第五十二話:絶壁
絶対的な実力差が生むのは、戦いではなく、処刑だ。
院長が床を踏み砕き、その身が灰色の残像と化した。
剣先が灼熱の白光をまとって、真っ直ぐに突き出される。
この一撃は、先ほどまでのどの攻勢よりも数倍速かった。
空気が引き裂かれる時、鋭い風切り音、部屋中の炎がこの一剣の巻き起こす風圧に煽られ、両側へと薙ぎ倒れていく。
彼の姿が魔女の眼前を一閃して過ぎ去った、その直後――四条の斬撃が同時に、四方から炸裂した。
死の網のごとく、前後左右のあらゆる退路を封鎖する。
これは彼の切り札。四十年来、実戦で一度たりとも仕損じたことのない絶技。
山銅級だろうと、この『初見殺し』は避けられない。
チン。
ただ一つ。とても軽く、とても澄んだ音。
まるで誰かが爪でガラスのコップを弾いたかのような、残響を帯びた音。
オズワルドの姿が、魔女の背後二メートルの位置でぴたりと止まった。
剣を突き出した姿勢のまま、剣先はまだ前方を指している。
だが、わずか半秒の後――「ズシャ」と鈍い音がして、彼の右肩の衣が、瞬く間に深紅に染まった。
鮮血が、噴水のごとくブシャッと噴き出す。
深紅の血が震える腕を伝い、剣柄を滑り落ち、「ポタ、ポタ」と床を叩いた。
驚愕に目をひん剥き、瞳孔を極限まで見開いた。
(いつだ!? こやつ、いつ剣を振るった!?)
(否、あれは剣を振るったのではない。四条の斬撃を先に受け止め、そして同じ刹那に反撃し、私の肩を貫いたのだ)
(それを、見ることすらできなかった。残像すら、捉えられなかった)
魔女は彼に背を向けたまま、手の中の光の剣をゆっくりと下ろした。
剣先が斜めに地面を指す。淡青の刃の上は、綺麗なものだった。血の一滴も、付いてはいない。
オズワルドは右肩を押さえた。指の隙間から、温かい液体が止めどなく溢れ出す。
彼は歯を食いしばり、勢いよく振り返って、再び剣を放った。
斬り下ろし、斜め払い、横薙ぎ、突き、跳び斬り。
剣光が次々と繰り出される。彼は信じようとしなかった。
その一剣一剣が、ことごとく弾かれた。
いや、正確には――軽く、いなされた。ガキンと力任せに打ち合うような、野蛮な鍔迫り合いではない。
魔女の刃が彼の剣身に軽く触れるだけで、彼の剣勢は骨を抜かれたかのように、あり得ぬほど大きく逸れていく。
背後からの攻撃に至っては、振り返って防ぐことすら面倒だとばかりに、手を伸ばしてぞんざいに払われた。
数手が過ぎ、オズワルドの呼吸が荒くなり始めた。
汗が白髪交じりの生え際から滴り落ち、目尻を伝い、口の中へと流れ込む。塩辛く、苦い。
彼の剣は、遅くなっていた。
数十年、ずっと遅くなり続けていた。ただこの瞬間、もはや無視できぬほどに、遅くなっていた。
体力も、ついてこない。
彼は片手で膝を突き、ぜえぜえと喘いだ。
汗が顎から滴り、床に濃い染みを作る。
魔女は、そこでようやく悠然と振り返った。
金色の瞳が静かに彼を見つめる。その佇まいは、最初とまったく同じに戻っていた。
呼吸は平静。立ち姿は緩やか。軍服の裾が、脚の脇に静かに垂れている。
大きく喘ぐどころか、彼女は汗の一滴すらかいていない。
そうして、淡々とひと言、問うた。
「終わったか?」
オズワルドの体が、びくりと強張った。喉が、ごくりと動く。
「では、我の番だ」
彼の心臓が、ぎゅっと縮み上がった。
(――実力差)
彼は生涯、拳を交えてきた。だからこそ、この感覚を痛いほど知っていた。
崖の淵に立って下を覗き込む、あの感覚を。そして深淵もまた、こちらを覗き込んでいる、あの感覚を。
(この次を受けたら――私は、死ぬ)
彼は躊躇なく剣を地面へ放り捨て、両手を頭上へと掲げた。
「待て! 待ってくれ!」
剣がカランと音を立てて床に落ちる。彼の声は裏返り、喉から絞り出される音節は、甲高く、しゃがれていた。
「私の負けだ!」
魔女の動作が止まった。剣先が宙で停止する。彼まで、あと一寸に満たぬ位置で。
彼女はわずかに首を傾げた。瞳の奥に、あまり目立たぬ戸惑いが、ちらりと過ぎる。
(ウリちゃん、これどうしよっか?)
そして彼女は剣を下ろし、押し黙った。
その沈黙は数秒続いた。長くはない。だがオズワルドの感覚の中では、ひどく引き延ばされていた。
(何を、待っている――?)
彼には、わからなかった。
ウリエルの声が、魔女の脳裏に響いた。平静で、冷静に。
『「書記官」だってば。あと、そいつが負けを認めたかどうかはどうでもいい。今夜の件がここまでデカくなった以上、そいつを生かして帰せば絶対に禍根になる』
『必ず次の陰謀を企てるはずだ。教団の資源、人脈、秘薬のルート――全部そいつの頭の中にある。見逃すのは、俺たち全員を刃の上に立たせるのと同じだからな』
『だから情けをかける必要はない。目的は勝つことじゃないって伝えて』
魔女は聞き終えると、視線を再びオズワルドの上へと据えた。
手を下ろしていた腕を上げ、光の剣が再び彼を指す。
その声は、氷の面に走る最初の亀裂のように、冷たかった。
「我の目的は、汝に勝つことではない」
オズワルドの、宙に掲げた手が凍りついた。
「汝を、滅することだ」
「利己は刹那。無私こそ、永遠なり」
彼の顔が、さっと青ざめた。唇からすら、色が失せる。
彼は一歩後ずさり、靴の踵が先ほど落とした剣柄を踏んで、あやうく転びかけた。
「待て――貴様、私を殺せんぞ!いいから聞け!」
彼の口調は、言葉を畳み掛けるように、一語一語が跳ねるように飛び出した。
「私はこの学院の院長だ!身分がある!地位がある!私を殺せば教育界全体が揺れる――いや、そうではない、連盟の連中だ、冒険者ギルドだ、奴らは調べるぞ、徹底的にな!」
「貴様、無傷で逃げ切れると思っているのか――!?」
魔女が一歩、前へ踏み出した。
オズワルドはまた一歩退き、背が半ば倒れた書架に激突する。書架がぐらりと揺れ、端の焦げたハードカバーが数冊、落ちてきた。
「それに教団だ!教団は貴様を放っておかん!私を殺せば、奴らにとっては宣戦布告も同じ――呪縛教団に何人いるか知っているか!連盟の中にどれだけの間諜を埋めているか、知っているのか!」
「私を殺せば、貴様は一生、安寧など望めんぞ!」
「わ、私は心を入れ替える!やり直す!一度だけ、機会をくれ!」
魔女は、彼の前、二歩の距離で立ち止まった。
金色の瞳が、面のようなその無表情の奥から、彼を見下ろす。何の揺らぎも無い。
「汝は、過ちを悟ったのではない」
その声は、刃が紙の面をなぞるほどに、軽かった。
「ただ――己が死ぬと、悟っただけだ」
オズワルドの唇が、震えた。
命乞いの言葉は、まだ喉の奥に詰まっている。だが、あの眼差しが、すでに答えを与えていた。
(相手は、条件を交渉しているのではない。相手はただ――処刑を執行しようとしているだけだ)
彼の表情が、ごく短い時間で、命乞いから別の顔つきへと切り替わった。
歯を食いしばり、目尻の、汗と血に塗れた筋肉が痙攣する。
「いいだろう、いいだろう、貴様は大したものだ、私の負けよ」
彼の声は、懇願から、逃げ場を失った末に引きずり出された、しゃがれた凄みへと変わった。
「だが言っておくぞ――証拠は、私がすべて燃やした。貴様も今、見ただろう」
「あらゆる書類、あらゆる連絡記録、私の罪を証し立てるものは、一切合切、灰にした」
彼は荒く喘いだ。目は血走り、いくぶん常軌を逸している。
「今私を殺せば、それは無辜の教育者を殺めることになる。貴様の手は、二度と綺麗にはならんぞ」
「王国全土が、貴様を許さん。逃げ切れはせん――貴様は指名手配の筆頭に掲げられ、貴様も、貴様の大切に思う者も、皆、死ぬまで狩り立てられるのだ!」
魔女の動作が、止まった。
オズワルドの目の奥に、一筋の狂喜が過ぎる。相手の急所を掴み、賭けに勝ったと思ったのだ。
彼はボロボロの書架に縋って、なんとか少し身を起こし、こほんと咳払いをして、さらなる交渉条件を投げつける構えを見せた。
――ところが。
「くく」
魔女が、笑った。
ごく軽く、ごく短い冷笑が、顔から漏れる。氷の珠が、磁器の皿に落ちるように。
彼女はわずかに顎を上げた。金色の瞳に、火明かりが映る。彼の狼狽した姿が映る。燃え盛る部屋の、そのすべてが映る。
「我には、どうでもよい」
「踏み潰した蟻が、どの蟻塚の出であるか――汝は、気にするのか?」
オズワルドの目が、見開かれた。
彼は狂った者を見てきた。命知らずを見てきた。死の間際まで減らず口を叩く者も、見てきた。
だが、こんなものは見たことがない。
(本当に――どうでもいい、と思っている)
その瞳には、怒りが無い。憎しみが無い。交渉の余地となる感情が、何一つ無い。
あるのはただ、彼には理解の及ばぬ、平静だけ。
「貴様、この――傲岸不遜の――!」
罵声を、吼え終えるより先に。
魔女が手を翻した。保温ボトルの底が宙に短い弧を描き、彼の脳天のど真ん中に、寸分違わず叩き込まれる。
ゴン、と。古い椰子の実を叩いたような、鈍い音。
彼の目が上へと剥け、全身が糸の切れた操り人形のように、ずるずると崩れ落ちた。上半身が、ぐらりと揺れる。
膝から崩れ落ち、続いて肩、最後に顔。ゴン、ゴン、ゴンと三度、うつ伏せに倒れて動かなくなった。
彼はまだ完全には意識を失っていなかった。だが体は、もう言うことをきかない。
ただ、霞んだ視界で、あの軍靴が自分の前まで歩いてくるのを見ていることしか、できなかった。
淡青の光の剣が、彼の心臓に、ぴたりと押し当てられる。
魔女は彼を見下ろし、とても、とても軽い声で言った。
宣告のようでもあり、単純な事実を述べるようでもあり――どこか、おやすみを告げるかのような声で。
「我が心、我が行い、明鏡の如く。全てが『正義』だ」
そして彼女は両手で剣を握り、刃をぐっと下へと送り込んだ。
数分前、オズワルドがエドという名の少年へ突き入れた、あの絶命の一撃と、同じ位置に。
剣鋒が、胸を貫いて過ぎた。
【第五十二話・終】
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