第四十二話:まずは服を選ぼう
母のスペックは今日も息子の想定を軽々と超えていく。
ウリエルはしばらく黙っていた。
それから、表情を整えた。
「あれは……もう解決した」
ルミナが一瞬固まった。
表情の制御が明らかに外れる。
誰が見ても動揺していた。
「か、解決……した?」
半歩、前に踏み出した。
靴底が石畳を短く鳴らす。
声に、薄い怯えが混じっていた。
自分が知らないあいだに何かが起きていたのではないか、という種類の怯えだ。
「お二方は、ご無事ですか!?」
「無事だよ」
ウリエルは顎を少し上げた。
語気は落ち着いていて、むしろ一分の高慢ささえ滲んでいた。
「魔女様の実力を甘く見ないでほしい」
口に出してから、自分で後ろめたいとは思わなかった。
お母さんの実力は、見た者には明らかだ。
それに——この答えは、半分は本当だ。
あの「危険な存在」というのは、実際にはガラティーナ本人のことだ。
そんな真実、死んでも言えない。
でも「危険な存在はもう解決した」というのは——ある意味では、嘘でもない。
心のなかで呟いて、顔には出さなかった。
三人とも、何も言わなかった。
さっきの沈黙が情報過多で処理が追いついていないものだとしたら、今度のはもっと重かった。
衝撃、という方が近い。
キラがまず俯いた。
前髪が顔の半分を隠す。
唇をぎゅっと噛みしめていた。
フェンリアの耳が垂れた。
尻尾もゆっくり地面に向かって下がって、先端が石畳をそっと擦った。
ルミナは立ったまま、目の奥が沈んだ。
さっき呪縛教団の話をしていたときに浮かんでいた口角のわずかな弧度が、完全に消えた。
ルミナは頭を上げた。
視線が自分の手に落ちた。
ゆっくり、握る。
指の関節がしまった。
それから、少し離れたところに立っているティアンを見た。
(少なくとも、一つは正解だった)
魔法少女旅団を独立組織として立ち上げた判断は、間違っていなかった。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けた。
そのことに安堵して、彼女は静かに息を吐いた。
背筋が少し、楽になった。
ウリエルは頭をかいて、話題を変えた。
「で、呪縛教団……だったっけ。どこまで掴んでる?」
ルミナが反応した。
さっき俯いていた姿勢がすっと戻る。
立ち姿が、報告モードに切り替わった。
「王都に入ってから、周辺での活動の痕跡を順次追跡しました。彼らはこの学院に目をつけており、行動パターン、外周の拠点分布、いずれも把握しています。何らかの目的を持って動いていることは確かです」
ルミナの視線がウリエルの顎から目へ、すっと移動した。
「書記官は魔女様とともに、すでに彼らの計画を見抜いた上で先回りして学院に潜入し、機を待っていらしたのですね」
語尾の「ですよね」は、形式上の補足だ。
確認を必要とする迷いなど、微塵も含まれていない。
ウリエルの口角がかすかに動いた。
(……彼女の言う「計画」と僕が実際に考えていたこと、たぶんかなりの誤差がある)
「まあ、そのへんは……」
うまく言葉が出てこなかった。
強引に方向転換する。
「で、今回そっちが来た目的も、それってこと?」
ルミナが頷いた。
表情が引き締まる。
「はい。他のメンバーはまだ実力が足りません。この結界内では魔力の発揮が大きく制限されます。足手まといになるより、残してきた方がいいと判断しました」
少し間を置いた。
ウリエルの顔を一度ぐるりと確認してから、続けた。
「私たちも魔法の行使は同じく困難ですが、純粋な戦闘技術だけで、まだ戦えます」
そう言いながら、手を握った。
指の関節が収まる動作が、きれいだった。
食人鬼くらいなら一撃で沈められそうな、そういう握り方だった。
脇では、フェンリアとキラがティアンの隣からほぼ同時に立ち上がった。
目配せもなかった。
ただの、息の合った動きだった。
フェンリアは立ち上がる瞬間に尻尾が微かに跳ね上がった。
キラは額にかかった前髪を指先ではっきりかき上げた。
二人とも無言だった。
でも、今の立ち姿と、さっきティアンにもたれていたときとは、まるで別人のようだった。
ウリエルは三人を眺めた。
視線がキラのところで止まった。
思い出した。
さっきの一撃。
アレはキラに直撃した。
下の通路で黒衣の人間たちは同じものを食らって、くぐもった音とともに全員倒れた。
なのにキラは頭にタンコブができただけで、這い上がってきて、まだ口がきけて、ティアンに向かって「魔女様」と呼んで二歩歩いた。
(マジかよ……)
こっそり《観測者》を起動した。
魔力の流れを示す紋様が、視界の端にかすかに光って、三人の身体に浮かぶ。
ルミナのは……何色だ?
黄色、黄金?赤と紫が少し混じっている気がする。
キラとフェンリアのは、白銀だ。
青みがかった、月光みたいな色。
……あれ、学院長より明るくないか?
ウリエルはゆっくり視線を外した。
遠くにある銀縁の破片——陶片か瓦かもわからない何かに焦点を移した。
(えっと。白銀と黄金……じゃない気がするんだけど)
(山銅とか秘銀とか、そういう話になってくる?自信ない、もう一回見よう)
もう一回見た。
背中に汗が出た。
(……まあ、そういうことか)
(なんでだ。いや待て、クスリでもキメたのか? 経験値爆上げ? 三年前まで俺よりちょっと弱いくらいだったはずだろ)
(……あと僕は)
《観測者》は自分自身を測れない。
でも、だいたいの推測はできる。
(三十から四十台には、なってる……はず。たぶん?)
この三年で自分が実戦をした回数を思い返した。
片手の指が余るくらいの数だった。
(ここで腕試しをするわけにもいかないしな)
顔には出さなかった。
少しだけ自信がゆらいだが、そこまでではなかった。
ティアンがそのとき、口を開いた。
何か普通のことを言うみたいな、さりげない口調だった。
「気をつけてね。結界の干渉で、判断が鈍ることがある」
三人が同時に頷いた。
揃い方が、完全に身体に染み付いた反射だった。
それからティアンはウリエルの方を向いた。
屋根の半分越しに、視線がまっすぐ来た。
「どこまで描けた?次はどうする?」
ウリエルはそこで、はっと気がついた。
スケッチブックはまだ背中に掛けたままだった。
ページも開きっぱなし。
鉛筆は途中まで描いていたページに親指で挟んである。
鉛筆を取り出して、脚の部分をざっと描いた。
陰影は省いた。
足に至っては半円形でとりあえず済ませた。
でも全体の方向性は決まった。
顔を上げて、三人の方を一瞥する。
(……見せるのが少し気まずい)
側頭部をかいた。
でも見せない理由も思いつかない。
仕方なく、下書きのページをめくってティアンの方に向けた。
「これ見て。三つのうち、どれが好き?」
一枚目。
広いつばの帽子に、膝丈の重なりのあるスカート。
帽子の縁とスカートの裾に星形の飾りがついている。
華やかで、細かくて、ウリエルの記憶にある「魔女少女」の典型だった。
二枚目。
白と赤を基調とした騎士装束。
胸に胸甲、腰に幅広のベルト、横に目立つ紋章がついている。
下はショートスカートとロングブーツ。
言葉にしにくい副団長的な雰囲気があって、一目見れば「閃光」という言葉が浮かぶような——そういう一枚だった。
三枚目。
黒と白の二色。
ダブルボタンのロングミリタリーコート。
折り返し襟、肩章、横に深いスリット。
全全体的に静かで、余計な線は一本もない。
それでも肩幅と腰のバランス、裾の広がりの角度、襟が首に触れる感じ——そのへんは全部、ちゃんと計算した。
ティアンが答えるより先に。
「書記官殿——!!」
キラが先に爆発した。
スケッチブックを奪おうとして、ぎりぎりで踏みとどまった。
目が尋常じゃない光り方をしていた。
本の中に隠れた技能をいきなり発見したときの顔だった。
「お絵描きもできるんですか!!」
ウリエルは無表情のまま。
「なんとなく描いただけ」
「なんとなくで——」
キラがちらとウリエルを見た。
「適当に言ってるのはわかってるけど気にしない」と書いてある顔だった。
視線はすぐ本に戻って、さっと三枚を走査し、一枚目の上で止まった。
「私はこれがいいです!スカートが可愛くて、星の飾りも豪華で——歩くたびにひらひら揺れて、まるで星が雨みたいに降ってくる感じがして……」
手を伸ばして、紙面の一センチ上で止めた。
触れたら汚してしまいそうで、触れなかった。
フェンリアが身を乗り出した。
キラの肩越しに頭をのぞかせて、耳が前にぱちんと弾けた。
三枚を素早く流し見て、二枚目の方向へ視線を軽く向けた。
「これ」
二文字。
物事を決めるときと、全く同じやり方だった。
理由は必要ない。
ルミナは何も言わなかった。
ただ、表情を見れば、三枚目が好きなのはわかった。
屋根の上に、一瞬だけ、妙な空気が生まれた。
夜中の合宿で誰かの画集を開いて、みんなで頭を寄せてざわざわする、そういう空気だ。
ウリエルは少し後ろに体重を移した。
背中が、後ろの冷たい壁の縁に当たった。
スケッチブックを手元に引き戻して、三枚をもう一度眺めた。
最後は三枚目で目が止まった。
(三枚目がいい。かっこよくて、威厳があって、僕が想像してた魔女のイメージに一番近い)
(もしお母さんが別のを選んだら——もう一押し、してみよう。なんかこの流れ、前にもあった気がする)
そう思いながら、ティアンに視線を移した。
ティアンはスケッチブックを受け取った。
受け取る手が、丁寧だった。
夜風でめくれかけていたページの端を、指でそっと押さえた。
一枚目、見た。
二枚目、眺めた。
三枚目、じっと見た。
前の二枚よりも、明らかに少し長く。
また二枚に戻って、また三枚目に戻ってきた。
「三枚目」
ウリエルは胸の中で絶叫した。
大きな声だったが、完全に胸の中に押し込んだ。
一切、外には漏れなかった。
(よっしゃ!!)
顔は維持した。
口角は今までと同じ角度のまま、一ミリも動かさなかった。
でも右手が、膝の上でこっそり、ぎゅっと握られた。
「なんで?」
声はかなり抑えた。
語尾がほんの少しだけ上がっただけだった。
ティアンは三枚目に戻って、先生に当てられた生徒みたいに真剣な顔をした。
「うーん、前に一緒に選んだやつに、なんとなく似てるから?」
ウリエルの胸の中で、二回目の絶叫が響いた。
同じように押し込んだ。
そのことをすっかり忘れていた。
中学を卒業してから、確かにこの話をしたことがあった。
(お母さん、大好き)
顔を横に向けた。
右手の甲を口元に当てて、軽く咳払いした。
ついでに手の甲で鼻の頭をさっと擦った。
口角がどうしても下がらなかった。
「よし、三枚目で」
次は、衣装の実物をどうするか、という問題だ。
草図は決まった。でも草図は着られない。
学院の結界は展開中で、下の通路には黒衣の人間が並んで倒れている——仕立て屋に行けるわけがない。
ウリエルは数秒、眉をひそめて考えた。
三人の方をちらりと見た。
「じゃあ、学院の演劇部を探してみて。布地、小道具、使えるものはなんでも持ってきて、とりあいず形にする」
三人がまだ答えないうちに。
「そんなに手間はかけなくていいよ」
ティアンが自分の手を見下ろした。
手の甲に、薄く魔力の光を乗せた。
銀白色の、月の光を十倍に薄めたような色が、皮膚の上に広がる。
光は手の甲から始まって、掌の骨に沿って上へ伸びて、手首を越えて、袖口から中へ消えた。
肩のライン。襟元。袖。裾。
光が触れるたびに、生地が見えない手で編み直されるように、色も質感も形も変わっていく。
光の粒子がふわりと舞い、元の場所に収まった。
本物の変身が、目の前で起きた。
三秒もかからなかった。
今ティアンが着ているのは、三枚目のデザインだった。
黒と白の二色。
ウエストが入って、折り返し襟があって、横にスリットが入っている。
肩章の位置が少しずれていたが、全体のシルエットはスケッチとぴったりだった。
ウリエルはまるまる三秒、呆然と彼女を見ていた。
頭が完全に空白になっていた。
「……これ、なんの技。習いたい」
キラはすでに一歩前に出ていた。
目が電灯みたいに光っている。
いや本当に発光しそうだった。
ティアンがキラの方を向いて、かすかに手を上げて、口を開こうとした。
「ストップ」
ウリエルが手を上げた。
「今は魔法教室じゃない」
キラは質問を飲み込んで、半歩後ろに下がった。
名残惜しそうに半歩下がった。
ウリエルは視線をティアンに戻した。
眉がかすかに寄った。
「それ、魔力の維持が必要だよね?状況がまだ読めないし、使えるものは使えるうちに取っておいた方がいい。後で何か起きたとき——」
「ウリちゃん、優しいねぇ」
ティアンが遮った。
声に、とろりとした笑いが混じっていた。
それから筋肉を見せるポーズをした。
こぶしを作って、肘を曲げて、手首を少し返す。
「ほら、強いでしょ」と言いたいような、可愛らしい仕草だった。
今の短髪と男子用の制服と合わさると、なんとも言えない小さい男の娘感があった。
ウリエルは一秒、黙った。
(……十代の外見で筋肉を見せる。でもその自信に反論できる気がしない)
「魔力の上乗せは確かに維持が必要だけど、」
ティアンは手を下ろした。
声が普段の温度に戻った。
「このくらいなら……十年は余裕だもん」
ウリエルの口がわずかに動いた。
「……じゅう」
「十年?」
なかなか聞かない単位だった。
技の持続時間を測る単位として。
【第四十二話・終】
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
もし「面白い!」「続きが気になる!」「笑った!」と少しでも思っていただけましたら、 ページ下部にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、作者のモチベーションが爆上がりします!
ブックマークの登録も、ぜひよろしくお願いいたします! 次回もよろしくお願いします!




