第四十五話:奴らを一掃してこい
「ついでに、ちょっとした『威圧感』を見せつけてやってくれ」
それは、世界を更地にしかねない最強の母に与えられた、無茶ぶりという名の最終課題であった。
「待って、もう一回試そう」
ウリエルは屋上の縁で立ち止まり、名案を思いついた。
魔女の顔を覆っていた漆黒の仮面が、光の粒子となってさらさらと霧散していく。
彼女はぴたりと立ち止まり、彼の言葉を待った。
「いいか、こう……想像してみてくれ」
ウリエルは言葉を選びながら、ゆっくりと語り始めた。
「とあるクソガキがいるとする」
彼女はこくりと頷き、静かに耳を傾けた。
「そいつが、俺をボコボコにいじめた」
魔女の顎のラインが、不意にスッと引き締まった。
常に緩く弧を描いていた優しい口元が、見えない手に引っ張られるように、ゆっくりと真一文字に結ばれた。
ウリエルはその変化を鋭く捉え、「いける」と確信した。
彼はわざと淡々とした口調を作って、さらに誘導を続ける。
「母さんが注意しても、そいつは聞く耳を持たない」
魔女の瞳に、珍しく僅かな険しさが混じった。
「それで、相手の親にも会うことになった」
ウリエルはここで少し言葉を濁した。後の展開を口にするのが少し怖かったからだ。
「親も同じだった。理不尽な上に、母さんの目の前で俺のことをボロクソに罵ったんだ」
言い終えるより早く、魔女の目が変わった。
金色の瞳孔が微かに収縮する。
普段の瞳に宿る光が、窓から差し込む午後の陽だまりだとするならば、今は分厚い雲に太陽が遮られ、一切の温度を失った漆黒の影のようだった。
意図的に凶悪な顔を作っているわけではない。
だが、その圧倒的な低気圧に当てられれば、誰しもが本能的に半歩後ずさるだろう。
ウリエルのうなじも、本能的な危機感で粟立った。
(マジかよ、秒でガチの顔つきになりやがった)
彼は心の中で『ここテストに出るぞ!』と赤線を引く勢いで、『それだ!』と叫んだ。
そして直後、心の中で深くため息をついた。
成功はした。だが、全く喜べない。
なぜなら、その両目に何が宿っているのか、彼には痛いほど分かっていたからだ。
あれは威厳なんかじゃない。
『息子のいじめっ子とその理不尽な親』に対する、母親としてのガチの怒りだ。
彼は軽く咳払いした。
「それだ。完璧だよ」
魔女の目つきが、ふっと溶けた。
ぬるま湯に落ちた氷のように一瞬で消え去り、元のぽわんとした優しい瞳に戻る。
彼女は「はぁい」と、小さく、とても素直に返事をした。
まるで、クイズに正解して褒められた幼稚園児のようだ。
「今の感覚を覚えておいてくれ。これから他人を見る時は、全員『あの理不尽な親』だと思って睨むんだ」
「うん、わかったぁ」
彼女は頷いた。
そして、不意にこんなことを尋ねてきた。
「ねえ。そのクソガキって、どこの誰?」
「いないよ。ただの例え話だ」
「そっかぁ」
彼女は再び頷いたが、信じているのかどうかは怪しい。
下を向いて袖口を整え、それ以上は追及してこなかった。
ウリエルはもうこの話題を長引かせたくなかった。
くるりと背を向け、屋上の縁へと歩き出す。
二人は屋上から身を翻し、校舎側面の廊下へと音もなく着地した。
なぜ階段を使わないのかって?クールじゃないからだ。
魔女が彼の隣に舞い降りる。
軍服の外套が微かに風を切り、ブーツのヒールが床に触れるが、足音は驚くほどしない。
昼間だというのに、廊下は薄暗かった。
窓から斜めに差し込む一筋の陽光が、二人の影を床に長く伸ばす。
まるで爪を剥き出しにした悪鬼のようだ。
ウリエルは足音を殺し、学院長室へと向かった。
曲がり角を一つ越えたところで、彼は足を止める。
廊下の向こうから、顔をフードで隠した黒ずくめの男が二人歩いてきたのだ。
ウリエルの反応は極めて速かった。
魔女の手首を掴み、壁際に引き寄せる。
二人は曲がり角の暗がりに身を潜め、冷たい壁に背を向けた。
彼は身を乗り出して様子を伺い、すぐに壁際に戻る。
そして、隣にいる魔女に向かって片眉をクイッと上げた。
魔女は意図を察し、少し顔を近づけてきた。
そして、吐息のような声で尋ねる。
「やっつけちゃえばいいの?さっきみたいにすればいい?」
『さっきみたいに』とは、屋上からの遠距離狙撃のことだ。
無駄がなくスマートなやり方だ。
「いや、違うやり方で頼む」
彼は小声で返した。
骨の髄まで染み込んだ中二病の魂が疼き、母さんが他にどんな魅せプレイを隠し持っているのか見たくなったのだ。
「もっと、こう……スタイリッシュに決めてくれ」
魔女はコクリと頷いた。
その瞳には『ウリちゃんが面白いクイズを出してくれた』といった色が浮かんでいる。
そして彼女は、壁の陰から堂々と姿を現した。
コソコソする素振りなど微塵もなく、悠然と廊下の中央へ歩み出る。
ブーツのヒールが床を叩く。
コツ、コツという足音が、廊下に反響してはっきりと響き渡った。
黒ずくめの男二人が同時に振り返る。
現れたシルエットが味方ではないと認識した瞬間——
「何者だ——」
言葉を言い終わる前に、彼らの手が武器へと伸びる。
だが、その動作が始まった直後、魔女の姿がふっとブレて消失した。
次の瞬間には、彼女はすでに廊下の反対側に立っていた。
ただそれだけのすれ違い。
黒ずくめの二人は、同時に床へと崩れ落ちた。
動きはシンクロし、極めて静かに、床にぶつかる音すら奇妙なほど小さかった。
(若いっていいな、見事な即落ち2コマだ)
廊下は再び静寂を取り戻した。
魔女が廊下の向こう端で振り返る。
こちらに向かって、手を口元に当ててメガホン代わりにし、声をかけてきた。
「これでいいかしらぁ?」
ウリエルは首をすくめた。
「……悪くない」
彼は前へ進み、床に転がる二人を迂回した。
心の中で思う。
『スタイリッシュに』という要求は、たぶん完全に蛇足だったな、と。
母さんは適当に動くだけで、勝手にスタイリッシュになってしまうのだから。
俺が何か言おうが言うまいが、結果は同じだった。
学院長室は廊下の突き当たりにあった。
扉は固く閉ざされ、隙間からは何の音も漏れてこない。
ウリエルは扉に近づき、ベテランエージェントのように耳をぴったりと押し当てる。
息を殺して、中の様子をうかがった。
隣に立つ魔女は、警戒度マックスの彼を見て、平然と言い放つ。
「中に誰もいないわよ」
ウリエルは扉に耳を当てたまま、少しだけ硬直した。
「……」
彼は身を起こし、一秒だけ沈黙してから「あ、そう」と呟いた。
そしてドアノブを回し、中へと足を踏み入れる。
学院長室はそれなりに広かった。
二つの壁は天井まで届く本棚で埋め尽くされている。
机の上には書類や巻物の束が積まれ、ペン立てには何本かのペンが挿してあった。
すべてが整然と、几帳面に配置されている。
オズワルドという男の気質そのままだ。
厳格で、隙がなく、少しの乱れも許さない。
窓辺には、枯れかけの観葉植物の鉢植えが一つだけ置かれていた。
ウリエルは机の前に立ち、ぐるりと室内を見渡す。
確かに書類の山だ。全部に目を通すには、どう考えても時間がかかる。
彼は迷うことなく、一番手前にある書類の束に手を伸ばし、ページをめくり始めた。
最初の書類を手に取った瞬間、彼はちらりと魔女の方を見た。
魔女は入り口に立ち、両手を自然に下ろしている。
ただそれだけで、『上位者の訪問』という儀式的なオーラが限界突破していた。
事情を知らない者が見たら、絶対に「入る部屋を間違えた」と土下座して謝るレベルだ。
ウリエルは少し考えてから言った。
「ちょっと外を回ってきてくれ」
魔女がこちらを向く。
「この建物のなかにいる黒ずくめを、全部一掃してこい」
彼は書類を開き、タイトルだけを素早くスキャンして、次の書類に手を伸ばす。
「建物の掃除が終わって戻ってくる頃には、こっちの調べ物も片付いてるはずだ」
「わかったわ」
彼女が外へ向かって足を踏み出した時、書類をめくりながら、ウリエルはふと付け加えた。
「ついでに、ちょっとした『威圧感』を見せつけてやってくれ」
魔女の足が止まった。
「威圧感」
彼女は鸚鵡返しに呟き、そして首を傾げる。
「それって、どういう意味?」
(まあ、そうか。この人に『威嚇』なんて概念は不要だもんな)
「えっと、つまり……」
ウリエルは言葉に詰まり、必死に説明をひねり出す。
「一種の見せ場みたいなもんだ。強烈な印象を植え付けるんだよ。今後、誰かが『魔女旅団』って名前を聞いた時、真っ先にその光景がフラッシュバックするような、そういうやつだ」
彼は顔を上げず、手元の書類を三ページ目までめくった。
ある一行で視線を止めたが、大した情報ではなく、さらにめくり続ける。
「まあ、とにかく。分かるだろ。適当にアドリブで頼む」
「ええ、分かったわ」
そして、学院長室の扉が外側から静かに閉められた。
ウリエルは閉ざされた扉を仰ぎ見た。
再び視線を書類に戻したが、なんだか妙に落ち着かない。
思考の半分が、魔女の方へと引っ張られている。
というのも、あの魔女の戦闘スタイルを考えると……。
(母さん、お願いだから学校ごと吹き飛ばしたり、更地にしたりしないでくれよ)
彼は眉間を揉みほぐした。
今すぐ追いかけて釘を刺すべきか一瞬迷ったが、結局は諦めて書類の束と向き合うことにした。
廊下から、ブーツのヒールが響く音が聞こえてくる。
それは次第に遠ざかり、どこかの角を曲がったのか、やがて聞こえなくなった。
しばらくの静寂。
そして、ずっと遠くの方から、何かが空気を切り裂くような鋭い音が響いた。
音そのものは大きくなかった。
だが、ウリエルはビクッと肩を震わせ、慌てて天井を見上げた。
次の瞬間、天地がひっくり返るような大爆発が起きるのではないかとヒヤヒヤしたのだ。
その後も、廊下や階下から時折、小さな物音が聞こえてきた。
具体的に何が起きているのかは分からない。
だが、少なくとも今のところは、大惨事にはなっていないようだ。
そこでようやく、彼は調査に意識を戻した。
書類をめくり続けていたウリエルの手が、ピタリと止まる。
そして、束の中から一枚の書類を引き抜いた。
【第四十五話・終】
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