第五十三話:塵は塵に、土は土に
魔女の仮面を脱ぎ、またいつもの親子に戻る、決戦の夜の静かな終わり。
魔女はふと、手の中の保温ボトルに目を落とした。
淡い青の刀身がかすかに鳴り、ボトルのフタへと静かに吸い込まれていく。
光の粒が散り、ふわふわと空中に漂っては、そのまま消え去った。
魔女はボトルを無造作に机のそばへ戻した。
相変わらず同じボトルだ。
外側には傷ひとつ増えていない。
ドアが細く開いていた。
オズワルドが暴れたとき、爆風で吹き飛んで閉まっていたやつだ。
ウリエルが半分だけ顔を突っ込んで、素早く室内を見渡した。
倒れた本棚。
灰燼と化した紙くずが床一面に散乱している。
地に伏して、完全に気を失った学院長。
そして部屋の中央にたたずむ、完璧に無傷の魔女。
状況確認完了。
彼はドアを押し広げ、体を横にして中へ滑り込んだ。
制服には焦げた跡がいくつもある。
袖口が焼け落ちていて、肩口には灰が広く擦り付いていた。
さっき落下したとき、空中で体勢をどうにか立て直したものの、下の火の壁をくぐり抜けるときに何度か火傷を食らった。
(まあ、死ぬほどじゃないけど)
魔女は彼が入ってきた瞬間、すでに歩み寄っていた。
金色の瞳が上から下まで、そして下から上まで、すうっと視線を走らせる。
手が彼の肩の上でためらうように止まった。
触れたい。でも傷に当たったら。
「転んだ?痛い?怪我してる?」
三連発。
魔女の声に、もうあの冷たい響きは残っていなかった。
いつもの、あのべたべたするくらい心配性なお母さんの声だ。
ウリエルは手を振って、袖口でまだ火花を散らしていた布切れを払い落とした。
「大丈夫。制服が燃えただけ」
軽く肩をすくめる。
「まあちょうどよかったじゃん。ザクロジュースの洗濯もしなくて済んだし、新しいの買えばいいよ」
魔女の動きが、ぴたりと止まった。
ボロボロに焦げた制服をじっと見つめて、こくりと一度うなずく。
「うん。新しいの、買ってあげるからねぇ」
ウリエルは魔女の横をすり抜け、床に倒れた学院長を見下ろした。
オズワルド・ラザフォード。
ミスリル級。いつだかの武闘大会のチャンピオン。名の知れた冒険者。呪縛教団の中堅幹部。そしてこの学院の長。
今は壁際に捨てられた古着の袋みたいに丸まっていた。
白髪交じりの髪が乱れ、体の下に暗い赤がゆっくりと広がっている。
もう完全に事切れていた。
ウリエルは二秒ほど見つめて、特に何の感情も浮かべないまま、視線を外した。
窓の外ではまだ火が燃えている。
教棟の一側から鐘楼へと炎は延び、夜空の半分を赤く染め上げていた。
下からは喧騒が聞こえてくる。
学生の怒鳴り声、教師が避難を呼びかける声、遠くから騎士団のラッパの低い響き。
急がないと。
「とりあえず離脱。後で振り返りをしよう」
小声でそれだけ言うと、魔女はうなずいた。
魔女は窓から外へ出て、ウリエルは廊下の脇にある非常階段を伝って降りた。
教棟の裏の暗がりで合流したとき、魔女はすでにティアンに戻っていた。
そのまま二人は、まだ騎士団が封鎖していない細道を抜けて旧校舎を横切り、塀を乗り越えて、王都の夜の中へと消えた。
王都の宿屋に着いたのは、深夜を過ぎた頃だった。
学院の方角から上がる火の光は、何街も離れているのにまだ見えた。
宿のフロントのガラス扉を、炎の明滅が揺らしていた。
フロント係は眼鏡をかけた若い女性で、つま先立ちで外の様子をうかがっていた。
二人が押して入ってきた瞬間、彼女はぱっと振り返り、一瞬固まった。
焦げた制服を着た男子学生と、銀髪の、男とも女ともつかない学生。
どう見ても、火の海から逃げてきた二人組だ。
「大丈夫ですか?お医者さんを呼びましょうか?」
彼女がカウンターから身を乗り出した。
「いえ、驚かせてしまってすみません。部屋を一室お願いします」
手続きを済ませ、ウリエルは鍵を受け取り、軽く会釈してティアンを連れて階段を上がった。
廊下は静かだった。
古い木の床が、歩くたびにきゅっきゅっと小さな音を立てる。
部屋のドアまで来て、鍵を差し込み、押し入って、施錠する。
一息にそこまで済ませると、ウリエルはドアに背をもたせかけた。深く、一度だけ息を吸う。――そして、もう我慢の限界だった。
「かっけええええええっ!!」
音量は抑えてある。
でも声のテンションが、完全に抑えられていなかった。
密閉した鍋の中で沸騰したお湯みたいに、フタがふっ飛びそうになっている。
ウリエルはその場で小刻みに足踏みして、ティアンの両手首をがっちりつかんだ。
目の中に光がある。
口が全速力で動き始めた。
「あのセリフ! 一個一個! 最高だったって!あのさ!あの一言! 『利己は瞬く間に消え、無私こそが永遠に輝く』みたいなやつ! あれ俺がその場で考えたやつなのに、母さんが言うと全然違う! めちゃくちゃ決まってた!」
ひとしきり回ってから手を離し、身振り手振りで再現し始める。
「それと『汝は過ちを悟ったのではない。死を悟っただけだ』!! うわーっ! どうやって思いついたんだろう俺! 違う、ママがあんな顔をどうやってしたんだよ! あの声! 聞いてて鳥肌立ったよ、物陰に隠れてる俺まで! それとあの冷笑! あの一瞬のやつ!ちょっと待って、ちょっと待ってね!」
二歩後ろに下がって、その冷笑を真似しようとする。
母さんがどうやってあんな顔をしたのか、自分にはまったくわからない。
あのとき指示したのはたった一言、「軽く笑い飛ばして」だけだ。
口角を持ち上げて、目を細めてみた。
(……これ、腹痛の顔じゃん)
まあいいか。どうせ母さんは笑わない。
「『我には、どうでもよい』って言ったとき! あの目! 世界中を敵に回しても気にしないっていう、あの感じ! 強すぎる! あれこそ完全体・聖剣の魔女だ!俺の昔の脳内設定が現実になった、いや、当時の妄想よりも遥かに完璧だった――ッ! 薄い青色の! あれ俺も習いたい! どうしても教えて! 習ったら気分次第でいつでも光の剣を展開できるじゃん、ブォンブォンって! 母さん知ってる?あれって完全に『スター・ウォーズ』のジェダイみたいな感じで!」
(ジェダイ……うん、絶対通じてないな。えーと)
「あ、ジェダイっていうのはね、前の世界の話なんだけど、光の剣を持った超強い武士みたいな人たちで——」
ひとしきりしゃべり倒してから、ようやくウリエルは息を継いだ。
頬が赤い。
両手はまだ光の剣を振る動作のままだ。
ティアンはその正面に立って、静かに聞いていた。
目は細い三日月の形に曲がっている。
口元には、ほんのわずかな弧を描く微笑み。
我が子が嬉しそうにはしゃいでいるのを見つめる、お母さんだけが持てる、あの表情だ。
後半のジェダイの説明はよくわからなかったけれど、聞く。
ただ、聞く。
「ウリちゃんが喜んでくれてよかった~」
声がいつものふわふわした柔らかさに戻って、尾音がとろけるように長く伸びた。
「ママも、楽しかったよぉ」
少し首をかしげて、真面目な顔で聞いてくる。
「改善点はある?次はもっと頑張るね」
「ある!」
ウリエルは椅子を引き寄せて腰を下ろし、一から解説を始めた。
「まず、冷笑のタイミングをもう少し調整できる。長すぎると『ふふふ』みたいになってダサいし、短すぎると伝わらない。相手に聞こえるギリギリの長さで、でも笑ってるとこを見せない。口角が先に動いて、声があとから出てくる感じ。さっきのやつをもう少しだけ短くするイメージで」
「それとセリフの間。全体的にすごくよかったけど、一、二か所だけちょっと速かった。魔女がしゃべるときは、遅く、重く。一言一言を画鋲みたいに、相手の耳に刺し込む感じ……いや、この例えはなんか違うな。まあいいや、とにかく相手が何か言っても焦って返さなくていい。沈黙もセリフのうち」
「動作の組み合わせも。たとえば『我には、どうでもよい』って言うとき、先に軽く首をかしげて、少しあごを上げて、相手の目を見て。そこで半拍だけ間を置いてからセリフ。動作は小さくていい。魔女の迫力は、抑えることから生まれるから」
身振りで説明しながら、ふとあることを思い出した。
目がぱっと輝く。
「そうだ!顔芸!母さん、顔芸って知ってる?普段は完全に無表情なのに、ここぞというとき超大げさな——」
ウリエルはティアンの顔を見上げた。
ティアンはベッドの端にきちんと座っていた。
両手を膝の上に重ねて、銀色の短い髪が宿屋のオレンジ色の明かりで柔らかく光っている。
真剣に耳を傾けていた。
あの永遠の、穏やかな微笑みのまま。
金色の瞳が静かにウリエルを見ている。
最初から今まで、一度も変わっていない。
(……顔芸を、教える?)
(あの顔に?)
(あの目に?)
ウリエルは後半を静かに飲み込んだ。
「……やっぱりいい。向いてない。なかったことにして」
制服に目を落とすと、あちこち穴が空いて端がちぎれている。
袖口に指を触れただけで、焦げた布がぼろぼろと崩れ落ちた。
(あ、そういえば全身ちゃんと汚れてたんだ)
走っている間は気にならなかったのに、落ち着いたとたん、灰と汗が皮膚に張り付いている不快感が一気に押し寄せてきた。
「先にシャワー浴びてくる」
バスルームから出てきたとき、あの煙臭さはようやく消えていた。
髪を適当に拭いて、ベッドに倒れ込む。
目を閉じる直前、最後に見えたのは、ティアンがもう一方のベッドの端に座って、静かに髪を整えている横顔だった。
そのまま、何もわからなくなった。
次にウリエルが目を開けたのは、翌日の正午だった。
目を覚ましたのは、階下の通りから響いてきた蹄の音と呼び声のせいだ。
目をこすりながら起き上がると、ガラティーナはすでに普段着に着替えて窓際に座っていた。
ティアンモードから完全にお母さんモードに切り替わっている。
温かいお茶を両手で包んで、カーテンの隙間から下をのぞいていた。
細い光の線が、彼女の顔の上に一本だけ差し込んでいる。
「外で何か言ってた?」
「昨夜のことで持ちきりですよぉ」
カーテンを引いて、振り返る。
「学院が燃えたって」
ウリエルはこめかみを揉んだ。
そうだ、昨夜の火だ。
教棟が半分以上燃えて、講堂も屋根に穴が空いて、黒衣の男たちの襲撃と学生の誘拐未遂まで重なって、騒ぎは想定よりずっと大きくなっていた。
カーテンを少し開けて外を見ると、案の定、通りには騎士団の巡回隊が増えていて、掲示板の前に人だかりができていた。
窓から離れて壁にもたれる。
頭の中で考え始める。
学院がこの状態で、休校は確定だろう。へたすると学期ごと吹っ飛ぶかもしれない。
(せっかく苦労して実力で入り込んで、目立たないために計算して、中くらいの成績をキープしてたのに)
(それが全部パアになるのか)
ウリエルは頭をかいて、息をついた。
「……俺、学校どうなんの」
【第五十三話・終】
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