第三十八話:褒め殺し
死んだふりで黒装束をやり過ごしたのも束の間、ウリエルは母ティアンがずっと「姿を消せた」事実を知り、これまでの苦心が一気に空回りに思えてくる。ところが当のティアンはまったく悪びれず、こんな状況下でも我が子を手放しで絶賛。
「姿を消せるなら、俺が今までこんなややこしいことしてきたの、一体何だったんだよ」
ティアンは真剣に考えてから答えた。
「飛び出してくる姿、かっこよかったよ」
「……」
「あの『その子から離れろ』ってセリフ」
彼女は続けた。
口調はかなり本気だった。
「すごく迫力あった」
ウリエルの口元がぴくりと引きつった。
反射的に否定する。
「……別にお前に褒めてもらうために飛び出したわけじゃない」
(そうは言ったものの)
(母さんに真顔でこんなふうに褒められると、渾身の右ストレートを暖簾に腕押しでいなされたような感覚)
(さっきまで腹の中に溜め込んでいた崩壊、虚無感、そして「一人でピエロを演じていたのか」という羞恥心が、急に行き場をなくして萎んでいく)
彼はため息をついて、このことは一旦忘れようとした。
ティアンは彼を見つめ、その沈黙から何か「不満」を読み取ったらしい。
軽く首をかしげて、純粋な気遣いのこもった口調で言った。
「足りなかった? じゃあ……ママ、もうちょっと褒めようか?」
「……いい! もう十分!」
ウリエルは深く息を吸い、目を閉じて表情を引き締めた。
「立つぞ」
歯を食いしばるように言う。
「行こう」
「うん」
彼は地面から立ち上がり、背中を払って、ふと前襟に目を落とした。
ザクロジュースの染み出した深紅が、日差しの下で目を引くほど生々しかった。
胸元から下に向かって、本当に斬られたかのように見える。
その赤色をしばらく見つめてから、長いため息をついた。
「……この服、もう洗っても無理だろうな」
「帰ったらママが洗ってあげる」
声が、隣から当然のように返ってきた。
ウリエルは振り向かなかった。
「……問題はそこじゃない。落ちるか落ちないかだ」
「落ちるよ。ママに落とせない汚れはない」
ウリエルは横目で彼女を見た。
(……たぶん、それも事実なんだろうな)
「……いや、違う。今はそこが本題じゃない」
「ん?」
彼は振り返り、ティアンを見つめた。
表情にわずかな困惑が混じる。
「さっき、魔法を使おうとした」
「うん」
「出なかった」
少し間を置く。
「いや、完全に出ないわけじゃない。何かに押さえつけられてる感じだった。集中して、マナを動かそうと、できる限りのことは試した。それでも出てこない。最後に無理やり力ずくで、やっとちょっとだけ絞り出せた」
ティアンは静かに頷いて、続きを待っていた。
「いつもの五倍くらいの消費で、ようやく同じ魔法が一個出せる感覚だった」
彼は自分の手のひらを見た。
「確信はないけど、とにかく絞り出すのもギリギリだった」
「うん、そういうことだよ」
ティアンが答えた。
ウリエルが顔を上げて彼女を見た。
「あの結界、魔力を抑え込んでるんじゃない。繋がりを切断してるんだ」
「……繋がりを切断?」
(ああ、お前もか)
「そう」
ティアンは両手を後ろで組んで、何か基礎知識を思い出すような調子で、ゆっくりと話し始めた。
「普通、術者は体の中のマナを動かして、空気中のエーテルにお願いするの。向こうが応えてくれて、それで魔法が成立する。誰かを呼んで、来てもらって、手伝ってもらうのと同じ」
彼女は、どう説明すればわかりやすいか少し考えた。
「でも、あの結界はね、ものすごく大きな雑音を作るの」
「雑音?」
「うん」
ティアンが頷いた。
「ウリエルが耳で聞こえるタイプの音じゃないよ。マナのレベルでの雑音。結界が起動すると、空間全体がぐちゃぐちゃな干渉で埋め尽くされて、ウリエルが送ったお願いを、空気中のマナが聞き取れなくなるの」
ウリエルは二秒ほど黙り込んだ。
(この説明の仕方)
(なんというか……ものすごく母さんっぽいな)
「だからさっき出せなかったんだよ」
ティアンが続けた。
「五倍も十倍も力を使うのは、つまりもっと大きい声で叫んでるのと同じこと。それでも厳しいのは、雑音がそれだけ大きいから」
「……じゃあ、お前はどうやって使ったんだ?」
ティアンは瞬きをした。
「ママは叫ばないよ」
「……」
「ママはお願いしないの」
「すごく便利なんだよ」と言うのと同じくらい軽い口調だった。
「直接、編むの」
ウリエルは彼女を見つめた。
「お願いっていうのはね」
ティアンが右手を伸ばし、五本の指をわずかに広げた。
まるで虚空から見えない糸をつまみ上げるような仕草だった。
「ウリエルがマナに『これ手伝ってくれる?』って聞くこと。それに応えてもらって、魔法が成立する。でも、聞こえなかったら——」
指先を、軽く曲げる。
「——聞かなきゃいいの。自分でやればいい」
空気がふっと光った。
指先と、空中のどこかの間で、一本の糸が弾かれた。
ほとんど見えないくらいの、一瞬の波紋。
「マナを直接、欲しい形に編む。お願いも、返事を待つのもいらない。自分でやるだけ」
ウリエルはその指先を見つめた。
(……お願いしない。自分で編む)
(それ、人間が習得できる代物なのか?)
「やってみて」
ティアンは手を引っ込めて、あごでウリエルを促した。
「ここで?」
「うん」
「結界があるのに——」
「結界があっても同じだよ。雑音がない時の方が、お願いが楽なだけ。でも、お願いしにくい場所で魔法を使いたいなら、自分で編めるようにならなきゃ」
ウリエルはしばらく黙り込んだ。
それから右手を上げ、掌を上に向けた。
意識を集中させる。
空気中を漂うマナ——普段なら小さく呼びかけるだけで集まってくる、細かく散らばった光の粒。それを直接探しにいき、意志で触れにいく。
それを、つかんで一つにまとめる。
掌の上の空気が、熱を帯び始めた。
光が一点。
ふらふらと、まるで初めて立ち上がった赤ん坊のように、彼の掌の上で二度ほど揺れた。
ぼっ。
小さな炎が一つ、掌の上に浮かんだ。
大きさは拳ほど。
色はオレンジがかった赤で、縁はわずかに青みがかっている。
形は安定せず、彼の指先と同じように小刻みに震えていた。
だが、それは「お願い」して出てきたものではない。
彼が自分で編んだものだった。
ウリエルはその炎をじっと見つめた。
瞳の中で、絶え間なく揺れるオレンジの光が映っていた。
「……出た」
声は小さかった。
少し、信じられないという響きがあった。
「うん、出たね」
ティアンの声が隣から聞こえた。
そして——
「おおおー!」
両手を胸の前で握りしめ、目の中の崇拝の星はこれまでで一番眩しく輝いていた。
誇らしさが渡り廊下ごとひっくり返しそうな勢いだった。
「ウリちゃんすごい! 最初の一回で成功! ママが一回説明しただけなのに、一度で理解してくれた! うちの子、世界一の天才に決まってる! 絶対ママの自慢の子!」
「待て待て待て——そんな大声出すな——」
ウリエルはその褒め言葉の津波に足元をすくわれそうになり、手のひらが震えて、炎も一緒に揺れた。
危うく自分の袖口を焦がすところだった。
「黒装束に聞かれたらどうするんだよ……! しかもまだ手の中で燃えてるんだぞ! 褒めるのにもタイミングってもんがあるだろ!」
「はーい」
ティアンはすぐに声を抑えたが、その目はまだとんでもなく輝いたままで、口角はまったく下がる気配がなかった。
ウリエルは手の中の炎を見下ろした。
まだ震えている。
縁の色が青からオレンジへ、オレンジから青へと移り変わる。
まるでこの世界の温度を試しているかのように。
(自分で編む魔法)
(輝光級勇者の施法方式。それを今、こいつが「自分で編み出した」って平然と言ってのけた)
ウリエルは我に返った。
手を振って、炎を消す。
「いや」
声はいつもの落ち着きを取り戻していた。
「今は魔法の授業をしてる場合じゃない」
「状況を把握しないと」
【第三十八話・終】
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