表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
51/68

第五十話:エド君、さようなら

一瞬の刺突に、少年の体は窓の外へと吹き飛んだ——火の海へと消える、あまりにも呆気ない幕切れ。



「あの資料、なんなんですかね」


ウリエルの問いかけに、オズワルドの笑みが凍りついた。


その瞳の奥を、一瞬だけ物騒な光がよぎった。


けれどそれは、すぐに引っ込んだ。


彼はさりげなく左へ半歩ずれ、ちょうどウリエルと扉の間に立ち塞がる位置に体を移した。


「教務上の書類だよ」


口調は相変わらず穏やかで、それどころか年長者が若者を諭すような、軽い咎めすら滲ませていた。


「他人のファイルを漁るのは、感心しないな。生徒さん」


「漁ってませんよ」


ウリエルは人差し指を持ち上げ、すでに端が焦げて丸まった紙の束を指した。


「今あんたが燃やしたやつのこと、言ってるんです」




オズワルドの笑みは変わらなかった。


だが、彼は黙り込んだ。


炎の爆ぜる音だけが響くその部屋で、沈黙はやけに長く感じられた。


執務室の空気が、少しだけ冷えたような気がした。


炎が小さく爆ぜ、灰が熱風に巻かれて脇へと散っていく。


オズワルドは火かき棒を手に取り、二度ほど押し込んでから、ゆっくりと置いた。


急いで口を開くでもなく、彼は椅子へと歩み寄り、机の向こうに腰を下ろす。


まるで、この世で最も慣れ親しんだ場所へ帰ったかのように。


その所作だけで、まとっていた偽りの慈愛は音もなく剥がれ落ちた。


火明かりが横顔を照らし、皺の一本一本を深く彫り込む。


彼は窓辺の少年を、改めて値踏みした。


平凡な顔。平凡な制服。生徒の群れに放り込めば、二度と見つけ出せないほどに平凡。


だが、その平凡な生徒が今、まったく生徒らしからぬ目で自分を見ている。


静かすぎる。異常なほどに、静かだった。


彼は心の中で、この少年への評価を一つだけ改めた。


(平凡で――そして、身のほど知らずだ)




「知っているか」


再び開かれた口調は、先ほどとは別物だった。


「私が若い頃は、武闘大会で頂点を取った男でな」


ウリエルは何も言わず、聞いていた。


オズワルドはウリエルを見てはいなかった。


その視線は少年の肩越しに、火明かりで赤く染まった学院へと注がれている。


「大した肩書きじゃない。だが当時の私は若く、手には剣、足元には闘技場。向かいに立つのも本物の手練ればかりだった」


「私は勝った。立ったまま舞台を降りるのは、いつも私の方だった」


「闘技場遊びにも飽きてな、ダンジョンへ潜った。溶岩地獄、幽暗迷宮、邪龍の巣の攻略にも加わった。戦績を数える気にもならん。あの頃は、私が攻略できないものなど何一つなかった」


彼は自分の手を、とりわけ古傷の残る箇所を見下ろした。


「ずっとそうであり続けると、思っていた。だが……凡人は所詮、凡人だ」


顔を上げ、ウリエルの目と合わせる。


「ある日気づくのだ。自分の剣が、昔より遅いとな」


「相手の起こりを見て、先に剣を出せていたはずが、今は見えていても手が追いつかん。反応が、ついてこん。頭で描いた動きを、体がもう再現できんのだ」


声はだんだん小さくなり、彼はそれ以上続けなかった。


「お前も私の歳になれば、わかる」


その言葉を口にするとき、彼の顔に悲愴も憤りも無かった。


あるのはただ、複雑に入り混じった疲労だけ。


長いこと胸に溜め込み、誰にも語ったことのない何かを、ようやく吐き出すような。




ウリエルは聞き終えた。


その表情は、ほとんど変わっていない。


彼はオズワルドの頭頂部――見事なザビエルハゲと、その脇にちょこんと置かれた長髪のカツラを眺めた。


ウリエルは瞬きをひとつして、窓枠に掛けていた足を下ろし、窓台からぴょんと飛び降りた。


靴底が床を打ち、軽い音を立てる。


「話、終わりました?」


ウリエルは手首をぐるりと回した。


達人がこれから始まる決戦に備えて体をほぐす――などという格好いい理由ではない。


さっきの「イキった片手窓寄りかかりポーズ」を無理に維持しすぎて、単純に関節がジンジンしびれていただけである。


だが彼の表情管理は完璧で、そのしびれを見事に覆い隠した。


この動作から、殺気立った余裕すらも無理やり醸し出していた。


「おっさんの自分語りには、興味ないんでね」


左の手首を回し終え、今度は右を回しはじめる。


こっちはもう、本気で「戦闘準備してますよ」というポーズだった。


「血迷ってるっていうなら、僕が殴って目を覚まさせてあげますよ」


オズワルドは、一瞬呆けた。


それから、笑った。


本気で吹き出したのだ。


肩を二度震わせ、喉の奥から笑い声を絞り出す。


そこには、寛容にも近い呆れが滲んでいた。


「面白い」


彼は身を翻し、壁際へ歩み寄った。


壁には装飾用の古めかしい武具が一列に掛かっている。


武闘大会の優勝トロフィーとは別種の、彼のもう一つの「陳列品」だった。


彼は手入れの行き届いた長剣を一振り取り、手の中で重さを確かめると、振り向きもせずにウリエルへ放り投げた。


ウリエルはそれを受け取り、片手で柄を握って、軽く上下に振ってみせる。


「元より、口封じに始末するつもりだったのだ」


オズワルドの口ぶりは、世間話のように気安かった。


そして自らの剣を抜く。

鞘走りの甲高い音が、執務室の張り詰めた空気を切り裂いた。


「まさか、こちらから来る度胸があったとはな」


彼は剣先を持ち上げ、ウリエルへと向けた。


「惜しいことよ。今日の件さえ無ければ、私とお前は良き師弟に、良き友になれたやもしれん」


そこまで言って、彼はふと言葉を止めた。


「お前、名は?」


ウリエルは剣を握り直し、間髪入れずに答えた。


「エドです」


「……名前はともかく、姓は?」


ウリエルは答えなかった。どう答えるべきか、分からなかったからだ。


オズワルドは低く笑った。

まあいい。名などどうでもいい。

この少年がなんという名であろうと。




二人は、同時に構えを取った。


執務室は広くない。


机と椅子が半分を占め、残る空間はどうにか足りる。ぎりぎり、足りた。


ウリエルは見て取った。今しがた目にしたものが、先ほどの「やもしれん」を「確信」へと変えていた。


この男、あの語りは嘘じゃない。若い頃は、間違いなく一等一の手練れだった。


オズワルドは、もう無駄口を叩かなかった。


剣先を沈め、左足を一歩踏み込む。


全身の重心が、極限まで圧縮されたバネのようにたわむ。


正面からの、全速全力の刺突。


刃が空気を引き裂き、真っ直ぐにウリエルの胸へと迫る。


火明かりの中で、残像を曳くほどに――速い。




そして、ウリエルは吹き飛んだ。


剣先が胸まであとわずかというその刹那、彼の体は勢いよく後ろへ仰け反り、足元を蹴って両足が地を離れた。


不自然なほど大げさに、まるで何かに思い切り引っ張られたかのように。


背中が窓縁に叩きつけられ、鈍い音が響き、その勢いのまま体が窓の外へと傾いだ。


そして――落ちた。


窓の外から、体が外壁を擦る音がした。


続いてけたたましい爆ぜ音の群れが――階下で燃え盛る炎が、すべての物音を呑み込んだ。




オズワルドはゆっくりと剣を収め、窓辺へ歩み寄って、下を覗き込んだ。


階下の火は、すでに一面へ広がっていた。


先刻彼が放った火が、建物を伝って植え込みへ、緑地帯へと蔓延っている。


橙色の光が下から突き上げ、煙が外壁を舐めるように立ち昇り、視界をすっかり塗り潰していた。


何も見えない。


彼はしばらく、下を見つめていた。


それから、自分の手を見下ろす。


「……今の一撃、当たったのか?」


眉が、ゆっくりと寄っていく。


記憶が、頭の中で巻き戻された。


剣を突き出す。少年が後方へ吹き飛ぶ。窓縁に激突し、外へ落ちる。


どの手順も、間違ってはいない。


だが――空を切ったような感覚が、拭えなかった。


剣先を突き出したあの瞬間、手には何の実感も伝わってこなかった。


衣を貫く時の引っかかり。肉を断ち切る時の確かな手応え。


その、どちらも。


(普通なら……かすっただけでも、手応えはあるはずだ)


だが、何も無かった。


「なんだか……当たる前に勝手に吹き飛んだような……」


そこで彼は、その考えを打ち消した。

一介の生徒。一人の少年。この身の一撃を、受け切れるはずがない。

あんな精密な読みが、あんな完璧な制御が、どこにある。


都合よく窓から飛び出し、あの火の海で無事でいられるなど――あり得ん。


落ちた生徒は、もう焼け焦げて見分けもつかんだろう。


不意に、巨大な喪失感がオズワルドを襲った。


(私の知覚は……もう、ここまで衰えていたのか)


彼はただ、こう自分に言い聞かせるしかなかった。


力を込めすぎたのだ。相手が予想より軽く、だから力が空を穿ち、手応えが残らなかった。それだけのこと。


「ただの生徒だ。力みすぎて、手応えを感じ損ねただけよ」


彼はゆっくりと息を吐き出し、そう自分を納得させながら、無造作に秘薬の入った小箱をポケットへ押し込んだ。


「……やはり、秘薬が要るな」


階下の火は、いい具合に燃えている。


十分に大きく、十分に目立つ。


騎士団が来れば、まずあちらの対処に追われるだろう。裏口から抜ける時間くらいは、ある。


(惜しかったな、エド君)




【第五十話・終】

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


もし「面白い!」「続きが気になる!」「笑った!」と少しでも思っていただけましたら、 ページ下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、作者のモチベーションが爆上がりします!


ブックマークの登録も、ぜひよろしくお願いいたします! 次回もよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ