第四十四話:魔女の表情管理
凶悪な魔女を演じる特訓は、いつしか母の無償の愛を浴びる拷問へと変わる。
ウリエルは天を仰いだ。
(空はあんなに青いのに、俺の心は曇りだ)
十年。
まあ、いい。
年単位の話になった時点で、もうツッコミは放棄した。
これ以上、魔力消費の計算なんかしても無駄だ。
(考えるのをやめよう)
だが、新たなトラブルはすでに目の前に立ちはだかっていた。
ウリエルは屋上の三つの顔をぐるりと見渡した——ルミナは背筋をピンと伸ばして直立し、フェンリアは獣耳をピクピクと動かし、キラは相変わらず食い入るように魔女を見つめている。
もともとの計画では、俺と魔女の二人だけだった。
魔女が物理で無双して、俺が裏で台本を書きつつ雑用をこなす。
そこに突然、ミスリル級以上の戦力が三人追加されたのだ。
理論上は大幅な戦力強化だが、実際には指揮の難易度が爆上がりしている。
この三人娘は「書記官」に対して完全に神格化フィルターをかけているのだ。
俺が右と言えば右だ。
問題は、俺自身が右も左もわかってないことだ。
結界が展開中で、魔法が制限されている。
学院内には状況を把握していない生徒たちが大勢いる。
黒ずくめの人数も不明、ボスも不明、最終目的すらただの推測だ。
そこに三人の超強キャラが突然の空挺降下。
朗報は、強力な手駒が三つ増えたこと。
悲報は、制御しきれない要素が三つ増えたことだ。
ウリエルは少し考えた。
思考が徐々にクリアになっていく。
「ルミナ」
「はい、ここに」
「あなた方三人は結界の解除に向かってください」
ウリエルは思考を整理しながら口を開いた。
「結界が破れれば、魔法を制限されている生徒たちも戦えるようになる」
「彼らを率いて反撃し、場の状況を制圧してください」
(完璧な計画だ。危険も少ないし、何より目立たない)
ウリエルの脳内で、パチパチとそろばんが弾かれる音がした。
彼女たち三人にサポートを任せ、混乱の中で状況を安定させる。
そして母さんの方でド派手な花火を打ち上げ、脅威の根源を一網打尽にする。
だが、まだ埋まっていないパズルのピースが一つあった。
彼はふとルミナに視線を向けた。
その言葉を口にするまで、少し躊躇した。
彼女たちの調査に頼り切っているように見えるのは避けたかった。
だが、今の情報不足はどうしても無視できない。
「……お前たちの調査で」
ウリエルはルミナを見て尋ねた。
「何か黒幕のような存在は見つかったか?」
ルミナは即座に答えた。
「はい」
そして、彼女の口から出た名前に、ウリエルは目を見開いた。
「我々の調査によれば、今回の襲撃は学院長オズワルド・ラザフォードと深い関わりがございます。彼が呪縛教団のメンバーである可能性は極めて高いと存じます」
ウリエルの顔が引きつった。
「本当か? 証拠はあるのか?」
思わず早口になる。
オズワルド。
あの、髪が少し寂しくて、パンダみたいな隈を作っていたおっさん。
中年の危機に押し潰されそうな、あの学院長が?
呪縛教団の人間?
彼のステータスは観測済みだ。
確かにミスリル級だが、それだけだ。
邪教徒のようなヤバいオーラなんて微塵もなかった。
強いて言うなら、激務に押し潰された中間管理職の哀愁しか感じなかったぞ。
「状況証拠がございます」
「最近の行動に不審な点が多く、教団の王都での活動時期と完全に一致しています」
「接触していた数名の人物にも黒い噂が」
そこで、隣からふわっとした声が降ってきた。
「そういうことだったのねぇ」
相変わらずの、ふんわりと柔らかい語調。
だが、その言葉には絶対的な確信がこもっていた。
まるで、ようやく点と点がつながったとでも言うように。
「だからウリちゃん、セラフィーナちゃんに学院長に気をつけるように言ってたんだねぇ」
「ウリちゃんは、ずっと前から気づいていたんだぁ」
(いや、母さん。俺はただ、あのおっさんが若い子を狙ってるエロオヤジだと思っただけだよ!)
母さんがどうやってその二つの事象を結びつけたのかは謎だ。
だが結果として、見事に一本の線でつながってしまった。
しかも、妙に説得力がある。
ウリエルは向かいの三人娘を見た。
三人の顔には、全く同じ言葉が書いてあった。
『すべては書記官様の計画通り』
ウリエルは考えるのをやめた。
コホンと咳払いをする。
ペン先で、ある方向を指し示した。
彼の『観測者』の視界には、エーテルの流れがはっきりと見えている。
結界のコアノードは、きつく結ばれた糸の束のように、学院西側の建物の地下に鎮座していた。
「結界のアンカーはあそこです。あなた方三人はそれを解除し、その後講堂へ向かってください」
「生徒たちはそこに集められているはずだ」
「彼らを外へ誘導し、反撃を組織しろ。本棟には入るな」
ルミナはそれを聞いて頷き、一切の質問をしなかった。
「残りの後始末は、私と魔女で引き受ける」
三人は命令を受け、きびきびと振り返った。
そして、屋上から見事な動きで飛び降りていく。
縁に消える直前、フェンリアの尻尾が機嫌よく揺れたのが見えた。
屋上には、再び二人きりになった。
実は、まだ完全には信じ切れていない。
状況証拠、不審な行動、時期の一致。
どれも別の解釈ができるものばかりだ。
俺は自分の目で確かめてから動く。
そう簡単に邪教徒のレッテルを貼るわけにはいかない。
だが、もし本当にそうなら……。
ウリエルは振り返り、黒と白の軍服に身を包んだ魔女と向き合った。
横から差し込む陽光に照らされ、コートの裾が風に微かに揺れている。
彼の顔つきが真剣になった。
魔女の姿を、上から下までじっくりと観察する。
問題はここだ。
「母さん、いくつか言っておくことがある」
魔女は「なあに?」という表情でこくりと頷いた。
「第一に、声の出し方と話し方だ」
ウリエルは指を一本立てた。
「普段みたいに喋っちゃダメだ。優しすぎる。魔女の設定に合ってない」
「『聖剣の魔女』は冷酷無比なキャラクターなんだ」
「声を低くして、抑揚をなくして、一語一句、判決を下すように喋るんだ。わかる?」
「わかったわ、ウリちゃん」
「……今から俺をウリちゃんって呼ぶな。書記官と呼べ」
「わかったわ、書記官」
まあいい。
呼称の切り替えは問題なさそうだ。
ウリエルは軽く頷き、「ちょっとやってみて」とジェスチャーした。
魔女はコホンと咳払いをして、声を半トーンほど落とした。
そして、口を開く。
「……こんばんは」
(確かに声は低くなった。でも、その『こんばんは』の破壊力よ)
ウリエルは眉をひそめた。
なんだか、クール系のお姉さんって感じだ。
「声のトーンはいいけど……」
ウリエルは言葉を探した。
「優しすぎるんだよ。設定から浮いてる」
「あら」
魔女は何かを考えるように頷き、再び口を開いた。
少し声を低くして、慣れない道を歩くように慎重に。
「こうかしら?」
ウリエルは聞いてみた。
「ちょっと良くなった。その調子だ」
「ええ」
口調は相変わらず息子のわがままに付き合う母親のそれだったが、多少はマシになった。
「第二に、表情だ」
ウリエルは魔女の真正面に立ち、自分の顔を指差した。
「今の表情もダメだ。柔らかすぎる」
「魔女に柔らかさは必要ない。威厳だ。冷酷さだ」
「見ただけで足がすくむような、そういうのが必要なんだ」
彼は身振り手振りで説明した。
「目つきを鋭く。絶対に笑わないこと」
「うん」
魔女は『冷たさ』を意識して表情を作り始めた。
ウリエルは彼女の顔を覗き込んだ。近所の優しいお姉さんが、ちょっとお疲れモードに入っただけにしか見えない。
「もっと冷たく」
近所の優しいお姉さんが、不良品をつかまされてクレームを言いに行くか迷っている感じだ。
「……威厳が足りないな」
ウリエルは正直に評価した。
「こんな感じ?」
彼女は必死に凶悪な顔を作ろうとしていた。
眉間にシワを寄せ、目を細め、口元をきゅっと引き結ぶ。
ウリエルの指示に真剣に応えようとしているのは痛いほど伝わってきた。
だが、その効果は。
なんというか。
誰かに最後のプリンを食べられて、密かに怒ることにしたけれど。
相手が本当に傷つかないか心配しているような。
そんな複雑な感情がにじみ出ていた。
「ダメだ、違う。怒ってるんじゃない」
「いや、怒ってるんだけど、そういう怒り方じゃないんだ」
「今のは『拗ねてる』に近い。俺が求めてるのは『近寄るなオーラ』なんだよ」
「これって、甘えてるように見えるの?」
「うん」
魔女は表情を崩し、ぷくっと頬を膨らませて首を傾げた。
「じゃあ、怒ってる顔ってどうやるのぉ?」
ウリエルは少し考え、名案を閃いた。
「えっと……例えばの話だ」
「俺が夕飯までに帰るって約束したのに、寝る時間になっても帰ってこない」
「しかも、連絡すら一切なし。そういう時、どう思う?」
ウリエルは、これなら完璧だと思った。
親の逆鱗に触れる、絶妙なシチュエーションだ。
魔女はその状況を思い浮かべた。
眉間にシワが寄ることもなく、目つきが鋭くなることもなかった。
だが、顔全体の雰囲気は確かに変わった。
心底からの心配と、それが無事だったとわかった時の深い安堵。
それが溢れ出しているような顔だった。
「怒らないわ。ウリちゃんが何かトラブルに巻き込まれたんじゃないかとか」
「道で迷ってないかとか、お腹すかせてないかとか、心配するだけ」
魔女の顔がふっと柔らかくほころび、金色の瞳に温かな光が灯った。
「無事に帰ってきてくれたら、それでいいの。怒ったりしないわ」
そして、声もいつもの優しいトーンに戻った。
低くて、柔らかい、温かい声。
「無事でよかったぁ。ご飯、まだ温かいわよぉ」
ウリエルは口をパクパクさせた。
喉まで出かかっていた説教の言葉が、見事に詰まってしまった。
一文字も吐き出せない。
結局、無様に口を閉じるしかなかった。
(ママ、マジで最高かよ)
心の中でひっそりと感涙にむせび泣く。
そして、目の前の現実に引き戻された。
彼は別のシチュエーションを考えた。
とてつもなくウザい、最悪のシナリオだ。
効くかどうかは分からないが、とりあえず試してみるしかない。
「じゃあ、俺が金遣い荒くて、部屋の場所を取るだけのガラクタを大量に買ってきたら?」
ウリエルは恐る恐る口にした。
親ならここで「そんな無駄遣いするなら、美味しいものでも食べなさい!」と怒るはずだ。
だが、魔女はただ眉をひそめただけだった。
怒りというより、不思議そうな顔だ。
「どうしてガラクタなの?ウリちゃんが好きで買ったんでしょ?」
「ウリちゃんが好きなものなら、それはガラクタじゃないわ」
大真面目にそう言われ、ウリエルは言葉を失った。
むしろ、良心がチクチクと痛み始めた。
「部屋の足の踏み場もないくらい散らかす」とか「徹夜でゲームしててバレる」とか。
そんなことを言おうものなら、どうなるか。
どうなるかなど想像に難くない。
案の定、黙り込んだウリエルに、魔女はトドメの一撃を放った。
「お金が足りないなら、ママが出してあげるわよ。ママが買ってあげる」
ウリエルの心臓に、見えない矢がグサリと突き刺さった。
危うくその場に膝から崩れ落ち、「ママァ!」と泣き叫ぶところだった。
だが、今はそんなことをしている場合ではない。
とにかく、表情管理のテストは、短時間ではクリア不可能だと判明した。
ガラティーナが非協力的なわけでも、真面目にやっていないわけでもない。
むしろ全力で応えてくれている。
問題は、彼女の根底にある「愛情」が深すぎて、多すぎることだ。
威厳という名の殻を被せても、内側の熱量がそれを内側から押し開けてしまうのだ。
特訓には時間がかかる。
だが、今はその時間がない。
ウリエルは深いため息をついた。
「……とりあえず、仮面をつけよう」
魔女はきょとんとした。
「仮面?」
「顔の半分を隠すんだ」
ウリエルは説明した。
「仮面をつければ、全体的なオーラが一段上がる」
「中二病っぽさも増して、設定にピッタリだ」
「何色がいいかしら?」
「黒ベースで、縁に銀色の装飾を入れて。まあ、そんな感じで」
魔女はこくりと頷き、指先を動かした。
魔力が輪郭に沿って凝集していく。
頬骨から下を覆うように伸びていき、漆黒の仮面ができあがった。
彼女はウリエルに、じっくりと見てもらうように顔を近づけた。
ウリエルはじっくりと見た。
「……よし、これでいこう」
魔女は「これでいいの?」と尋ねるように小首を傾げた。
先ほどよりも、少しだけ瞳に疑問の色が混じっている。
「十分だ」
彼は言った。
「首を傾げるな。真っ直ぐ前を向け」
魔女はすっと頭を戻した。
「いい感じだ。とりあえずこれでいこう」
「覚えておけよ。声のトーンと口調、話す時は極力短く」
「誰かに何か聞かれたら、俺を見ろ。俺が答えるか、こっそり教えるから」
魔女は素直にこくりと頷き、また口を開いた。
「ウリちゃん」
「書記官」
「もし、書記官が今日、遅く帰ってきても——」
「母さん、喋るな」
「ママは絶対に怒らないからねぇ」
「わかった、わかったから!もう喋るな!」
【第四十四話・終】
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