第六十一話:お人好し
金に目が眩んだフリをするのは、たやすい。
だが、見抜かれているフリを見抜かれていると知ったとき、交渉は一気に泥沼へと変わる。
ウリエルはそのカードを見つめた。
金箔押しの王立銀行の紋章が木陰の中で光を反射していた。
一筋の傷もない、新しいカードだった。
脳内だけが忙しくなった。
百ゴールドコイン。
換算すると一万シルバーだ。
ウリエルとティアンが王都で一日暮らすのに、食事も宿も雑費も全部込みで、どんなに使っても八十シルバー前後だ。
百ゴールドコインがあれば、二人でこの街に丸一期滞在してもおつりが来る。
どう見ても大金だった。
指先がぴくっと動いた。
待て。
少し待て。
もしセラフィーナが、自分と同じ考えを持っていたら?
さっきの言葉を順に追うと——「合わせて弱く見せている」から「あなたの近くにいる方」、そして今のカード——どの一手も、事前に稽古してきたみたいに正確だった。
従姉から逃げているとも言った。ティアンを遮断するためだとも言った。
でも、それ自体が探りだったとしたら?
話の振り方のひとつひとつ——実力を隠すこと、人間関係、お金——全部がこちらの反応を試すためだったとしたら?
もし彼女が本当にこちらの弱点を探しているなら、今自分が立っているのは、巧妙に設計された多方向からの罠の中だ。
あの言葉がすべて遠回しの探りだったとしたら?
なら、あの問いのひとつひとつは、位置取りであり、検証だった。
別れると言い張ったら、何を意味するか。
別れると言い張る=この金が要らない。
要らない=安定した収入がある。
普通の学生に安定した収入がどこから来る?
実家の後ろ盾?
庇護者?
それとも表に出せない人脈?
この金額は決して少なくない。受け取らない=実家の太さを証明してしまうことになり、どうあがいても『普通の学生』という設定が破綻してしまう。
このまま辿れば——ティアンの正体、旅団の存在、学院長の件の真相——そのどれもが、こじ開けられるのを待っている鍵になってしまう。
ウリエルは二つ分の人生を合わせた自制心を全力で動員して、「ヒモにしてください」という言葉を喉の奥に押し込んだ。
別れられない。ならば承諾するしかない。
でも、すぐに承諾してはいけない。
適当にはぐらかす必要がある。
お金に困っている普通の学生、という立ち位置は安全だ。
ただ、普通の貧乏学生が突然の大金を前に、迷いなく跪いたら、それはそれで手慣れすぎていて怪しい。
「欲しいのに、あえて渋っているふりをする」という葛藤を演じなければならない。
ウリエルはこの論法が完璧だと思った。
顔をわずかにそらし、横目でセラフィーナを見ながら口を開いた。
声を平時より少し低く落とし、落ち着いた、よく考えた上での言葉に聞こえるように。
「お金の問題じゃないんです」
セラフィーナはカードを差し出したままの手を引かなかった。
姿勢は微動だにしない。静かに彼を見たまま、すでに用意していた数字を口にした。
「二百」
「金額の問題でもないんです」
ウリエルはもう一言付け加えた。
さっきより力強く、筋の通った口ぶりで。
背中をベンチの背もたれに預け、腕を胸の前で組んだ。
全身から「清貧を貫く高潔な男」という気概が滲み出ていた。
セラフィーナは目を閉じた。
唇がひと筋の線になり、ゆっくりと息を吐いた。
重くもなく軽くもなく、ちょうど向かいの人間に「あなたに付き合って演じていると疲れます」という意味が伝わるくらいの溜め息だった。
もう一度目を開けたとき、眼差しが変わっていた。
礼儀正しい伯爵令嬢の顔はもうそこにない。
理性のツッコミ役に乗り移られたような、完全に感情を失った死んだ魚の目だった。
口調はまだ丁寧だった。
言葉遣いも相変わらず上品だった。
でもその死んだ魚の目と組み合わさると、効果はひどく不思議なことになった。
「五百ゴールドコインです」
ウリエルはその数字を聞いた瞬間、体が小さく震えた。
魂が肉体から抜けかけるほど震えた。
「私にも考えがありますので」とか「もう少し検討する時間を」とか言おうとした。
しかしセラフィーナは彼が口を開く前に続けた。
「これが最後の提示です。私でも、相手がこんなふうに、欲しいのにわざわざ渋ってみせる演技に付き合い続けるのは、割に合わないと感じます」
ウリエルには聞こえた。最後通牒だ。
その言葉のひと文字ひと文字が、首の後ろに氷水を注がれるような感覚だった。
見抜かれていた。値踏みしながら渋っていた演技を、全部見抜かれていた。
それでも「欲しいのに」という一言で、心臓が一拍詰まった——彼女が言っているのは、お金のことか。それとも別の何かか。違う、読みすぎるな。彼女はお金のことを言っている。あの無表情な目がこちらを見ている。その表情が言っていた。ここまで値上げしたんだから、これ以上お互い気まずくなる前に終わりにしましょう、と。
この言葉にはもう一つ、もっと明確なシグナルがあった。
底値と言った。これ以上演じれば、お金が飛ぶどころか、逆効果になりかねない。
大声で叱り飛ばしてやろうかとも思ったが、いかんせん積まれた額が多すぎた。
一ヶ月分だけでも、自分と母さんが王都で丸一年寝て暮らせる金額だ。
次の瞬間、カードはウリエルの手の中にあった。
セラフィーナが押し付けたのか?
否、彼自身が手を伸ばして奪い取ったのだ。最後通牒を聞いた瞬間の、完全なる無意識。
その動作は一切の迷いがなく、正確無比かつ電光石火。脳が筋肉へ電気信号を送るよりも速かった。
あまりの速さに、セラフィーナの冷めた目にも、ごく微細な揺らぎが走った。
たぶん目の前にいる人間の面の皮の厚さを、再計算していた。
「仕方ないですね」
語調の切り替えは完璧にスムーズだった。
正義漢の顔が、何の継ぎ目もなく苦笑に変わった。
片手でカードをポケットに入れ、もう片方の手の平を上に向けて広げ、肩をすくめた。
「人助けが好きな性分ですから。これからもどうぞよろしく」
セラフィーナの冷めた目が、きっちり三秒間彼を見た。
それから視線を引き戻した。
死んだ魚の目が、いつもの穏やかな目に戻った。
小さく頷いた。
幅は狭かったが、口元がひとすじ上がった。
よく見なければわからないくらいの弧だった。
微笑みではなく、面倒な案件をようやく片付けたときの顔だった。
ウリエルはベンチの背もたれに寄りかかった。
ポケットの中のカードが太ももに当たって、少し冷たくて、少し硬かった。
でもその実感こそが、大金が手に入ったということを教えてくれていた。
自分が「ただの金目当て」という人物像を打ち立てることには、ひとまず成功したと判断した。
五百ゴールドコインに目が眩んだ普通の学生。食いついたのは全部お金の餌で、頭の中はお金のことしかない。
この設定は安全だ。
他の方向で疑われることはないはずだ。
だが、気を抜くのはまだ早い。
内側から爆発するのを防ぐために、すぐにやるべきことが一つあった。
母さんに話しておく必要がある。
セラフィーナをいつまでも見つめるのはやめてもらわないといけない。
あの「お嫁さん審査モード」をこのまま放置すれば、苦労して作り上げた「金目当て」の人物像が、内側から崩れてしまう。
宿に戻ってから、ウリエルはティアンと話し合った。
セラフィーナをじっと見るのはやめてほしいと伝えた。
理由は、礼儀がないこと、気づかれやすいこと、他の人に悪人だと思われかねないこと、などだ。
ティアンはベッドに座って本をペラペラとめくりながら、「そうね」「じゃあこっそり見ればいいか」と適当な返事をしていた。
ウリエルは、そんな彼女の気のない態度を見て——どう見ても真面目に聞いていないなと思い、もう少し踏み込むことにした
もう少し踏み込むことにした。
「母さん」
「なぁに?」
「あのやり方だと」
ウリエルは真剣な顔になった。
「セラフィーナさんが気持ち悪くなって、次に会ったときに逃げ出したりしたら、どうする?」
ティアンの本をめくる手が止まった。
ウリエルは畳み掛けた。
「それで同じ宿舎だからって、ついでに俺のことも無視するようになったら、全部ご破算じゃないか」
ティアンが顔を上げた。眉がかすかに寄った。
急所を掴まれた顔だった。
「……そうなる?」
「わからない」
ウリエルは溜め息をついて首を振った。心配そうな顔で。
「女の子は繊細だから、一度印象がついたらなかなか覆せないよ」
ティアンは本を閉じた。
膝の上に置いて、表紙を二秒ほど見つめてから、自然に頭を後ろに傾け、天井を見た。
本当にこの話の深刻さを測りにいっているような顔だった。
「それは確かにまずいわねぇ。せっかくのお嫁さん、逃がしちゃダメだものねぇ」
「だから、ずっと見つめるのはやめて。心の中で採点するのもダメ。向こうにはバレバレだから」
「うん」
ティアンは頷いた。少し背筋が伸びた。
「気をつける」
それから少し不安そうに確認した。
「……普通に気にかけてあげるくらいは、いいわよね?」
「駄目」
「こっそり気にかけるのは?」
「それも駄目」
「分かった」
ティアンはまた本を手に取った。でも今度はページをめくる動作が遅くなった。まだ考えているらしかった。少しして、また一言飛んできた。
「でも、もし本当に無視されたりしたら」
「母さん」
「うん、うん、もういい、言わない。目立たずにするから、気をつける」
ティアンは心得たとばかりに微笑んで、話題を閉じた。
【第六十一話・終】
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