第五十六話:走廊の告白騒動
「初めて見た瞬間に、子どもの名前まで考えてた」——わざと引かせるための渾身のキメ台詞が、なぜか効かなかった。
全校男子の敵となったウリエルの、明日はどっちだ。
壁に寄りかかっていたウリエルは、思わずズルッと足を滑らせ、危うく腰をいわすところだった。
「眠い」って何だ。
これまでセラフィーナが量産してきた『いい人止まり』の宣告を、彼は嫌というほど見てきた。どれもが隙一つなく完璧だった。
「ご好意、誠にありがとうございます。ですが、申し訳ございません」
鉄板の定型文。一字一句ブレなし。
だが、これまで「眠い」などという理由で断るのを聞いたことがない?
これは一体、どこの新流派なんだ。
ティアンはおとなしかった。
お辞儀を一つして「お邪魔しました」と言い、くるりと向きを変えてウリエルの方へ戻ってきた。
表情は穏やかで、断られた気まずさのかけらもない。
むしろ、ちょっとした使い走りを終えてきたような顔をしていた。
ウリエルがティアンと目で何かを伝え合う前に、セラフィーナの方が先に彼の存在に気づいた。
廊下の隅に突っ立っていたウリエルの存在感が、ある閾値を超えたらしい。
彼女はこちらを向き、営業スマイルを顔に貼り直した。
目尻にまだわずかな緊張が残っていたが、声は完璧に整っていた。
「そこのあなた、何かご用ですの? お困りのことでもよろしくて?」
(母さん、この前この人に何をしたんだ。「学院長に気をつけて」の九文字で、伯爵家のご令嬢がここまで動揺するか?)
ウリエルの頭が高速回転した。
もともとの作戦は単純だった。
ティアンと同じ定番コースをなぞって、いい人止まりを受け取って終わり。
でも今目の前で見たとおり、定番コースの結果は「眠い」だった。
まずい。作戦を変えなければ。
真っ向勝負がダメなら……じゃあ逆だ。
歯が浮くくらい甘く。見ているだけで白目をむきたくなるくらい、浮ついた感じで。
そうすれば断られる確率は逆に上がるはずだ。
ウリエルは姿勢を正し、数歩前へ出た。
セラフィーナの正面で立ち止まり、片手で軽く襟元を整えてから、わざとらしく咳払いを一つ。
そして頭を上げ、三流昼ドラの主人公も顔負けの、目に痛い表情を作り上げ、その声には謎のエコーと、無駄に響くエッジボイスまで混じっていた。
「きみが綺麗だと思った。好きだと思った。初めて見た瞬間に、子どもの名前まで考えてた」
セラフィーナはすぐに答えなかった。
視線がわずかに動いた。
ウリエルを見ていない。
彼の肩越しに、後ろに立っているティアンを、小鳥が羽ばたくかのような一瞬の動作で、素早くちらりと確認した。
ウリエルが目を離さず見ていなければ、絶対に気づかなかった。
それから彼女は視線を戻し、手を身前で重ねて、静かに頭を傾けた。
礼儀正しい笑みが戻ってくる。
ただし、今度は弧の角度が微妙に違う気がした。
「そう言っていただけて、光栄ですわ」
声は相変わらず柔らかい。
でも何かがずれている。
「では、わたくしにもあなたのことを好きになれるよう、よろしくお願いいたしますわ。そのときに、考えていたお名前を聞かせてくださいな」
顔を上げ、ウリエルの目を正面から見て、笑顔は完璧なまま。
「よろしくお願いします」
沈黙。
廊下の角から立ち止まっていた男子生徒三人のうちの一人が、肩からカバンのストラップをずり落とした。
気づいていない。
(いい人止まりじゃないのか。「ご好意、誠にありがとうございます。ですが、申し訳ございません」、定型文、永遠に揺るがない定型文のはずじゃないのか。どうして「よろしくお願いします」なんだ。この展開、おかしくないか)
ウリエルの頭がフリーズしかけた、その瞬間。
背後から、「パン、パン、パン」と澄んだリズムの揃った拍手の音が届いた。
「パン、パン、パン」
ティアンが数歩後ろに立ったまま、静かに拍手していた。
顔には純粋な、底からにじみ出るような喜びが書いてある。
その表情は明らかに「ママ、嬉しい」と言っていた。
拍手をしながら、いつもの柔らかい声で一言。
「おめでとうぉ~!」
その瞬間、廊下で立ち止まっていた男子三人が、同時に息を飲んだ。
一人はすでに袖で目元を押さえていて、「こんな名場面が見られるとは」と呟いている。
もう一人は手帳を取り出し、猛烈な速さで何かを書き始めた。
今の台詞を書き留めているらしかった。たぶん次に使いたいのだろう。
ウリエルはその場に立ち尽くした。
目の前では、完璧に微笑んでいるセラフィーナ。
後ろでは、拍手をやめないティアン。
自分がパズルの欠けたピースになったような気分だった。
どこへずれても、誰かが笑顔で拍手している。
普通の学生の、普通の当て馬作戦は、ここで完全に脱輪した。
ウリエルは廊下の角に立ったまま、口を半開きにした姿勢で固まっていた。
(『異世界で女の子を口説く難易度が百倍になっても、なぜか転生者の俺だけは例外ってこと!?』)
セラフィーナはもうそこにいなかった。
裾が人ごみの中でふわりと揺れ、教棟の角を曲がって消えた。
ティアンはまだ後ろで拍手を続けていた。
パン、パン、パン。
廊下に音が弾んでいる。
さっきの男子三人はいつの間にか輪になっていて、一人が手帳に何かを書き続け、一人が隣の肩を叩きながら「名場面、名場面」と繰り返している。
「母さん、もういいって」
三日間、直射日光で天日干しにされたジャガイモのごとくパッサパサだった。
ティアンは手を止め、首をかしげた。
灼金色の瞳には、まだ晴れない喜びの残滓が漂っている。
ウリちゃんがあの顔をしている理由が、まるでわからない様子だった。
授業の鐘が鳴った。
野次馬を散らし、硬直したウリエルをかろうじて解凍した。
彼はこわばった足を引きずりながら教室へ向かい、一瞬だけ考え込んだ。
……いい人止まりじゃないのか。
噂の広がりは予想をはるかに超えていた。
どのくらいかというと。
同じ午後の授業が終わる前に、第四学院の廊下ではもう指をさされていた。
放課後に旅館へ帰り着いて玄関を押し開けた瞬間、見知った二つの影がロビーのソファの陰から百メートル走のスタートダッシュで飛び出してきた。
「ウリエル……!」
レオの声がロビー全体に響き渡った。
フロントの係員が一瞬顔を上げ、また帳簿に視線を落とした。
レオの顔は真っ赤だった。走ったからなのか興奮しているのかは判別不能。
カイは一歩遅れて後に続いた。足取りは落ち着いているが、目に収まりきらない驚きと好奇心がだだ漏れだ。
「お前お前お前お前……!」
レオが人差し指をウリエルの鼻先に突きつける。
指先が震えていた。
「セラフィーナに告白して、成功したのか?!」
「噂を聞いたとき、人違いだと思った」
カイが鼻梁の上にない眼鏡を押し上げる仕草をしながら、なぜか冷静な口調で言った。
「三回確認した。三回だぞ」
「いつ動いた? どうして何も漏らさなかった? 抜け駆けか?」
レオがぐるりと一周、ウリエルの周りを回る。
まるで未知の珍獣を観察しているようだった。
「違う違う、こいつは普段、女の子なんてまともに見ないじゃないか。とっておきの技を隠してたな。絶対隠してたな。言え。何か特別な必殺技があるんだろ?」
「ちょっと待ってくれ」
ウリエルが両手を上げて制止しようとした瞬間、レオの次の一言で、その手が空中で止まった。
「それに……まさかわざと百人目まで待ったのか?俺とカイがどっちも玉砕した後で出てきて、きりよくゼロの数を合わせた?ウリエル先生、口説き方を教えてくださいよ!」
ウリエルは口をパクパクさせたが、喉から声は出てこなかった。
言いたいことはいくらでもあった。
自分でも何が起きたかわからない、と言いたかった。
最初からいい人止まりをもらって終わりにするつもりだったと言いたかった。
「初めて見た瞬間に子どもの名前まで考えてた」はわざと引かれるために言ったんだと言いたかった。
でも二人の目が輝きすぎていた。
あの輝き方、見覚えがある。
ルミナたちが魔女様を見るときと、まったく同じやつだ。
噂はさらに発酵した。
翌日には第四学院だけでなく、旅館に仮住まいしている第一学院の生徒まで全員が知っていた。
青空授業中も、食堂の行列でも、トイレの個室の隣からも。
「第一学院の男子がセラフィーナへの告白に成功した」という話が漏れ聞こえてくる。
どちらの学院のどの場所を歩いていても、四方八方から視線を感じた。
男子の目は「こいつが? なんで?」
女子の目は「これがセラフィーナを落とした人? 見た目は普通だけど」
全校男子の敵。いや、二校合わせた全男子の共通の敵だ。
(知ってる、この感じ。でもグレードアップしてる)
翌日の昼、旅館の食堂。
ウリエルはトレイをテーブルに置いて椅子に溶け込み、生きる気力と世界への信頼の中間あたりを失った顔をしていた。
「想定してた展開と、全然違う」
手のひらで顔を覆い、くぐもった声で言った。
向かいに座っていたレオとカイが同時に箸を置き、身を乗り出した。
レオの口の端にご飯粒がついたままだったが、本人は完全に気づいていない。
カイはいつの間にか手帳を開いて、ペンを正しく握っていた。
「昨日の一部始終を、最初から最後まで一言も省かずに話せ」
レオの目が怖いくらい輝いている。
ウリエルは顔から手を離し、大きく息をついた。
もうここまで来て隠しても意味がない。
どうやって襟元を整えたか、どんな台詞を言ったか、セラフィーナがどう返したか。
全部、順番に話した。
レオは箸を宙に浮かせたまま、皿のことを忘れた。
カイのペンが手帳の上を走り続けた。
「その台詞、どこで覚えた?」
カイが顔を上げ、複雑な表情で聞いた。
「独学です」
ウリエルは無表情で答えた。
レオがさらに詳しいことを聞こうとした、その瞬間。
視線が遠くへ泳いで、口が「あ」の形のまま止まった。
カイのペンも止まった。
二人同時に、ウリエルの背後を見た。
表情が一秒で「絶賛取材中」から「敬礼」へと切り替わった。
ウリエルは二人の視線の先を振り返った。
セラフィーナが、二歩後ろに立っていた。
トレイを両手で持ち、浅茶色の髪は素色のリボンで緩くまとめてある。
食堂の昼の光が背後の窓から差し込んで、彼女の輪郭に薄い金色の縁を引いていた。
どこをどう切り取っても、完璧な学院ロマンスの一場面だった。
……もし、トレイの縁を掴む両手の指が、力を入れすぎて白くなっているのを無視すれば、の話だが。
「こちらに座っても、よろしいでしょうか」
【第五十六話・終】
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