第四十三話:全員片づけてこい
息子を虐めた上に親まで非道い——その設定を聞いた瞬間、戦闘モードが秒で起動する。ウリエルは静かに心の中でガッツポーズを決めた。そう、その顔が欲しかった。
「待って、もう一回試してみよう」
ウリエルは屋根の端で足を止めた。
思いついたことがあった。
魔女も急ブレーキをかけて止まった。
次の言葉を待っている。
「こういう場面を想像して」
ウリエルはゆっくり言葉を選んだ。
考えながら、少しずつ出す。
「悪ガキがいる」
魔女が頷いた。
静かに聞いている。
「そいつに、ウリちゃんが一方的にやられた」
魔女の顎が、かすかに引き締まった。
いつも微かに上がっている柔らかな口角の線が、見えない手に引っ張られるように、ゆっくりと平らになっていった。
ウリエルはその変化を素早く捉えた。
いけるかもしれない。
言葉を続ける。
わざと、何でもないことのように。
「君が注意しに行った。でも聞かない」
魔女の目が、珍しくわずかに厳しくなった。
「その親にも話をした」
ウリエルはここで少し間を置いた。
次の言葉を言っていいか、一瞬だけ迷った。
「でもその親も同じで、君の前でウリちゃんのことをボロカスに言った」
言い終わった瞬間、魔女の目が変わった。
金色の瞳孔が、かすかに縮んだ。
普段のあの目に宿っている光は温かい。
午後の窓から差し込む日差しのような、そういう光だ。
でも今は——まるで雲が日を覆ったように——光の奥に温度のない影だけが残っていた。
怖く見せようとしているわけじゃない。
ただそこにある低気圧が、見た者に本能的に半歩退かせる。
ウリエルの首の後ろが、反射的に緊張した。
(うわ、即座に戦闘顔になった)
心の中で激しく手を叩いた。
そう、これだ。この表情が欲しかった。
それから、心の中でそっと息を吐いた。
成功した。でも素直に喜べない。
わかっているからだ。
あの目の奥に何が入っているか。
威厳じゃない。
「ウリちゃんを虐めた上に、親まで非常識だった」という事実を、一人のお母さんとして正面から受け止めたときの顔だ。
ウリエルは軽く咳払いした。
「それ。それでいい」
魔女の目が、すっとほどけた。
熱湯に氷を放り込んだみたいに、あっという間に消えた。
いつものふわりとした目が戻ってきた。
「ふふ」と短く、軽く、幼稚園で丸をもらった子どものように、小さく応えた。
「人を見るときは、その感じで。相手を全員あの親だと思えばいい」
「うん、わかった」
素直に頷いた。
それからふと、冷静に聞いてきた。
「その悪ガキって誰?」
「架空の話だよ」
「そっか」
もう一度答えて、信じたかどうかはわからないまま、袖口をさらりと整えて、それ以上は追わなかった。
ウリエルはもうこの話題に留まりたくなかった。
振り返って屋根の縁へ向かい、二人そろって飛び降りた。
教学棟の側面の廊下に、音もなく着地した。
なぜ階段を使わないのか。
格好がつかないからだ。
魔女が隣に降り立った。
軍服のコートの裾が風を含んで、ブーツの踵が床を打つ。
その音が驚くほど軽かった。
昼間なのに、廊下は薄暗かった。
窓から斜めに差し込んだ光が、二人の影を床に長く引き伸ばす。
まるで牙を剥いた幽霊みたいな影だった。
ウリエルは足音を殺しながら、院長室の方向へ進んだ。
角を一つ曲がったところで、足が止まった。
廊下の奥から、黒衣の人間が二人歩いてくる。
フードが顔を隠している。
ウリエルは瞬時に反応した。
魔女の手首を掴んで、壁際に引き寄せた。
二人とも角の暗がりに背中を預けた。
冷たい壁が背中に当たる。
ウリエルはそっと様子を窺って、壁に戻った。
隣の魔女に向かって、軽く眉を上げた。
魔女はすぐに意図を汲んだ。
少し身を寄せて、吐息のような声で聞いた。
「やっつけますか?さっきみたいな感じで?」
「さっきみたいな感じ」というのは、屋根の上での遠距離狙い撃ちのことだ。
音もなく、跡も残さず、実に効率的だった。
「別のやつで」
小声で言いながら、骨の髄まで染みついた中二心がひっそり疼いた。
お母さんがまだどんな技を持っているか、見てみたかった。
「もう少し、格好いい感じで」
魔女は頷いた。
その目に「ウリちゃんが面白いお題をくれた」という光が宿った。
そのまま、角から廊下へ歩み出た。
堂々と。
何も隠さず。
ブーツの踵が床を叩く音が、廊下に一定のリズムで響いて返ってくる。
黒衣の二人が同時に振り返った。
味方ではないとわかった瞬間——
「何者——」
言いかけた口が止まった。
武器に伸ばしかけた手が、途中で止まった。
魔女の姿が、ぶれた。
次の瞬間には、廊下の反対の端に立っていた。
たった一往復。
それだけで、黒衣の二人は揃って床に倒れた。
整然と、静かに、倒れる音さえほとんどしなかった。
若いってすごい。倒れたらすぐ眠れる。
廊下が静寂を取り戻した。
魔女が廊下の端から振り返った。
帽子のつばの下から、こちらへ向かって視線を送ってくる。
片手を口元に当てた。
「これでよかったですか?」
ウリエルは首をすくめた。
「……悪くない」
前に歩き出して、倒れている二人を跨ぐ。
「格好いい感じで」という要求は、正直いらなかったかもしれない。
お母さんが適当に動くだけで、もうあの仕上がりなんだから。
言っても言わなくても、結果は同じだった。
院長室は廊下の突き当たりにあった。
扉は閉まっている。
隙間からは、何の音も漏れてこない。
ウリエルは扉の横に立った。
経験豊富な密偵のように、そっと耳を扉に当てた。
息を止めて、聞き耳を立てた。
隣で魔女が静かに立ったまま、そんな彼を眺めて、穏やかに言った。
「中には誰もいないよ」
ウリエルはまだ扉に耳を当てたまま、姿勢が少し固まった。
「……」
ゆっくりと身を起こして、一秒黙った。
「そっか」と言って、ドアノブを回して中へ入った。
院長室はそれなりの広さがあった。
本棚が二面の壁を埋めていて、机の上には書類と巻物が何束も積まれている。
ペン立てに何本かペンが立っている。
全体的に整然としていた。
きっちりしていて、隙がなくて、オズワルドという人間そのものみたいな部屋だった。
窓辺には、半分諦めたような顔をした観葉植物が一鉢あった。
ウリエルは机の前に立ち、ざっと視線を走らせた。
書類の量が多い。
全部読んだら時間がかかる。
一番上の束に手をかけて、すぐにめくり始めた。
書類を持ち上げながら、横目で魔女を一瞥した。
魔女は扉の前に立っていた。
両手を下に垂らして、その佇まいだけで部屋に「来訪」という雰囲気を作り出していた。
事情を知らない人間が入ってきたら、まず自分が場所を間違えたと疑うだろう。
ウリエルは少し考えてから言った。
「外を一回りしてきてくれ」
魔女がこちらを向いた。
「この棟の黒衣の人間を片づけてきて」
書類をめくりながら、視線は手元に落としたまま続ける。
「一通りやっつけたら戻ってきて。たぶんそのころには僕も終わってる」
「わかった」
踵を返そうとしたところで、ウリエルが付け加えた。
「あと、ついでに——迫力を出してきて」
魔女の足が止まった。
「迫力」
その言葉をそのまま繰り返した。
それから聞いた。
「どういうこと?」
まあ、そうか。
彼女には「威圧」という概念が必要なかったかもしれない。
「ええと……」
ウリエルは一瞬詰まって、言葉を探した。
「儀式感、みたいな。印象に残るやつ。後で誰かが『魔女旅団』って聞いたとき、真っ先にその場面が浮かぶような、そういう感じで動いてきてくれ」
書類は三枚目に入った。
ある行で目が止まる。
大したことはない、と判断して次へ。
「まあ、わかるよね。適当に発揮してきて」
「うん、わかった」
院長室の扉が、外からそっと引かれて閉まった。
ウリエルは顔を上げて、閉まった扉を見た。
それから書類に目を戻したとき、少し落ち着かない気分になっていた。
意識が魔女の方へ向いている。
彼女の戦い方は……。
(頼むから学校ごと吹き飛ばすのだけはやめてくれよ、お母さん)
眉間を揉んだ。
追いかけて一言付け加えようかとも思った。
結局、書類に向き直った。
廊下からブーツの音が遠ざかっていく。
どこかの角を曲がったところで、聞こえなくなった。
しばらく静かだった。
それから、もっと遠いところから、何かが空気を切るような音が一度だけ聞こえた。
大きくはない。
でもウリエルは肩をびくっとさせた。
思わず顔を上げて、次の瞬間に外が崩れないか確認した。
その後も、廊下や階下から断続的に小さな音が届いてきた。
何が起きているのかはわからない。
ただ、今のところ建物が崩れる気配はなさそうだった。
ウリエルは意識を書類に戻した。
めくって、読んで、次へ。
めくって、読んで、次へ。
そして、ウリエルの手が止まった。
一枚の書類を引き抜いた。
【第四十三話・終】
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