第四十八話:魔女が自ら乗り出す
最後に一つだけ残った宿題——雲隠れした学院長オズワルドの存在。放っておけば禍根を残し、王国に突き出せば騒ぎが大きくなる。ウリエルが出した答えは、「魔女旅団の名で、綺麗に始末する」。
仮面長髪の男は、講堂にはいなかった。
結界が張られてから約二十分が経過した。彼は結界が発動した瞬間から、すでに頭の中でカウントダウンを始めている。
二時間。
王都の騎士団と冒険者ギルドが動き出すまでの猶予だ。
これが正常な反応速度。
これ以上は引き延ばせない。
セラフィーナは、来なかった。
計画の核心となる標的が、そもそも最初から空っぽだったのだ。
ここで粘り続けたところで、自分の身を滅ぼすだけだ。
彼は教学棟の方向へ歩き出した。
足取りは速くない。
道すがら、角に、扉の枠に、床の隙間に、手慣れた仕草でいくつもの魔法陣を刻んでいく。
唯一、彼を苛立たせたのは——
クラインが、今に至るまで何の音沙汰もない。
あの茶色いコートの男は、命令を受けるとすぐに、一言もなく出ていった。
道理から言えば、たとえ厄介事に出くわしたとしても、信号のひとつくらいは寄越すはずだ。
こうも徹底した沈黙は——
早めに戻ってサボっているか、それとも——
(いや)
彼は素早く首を振って、その馬鹿げた考えを頭の外へ放り出した。
ありえない。
絶対にありえない。
クラインといえば、かろうじてミスリル級に足を踏み入れた男だ。
この学院で、自分を除いて誰があいつに勝てるというのか。
しかも、こんな魔力封じの結界の中でだぞ。
(十中八九、あのガキが退屈して、先にサボりに行ったんだろう。まったく、今どきの若いのは)
長髪の男は、心の中で悪態をついた。
そして次の瞬間、院長室に始末すべき資料が残っていることを思い出した。
本当はクラインに一走りさせるつもりだったが、こうなっては自分で行くしかない。
眉をひそめたまま、彼は階段を上がっていった。
講堂のほうは、あっけなく片がついた。
最後の数人の黒ずくめが取り押さえられ、隅へと引きずられていく。
生徒たちの感情は、恐慌から、九死に一生を得た者たちの騒がしさへと切り替わっていた。
てんでに喋り、友を捜し、壁にもたれて息をつき、天井にぽっかり空いた穴を呆然と見上げる者もいる。
ウリエルはその混乱に乗じて、講堂の側面にある小さなボックス席へと近づいた。
扉は施錠されている。
扉の隙間から漏れてくる呼吸音は、荒く、乱れていた。
聞けばすぐわかる。
中で誰かが、ずいぶん長いあいだ息を殺していたのだと。
扉を、一蹴りで開け放つ。
ボックス席の隅にうずくまっていたアンジェリカ王女が、勢いよく顔を上げた。
長い髪はぐしゃぐしゃに乱れ、頬には半分乾いた涙のあとが残っている。
だが目つきはもう、「罵ってやる覚悟はできてるわよ」という強情モードに切り替わっていた。
もっとも、現れたのがただの男子生徒だったためか、ひどく意外そうな顔をした。
ウリエルは、警戒に満ちたその双眸を、平然と受け止めた。
余計な口はきかない。
歩み寄り、手早く彼女の体に残った縄の結び目をほどく。
それから、礼儀正しく、そして他人行儀に半歩下がった。
「もう大丈夫です」
アンジェリカに問いを差し挟む隙など、一切与えなかった。
ウリエルはそのまま体を横にずらし、通路を空ける。
「こちらからどうぞ。護衛の方が、あなたを捜しているはずですよ」
アンジェリカは一秒、呆けた。
それから裾をつまんで、彼の横を通り過ぎていく。
扉を出て数歩、振り返って彼を一瞥した。
唇が、かすかに動く。
おそらく、あなたは誰なのかと問いたかったのだろう。
だがウリエルはすでに背を向け、反対方向へと歩き出していた。
彼女に残されたのは、まるで存在感のない後ろ姿だけだった。
(人知れず事を成し、颯爽と立ち去る。これぞモブキャラの美学だな)
聖剣の魔女は、瓦礫の上に立って、ぐるりと場内を見渡した。
生徒たちは互いの縄をほどき、傷の手当てをしている。
現場の片づけを取り仕切り始める者もいた。
彼女の仕事は、終わった。
破れた天井のあの穴めがけて、彼女は身を躍らせた。
軽やかに、音もなく。
そのまま穴の上へと消えていく。
現れたときと同じように——来るも去るも、余計な痕跡ひとつ残さずに。
三つの影が、そのあとに続いた。
ルミナ、フェンリア、キラが、順に飛び出していく。
ウリエルは反対側の扉の隙間から身をよじって抜け出た。
見た目はごく普通の生徒と変わらない。
廊下に沿って歩き、その場でまだ呆けている二人の生徒を迂回して、教学棟の脇の扉からするりと外へ出た。
彼は足早に、教学棟と講堂をつなぐ渡り廊下を抜けた。
旅団の面々は、すでに再集結を終えていた。
ウリエルは彼女たちの前まで来て、両手を腰に当てた。
今回の計画、全体の遂行は上々だった。
生徒に目立った死傷者はなし。
黒ずくめは討ち取られるか、捕らえられるか。
王女も救い出した。
旅団も、怪しい連中とは見なされていない。
これだけの騒ぎだ。
学院内で徹底的な調査が入るような事態には、まずならないだろう。
仮に調べられても、表面上の筋書きは至って明快。
呪縛教団が学院を襲撃し、謎の勢力が助太刀に現れた。
最悪でも、悪党同士の潰し合いだ。
完璧である。
彼は満足げに、こくりと頷いた。
(これだけの規模の事を、これだけ鮮やかに片づけたんだ。この後、学院内部で洗い出しがあったところで、特に追及されるようなものは何も——)
彼は、ぴたりと動きを止めた。
学院長。
いくつかの場所を、頭の中で反芻する。
教学棟、講堂、そして屋根の上の首塚もどき。
オズワルドは、最初から最後まで、姿を見せなかった。
ウリエルはその場に立ち尽くし、この一件が引き起こしうる結末を練り始めた。
第一。
放っておく。
学院長は潜伏を続け、今夜の件を「外部勢力の襲撃未遂」と説明するだけ。
彼は依然として院長で、依然として教団の目であり、依然としてこの学校で次の一手を打てる。
——却下。
第二。
王国に捕らえさせる。
学院長は捕縛され、公開裁判にかけられ、教団の内幕が暴かれる。
いかにも正義の展開に聞こえる。
だがそうなれば、学院は注目の的だ。
調査団、各方面の勢力が、こぞって押し寄せてくる。
そうなれば、目立たず学校に通うという彼の計画は、完全に水の泡だ。
——これも却下。
となると、残る道は一つ。
始末する。
旅団の名において。
綺麗に収める。
尻尾は残さない。
他者は巻き込まない。
騒ぎ立てない、裁判もしない、後患も残さない。
彼は振り返り、下した判断を手短に伝えた。
最後に、一言付け加える。
「学院長は、片づけないといけない」
ルミナが頷いた。
余計なことは、何も聞かない。
それから彼女は、傍らのフェンリアとキラに目を向けた。
三人が、ほとんど同時に口を開く。
「私たちに」
「アタシに任せてほしいッス!」
「……行きます」
ウリエルは、三人を見た。
表情はいたって真剣だ。
だが心の中では、そろばんがすでにパチパチと弾け始めていた。
この三人の実力。
エーテル観測の結果に照らせば、オズワルドを倒すには足りている。
だがオズワルドは、暗がりで何年も暗躍してきた老獪な狐だ。
経験というやつは、等級ですべて塗り潰せるものとは限らない。
(学院長なんて長くやってきた男だ、あんな長いこと冒険者稼業をやってたんだ。切り札や搦め手は、少なからず抱えてるはず。この三人、実力は足りてても、経験が浅い。万が一、汚い手でも打たれたら、痛い目を見て怪我をする可能性も、ないとは言えない)
これが、第一。
第二——
(もし三人が本当に勝っちまったら、今度は俺のほうにプレッシャーが来る)
小娘三人が、敵の頭目を鮮やかに片づける。
そうなったら、この書記官の面目はどこへ行く。
自分がもう何級なのかすら、彼には確信がない。
万が一、本気で戦ったら三人にすら及ばないとなれば——
今後、命令を下すときの押し出しが、大幅に削られてしまう。
(……メンツが保てん。実によろしくない)
そして、最も肝心な点。
今夜、これだけの労力を費やして、ようやく「聖剣の魔女」の像を立てたのだ。
冷冽、強大、台詞は中二だが気迫は十分。
仮面という、その場しのぎの小道具ですら、加点要素に化けた。
(こういうときこそ、最後のボス戦は魔女が自ら手を下さなきゃならない。誰にも見せ場を奪わせるわけにはいかない。これは台本の大詰め。主役が欠けちゃ話にならない)
「相手は、一筋縄ではいかない」
ウリエルは首を振った。
声を、普段よりわざと低く、深く沈ませて。
「なにせ学院長だ。あの座に、何年も居座り続けてきた男だぞ。切り札は、少なくないはず」
彼は目を上げ、傍らの魔女を見た。
「今回は、魔女自ら手を下してもらう」
ルミナは、何も言わなかった。
半歩、退がった。
(書記官がここまでおっしゃるということは、学院長はさぞかし手強い存在なのだ)
彼女はそう理解し、こくりと頷いて、それ以上は何も言わず、退がった。
フェンリアの耳が、ぴくりと動いた。
彼女も倣って退がる。
キラも半歩下がり、その顔には遺憾の色がありありと滲んでいた。
——何が残念って、ついて行って特等席で見物できないことだ。
三人が、同時に魔女へと視線を向ける。
その目には、こう書いてあった。
(すごい……書記官がここまで重く見るなんて、きっと超弩級のラスボスに違いない)
魔女は、皆の視線に気づいた。
ぴくりと肩を震わせた。
ええ。
見るからに、明らかだった。
(さっきの、あの血湧き肉躍る出陣前の訓示のあいだ)
——彼女は完全に上の空だった。
「おい」
反応なし。
「かあ——」
ウリエルはすんでのところで急ブレーキをかけ、言い直した。
「魔女」
魔女が、はっと我に返る。
「あら」
こてんと首をかしげ、目の前の三人の少女を見た。
それから、そっと手を上げる。
一番近くにいたフェンリアの頭を、ぽんぽんと軽く撫でた。
続けて、ルミナとキラに向けても、宙にある見えない頭を『エアよしよし』と撫でてみせた。
「じゃあ、みんなは先に帰って休んでねぇ。みんな、お疲れさまぁ」
声はやわらかく、綿のよう。
語尾が、ねっとりと甘く伸びていく。
『魔女』の口調じゃない。完全に『ママ』だ。
ウリエルの表情が、こらえきれずに崩れた。思わず盛大に顔を引きつらせる。
旅団の他の面々は、顔を見合わせた。
それから、ぽつぽつと散り始める。
どうやらこの一言を、何か高尚な、今の自分たちには到底解し得ぬ指令として受け取ったらしい。
ウリエルは手を額に当て、ぐりぐりと揉んだ。
(三人合わせりゃ竜と正面から殴り合える娘たちが、たった一言で固まってる)
まるで、残業を終えた直後に上司から「お疲れさま、気をつけて帰ってね」と言われた勤め人だ。
感動の中に、ほんのわずか、「私たち、今子ども扱いされなかった?」という戸惑いが混じっている。
そして、「でも、このまま帰っていいんだろうか」という疑問も。
【第四十八話・終】
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