい」
それでも注文は受けてもらえた。
高くもなく、ぼったくりでもない値段を言われた。
手付けを払い、一週間後に受け取る約束をして、路地を出た。
商店街の大通りへ戻ると、セラフィーナは街路樹の下に立っていた。
手にはソフトクリームのコーンが二本と、紙袋が一つ。
紙袋からは冷気が立ち上っていて、中のカップ飲み物のふちがうっすら見えた。
「これ、どうぞ」
カップの飲み物を一つと、コーンの片方を渡してきた。
ウリエルは受け取ったコーンを見下ろした。
バニラ味だった。
てっぺんのクリームがすでに少し溶けはじめていて、コーンの縁を一滴、白く伝っている。
急いでひと舐めした。
二人は商店街をしばらく歩き、街路の花壇の横のベンチに腰を下ろした。
夕方の風は昼より涼しく、花壇のペチュニアをゆっくりと揺らしていた。
街灯が一本ずつ、橙色の光を灯しはじめる。
石畳が暖かい色に染まっていった。
ウリエルはコーンを齧りながら、頭の中で算段を立てた。
衣装の仕立てがまだ残っている。
さすがにセラフィーナの目の前で、仕立て屋に入って「黒白の中二軍服を一着お願いします」とは言えない。
うまく席を外させる口実が要る。
コーンの縁をかじったとき、右足に何かゆるくなる感触があった。
見ると、靴紐がほどけていた。
ウリエルはひとくちクリームを口に押し込み、コーンをセラフィーナへ差し出した。
「ちょっと持ってて」
かがんで靴紐を結び直した。
十秒ほどの作業だった。
立ち上がってコーンを受け取り、また齧ろうとしたところで、視線がアイスの上で止まった。
アイスの側面に、はっきりとした欠けがあった。
自分がさっき齧ったものとは違う。
あのときの自分はコーンの縁に近い場所を齧った。
でもこの欠けは、クリームの正面にある。
弧が小さく、咬み跡が浅くて、きれいだ。
誰かがそっと一口、つまんで食べたような跡だ。
ウリエルはその欠けを二秒、見つめた。
それから顔を上げて、セラフィーナを見た。
「ちょっと大胆じゃない?」
セラフィーナは自分のカップアイスをスプーンでひとすくいして、口に運んでいた。
その言葉を聞いても、眉ひとつ動かさなかった。
ウリエルの手のコーンを指さした。
「溶けてますよ。垂れます」
ウリエルが見ると、確かに一滴のクリームがコーンの縁を伝って滑っていた。
急いで舐めた。
でも顔を上げて、今度は少し引っかかった声で続けた。
「それって、俺の食べかけなんだけど」
【第六十二話・終】
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