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第五十一話:それは聖剣か

「聖剣の魔女」、ついにその刃を抜く。

ただし、その聖剣はと言えば、手近な保温ボトルから魔力で練り上げた即席の一品。

資料は燃え尽きた。


教団の布教手引き、隠していた連絡書簡――その一切が火の中で黒く焦げた屑となり、熱気に巻かれて綺麗に散っていった。


オズワルドは机の脇で、最後の確認をひと通り済ませた。


書類棚は空。引き出しも、もう調べ尽くした。机の上の灰の山はすっかり冷え切っていて、指で払ってみても、文字の欠片ひとつ残っていない。教団の痕跡は、何一つ残っていない。


十分だ。


彼は制服の襟を正し、剣鞘を腰の脇へ寄せ、身を翻して扉へと歩き出す。


一歩、踏み出した。


その時。


「――汝、何処へ往くつもりだ」


背後から響いた声が、彼の足を床に縫い止めた。


女の声だった。


抑揚は一切なく、一語一語が氷で冷やしてから唇の間に吐き出されたかのようだ。


歴戦のミスリル級たる彼でさえ、背筋が凍る思いだった。


オズワルドは弾かれるように振り返った。


執務机の上に、誰かが座っている。


黒と白の軍服。太腿の半ばまで届く裾が机の縁に垂れ、刺繍の紋様が火明かりの中でちらちらと瞬く。


片脚をもう片方の脚に組み、両手を膝の上で重ね合わせ――まるでずっと前から、そこに座り続けていたかのような泰然とした佇まいだった。


オズワルドは動かなかった。


だが、頭の中は猛烈な速度で回転していた。


こやつ――いつからだ。


まったく気配を察知できなかった。


さっき入ってきたはずがない。物音一つしなかった。扉はずっと視界に入っていた。窓も、あの生徒が落ちた方角を除いて、すべて閉まっていた。


(では、最初からここに?……あり得ん。入室した時に確認した。資料を燃やす時も、あのエドとかいう生徒と対峙していた時も、確認した)


(ならば、今しがた入ってきた?だとすれば、なぜ気づかん?)


振り返る直前、彼は部屋を見渡した。何も無かった。


あれほどの大きさの生身の人間を、見落とすはずがない。


扉へ歩き出した、その距離はせいぜい五歩。長く見ても五秒。


(五秒だぞ……?)

(人が、音もなく現れたというのか)


理解が追いつかず、指が無意識に固く握り込まれる。


(やはりだ。知覚がここまで衰えていたか。人の出入りすら察知できんとは。道理で、先ほど剣を振るった時、手応えが一切無かったわけだ)


(秘薬は必ず手に入れねば。もう、猶予は無い)


そうして彼は相手を見据え、問いには問いで返した。


「貴様、何者だ。ここで何をしている。教団が口封じに差し向けたのか?」


彼はひと言、付け加えた。


その語気は強硬で、後ろめたさではなく、詰問のように響いた。


「私は、教団に背くようなことは何一つしておらんぞ」




魔女が机から立ち上がった。


その動作は悠然としていて、軍靴が床を踏み、澄んだ音を一つ立てる。


金色の瞳が彼を見やる。声は、依然として冷ややかそのものだった。


窓から吹き込む熱風すら、彼女のまとう空気に触れて涼風に変わったかのようだった。


「我は聖剣の魔女」


「闇へ堕ちた者を討ちに来た」


オズワルドは一瞬、呆けた。


それから、笑った。


微笑みでも苦笑でもない。喉の奥から爆発したような、震えを帯びた高笑いだった。


笑い声は部屋中に響き渡り、窓ガラスをびりびりと震わせる。


感慨と、そして侮蔑を、わずかに滲ませて。


「大きく出たものだ」


彼は剣を抜き放ち、魔女へと向けた。笑い声はまだ収まりきらず、口の端には狂気じみた弧が残っている。


(闇に堕ちし者を狩る、だと?)


この人生で見てきた「光の陣営」など、掃いて捨てるほどいた。


(どいつもこいつも、口先だけは立派で、その手元は隙だらけよ)


「聖剣の魔女――いいだろう。とくと拝ませてもらおうか」


魔女は俯き、机の上へ視線を走らせた。


そして無造作に手を伸ばし、執務机の脇の小さなサイドテーブルから、一つの品を取り上げた。


保温ボトルだった。


彼女は右手で筒の胴を握り、左の手のひらをぱんと蓋に押し当て、ゆっくりと外側へ引く。


その所作は、まるで見えざる剣を鞘から抜き放つかのようだった。


蓋が、ぶうん、と低く唸りをあげた。


大気中の魔力が、目に見える速度で彼女の手のひらへと収束していく。


淡い青の光が蓋の縁から外へと伸び、凝り、形をなす。


一振りの刃が、現れた。


純粋に魔力のみで編み上げられた鋒。色は冷たい淡青。その縁はあまりに鋭く、空気までもが薄く切り裂かれ、白い霧を一筋まとった。


彼女は保温ボトルの取っ手を握り、刃は蓋から伸びて、静かに地面を指し示している。


もしウリエルがその場にいたら、間違いなく狂喜しただろう。なにせこれは、彼が映画で見たことのあるアレなのだから。

フォースと共にあらんことを。


オズワルドの笑みが凍りついた。


(何だ、この魔法は?塑形術なら見たことがある。魔力の武器化とて知っている。だが、こんなものは見たことがない)


(保温ボトル一本で、この刃を?しかもこの魔力の密度と安定度……並の術者に成せる業ではない)


彼の喉が、ごくりと上下に動いた。


これは技を誇示しているのではない。


(保温ボトルを手に取っただけでこれほどの刃を練り上げる者が、どの階梯に立っているのか)――それを、無言で突きつけているのだ。


「それが……貴様の聖剣か」


魔女は手の中の保温ボトルライトセーバーを一瞥し、それから首を横に振って、真顔で言った。


「否。これはただ、汝を始末するためにその辺のものを適当に見繕っただけの剣に過ぎん」


「…………」


オズワルドは黙り込んだ。


指が剣柄の上で幾度も握られては緩められ、手のひらにはもう汗が滲んでいた。


彼は四十年、拳を交えてきた。


闘技場からダンジョンへ、ダンジョンから教団の暗殺任務へ。


だからこそ、彼は一つの事実を痛いほど知っていた。


(相手がこの手の台詞をこうも軽々と口にできる時――それは虚勢を張っているか、あるいは実力差が、虚勢を張る必要すら無いほど開いているか。どちらかだ)


(目の前のこの女は――明らかに、後者だ)


そして彼は、この歳になってはもう滅多にしない決断を下した。


一切の見積もりと出し惜しみをかなぐり捨て、躊躇なく、全魔力を解放したのだ。




強大な魔力が彼を中心に外へと弾け、空気が目に見える白い環となって押し出された。


書架の分厚いハードカバーが衝撃波に吹き飛び、机上に残った紙片が乱れ舞う。


窓外の炎までもが、その気圧に一瞬、外へと押し返された。


ミスリル級の頂に立つ魔力が、余すことなく放たれる。


数少ない白髪が一本残らず逆立ち、衣がばたばたと猛々しく鳴った。


彼は重心を低く沈め、一つの構えを取った。


先ほどウリエルへ突き入れた突刺の起こりとは違う。


これは、若き日の彼が最も得意とした必殺の型だった。


左足を前に踏み込み、右足を深く沈め、剣身を胸前に横たえ、左手の二指を刃の上に添える。


武闘大会の決勝で、この一手を放った。


邪龍の巣の最深部でも、この一手を放った。


振るうたび、それは「もう手加減はせぬ」の証だった。




彼の姿が、消えた。


肉眼では捉えきれぬほどの速さで、掻き消える。


刃が空気を引き裂く。先刻ウリエルへ突き入れた一撃の、さらに数倍。


全身が朧げな灰色の影と化し、正面から魔女の喉笛へと迫った。


魔女は、ただ淡青の光を放つ剣を持ち上げただけだった。


手首を一つ返し、剣身を身の前に横たえる。


――キン。


澄んだ音が一つ。


オズワルドの必殺の一撃は、こうもあっさりと弾き返された。


停滞は無い。オズワルドは反動の力を借りて身を爆ぜさせ、魔女の左側へ回り込み、また一閃、斜めに斬り下ろす。


魔女の光の剣は、すでにそこで待ち構えていた。さらに来る。右後方、キン。上方、キン。

正面への二段突き、キン、キン。彼は小さく後ろへステップを踏んで力を溜め、さらに連続で三撃を見舞う。

一撃ごとに距離と角度を変え、緩急を入れ替え、拍子をずらした。相手の読みが、実際の起こりに永遠に追いつかぬように。

しかし、五撃目を終えてなお――魔女の光の剣は、微動だにしていなかった。


魔女はその場に立ったまま、一歩も退かない。


一撃ごとに剣を掲げて受け、剣先を軽く引いて力を逸らす。


まるで、大して力を込める必要もない作業をこなすかのように。


彼がいかに体さばきを変えようと、いかに剣の拍子を奇怪で巧妙に切り刻もうと、あの光の剣は常に一歩先んじて、あるべき位置に現れた。


(まるで――反応する必要すら無い)


大人が、子供の投げた球を受け止めるかのように。考えるまでもない。遅すぎて。


そこに至ってようやく、オズワルドは総毛立つ思いで、一つの事実に気づいた。


(この女の両足は、一歩も動いていない)


否。正確には、右手を除いて、どこも動いていない。


その佇まいは、立ち上がった時とまったく同じ。


片手で保温ボトルライトセーバーを握り、もう一方の手は――背後に回したまま。ついに、背中から出すことすらしなかった。


オズワルドは半歩退き、呼吸が荒くなり始めた。


彼は目の前のこの女を見つめ、ふと、ひとつ笑った。


今度の笑みに、狂気は無い。嘲りも無い。


あるのはただ、悟った後の、苦い味わいだけ。


「認めざるを得ん、な」


彼は腰を伸ばし、剣を面前に横たえた。刃が、彼自身の目を映し出す。


その双眸に宿っていた疲労と動揺は、もう消えていた。


代わりに宿るのは、冷え固まった決意。


「今は――貴様の方が、強い」




彼はポケットから小箱を取り出した。


きびきびとした手つきで作りかけの秘薬を取り出すと、箱を放り捨て、薬をガラス瓶ごと口の中へ放り込んで噛み砕いた。


続けて剣を掲げ、剣先を天へ。左手も剣柄を握り締める。


全身の魔力が再び高まった。今度は爆発ではない。凝縮だ。


すべての魔力が、逆流する滝のように剣身へと注ぎ込まれていく。


刃が輝きを帯び始め、暗銀から灼熱の白へと変わる。


痩せこけた筋肉までもが空気を吹き込まれたように隆起し、全身が薄い光の暈に包まれた。


「だからこそ――ここからは、本気を出させてもらおう」


彼は魔女へ向けて、こくりと頷いた。


まるで、遠い昔の何かの礼を交わすように。


――若き日、闘技場で、敬うに値する好敵手へ捧げた、あの黙礼を。


青き刃が、彼の対面で静かに燃えている。


金色の瞳には、何の感情の揺らぎも無い。


彼女は相手が捨て台詞を吐き終えるのを、辛抱強く待ってやるほどの余裕すら見せ、それからようやく、悠然と、手の中の保温ボトルの握りを、より扱いやすい形へと持ち替えた。


オズワルドが床を踏みしめる。板張りに亀裂が走った。


衝撃波が炸裂した。

書架が倒れ、壁が軋む、窓台の植木鉢が吹き飛んで火明かりの中へ砕け散る。


壁面すら、びしりと音を立てて罅を刻んだ。


「あの世で、私の全盛期を拝めたことを――誇りに思うがいい」




【第五十一話・終】

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