第三十七話:死んだふり
絶体絶命のピンチの中、ウリエルが編み出した秘策は——ザクロジュースを血糊に、地面に転がって「死んだふり」だった。
「その子から離れろ!! やるなら俺が相手だ!!」
叫んだ瞬間、黒装束の視線がこちらへ向いた。
ウリエルの心臓が、どくんと跳ねた。
今は怖がってる場合じゃない!
相手の黒装束はもう反応している。
一番近くにいた黒装束が手を上げた。
刃が光る。
下から上への一撃が、顔面めがけて飛んできた。
ウリエルは上体を後ろに大きく反らした——刃が髪の毛先をかすめて通り過ぎる。
風が巻いた。
仰け反りの限界に達したその瞬間、彼は目にも止まらぬ速さで、右手のザクロジュースの瓶を胸と空に向かって思いきり押しつぶした。
コンビニで買って、まだ数口しか飲んでいない。
残りはまだ半分以上あった。
もったいない。
でも今はそれどころじゃない。
ぐしゃっと潰すと、真っ赤な液体がぶしゃっと噴き出した。
大量出血の演出さながらに、前襟をびっしょり染め上げる。
同時に両足で地を蹴り、仰け反りの勢いを利用して、体ごと後ろへ吹き飛んだ。
そのまま地面にしたたかに叩きつけられる。
ドゴッ。
おまけに二回ほど跳ねた。
格闘ゲームでKOされたキャラクターのように、見事に地面に転がった。
「うっ……あ……」
「致命傷を受けて瀕死」を完璧に表現した呻き声を一発漏らして、そのまま動かなくなった。
空に向かって噴き出したザクロジュースが、ちょうど血しぶきのように頭上から降り注ぎ、地面に広がっていく。
彼はその「血だまり」の真ん中に横たわっていた。
色がちょっと濃いのと、めちゃくちゃ甘いことを除けば、完璧だった。
短い静寂。
それから、女子生徒の短い悲鳴が響いた。
本物の恐怖がにじんでいた。
続いて、もう一つの声。
歯を食いしばって絞り出したような声だった。
「貴様らッ——」
踏み込もうとする足音。
そして、止まった。
「……マナ?」
困惑。
黒装束の側から、平坦で冷たい声が響いた。
余計な抑揚など一切ない声だった。
「大人しくついてこい」
刃が空を切る音が、見せつけるように響いた。
「さもなくば——この間抜けなガキと同じ目に遭わせてやる」
ウリエルは地面に倒れたまま、一切動かなかった。
ザクロジュースの匂いが鼻先に広がる。
甘ったるくて、少しくどい果実の香り。
呼吸は限界まで浅くし、緩められる筋肉は全部緩めて、自分にコントロールできる最高の精度で「もう駄目です」という姿勢をキープし続けた。
足音が、別の方向へ遠ざかっていく。
どんどん遠くなる。
彼はじっと耳を澄ませて、距離を測りながら、目を開けなかった。
(……まだだ。まだ誰かいる)
周囲の気配を探り、耳を最大限研ぎ澄ませる。
遠くでざわめく風の音。
どこかの建物から漏れる物音。
それも、だんだん静かになっていった。
彼は待った。
待ち続けた。
服に染みたザクロジュースがべたつき始めるまで。
地面の硬さが背中に食い込んでくるまで。
ザクロの甘い匂いが「刺激的」から「ちょっとくどい」に変わるまで。
(……そろそろいいか?)
意識が遠のき始める。
地面はひんやりしていて、こうして背中をつけていると、案外悪くなかった。
これが芝生だったらもっとよかったし、枕があればなお最高だ。
まぶたが少し重くなる。
(いや、ここで寝るのはまずい)
意識の中で自分を一発叩いて、漂いかけた気を引き戻した。
唇を小さく動かし、ぎりぎり声になる程度に押し殺して聞いた。
「……誰もいないよな」
「いないぞ」
声が、すぐ隣から返ってきた。
すごく近い。
すぐそこにあった。
ウリエルのまぶたが弾けるように開いた。
青空。
白い雲。
学院の渡り廊下の屋根の端。
声のした方へ視線をずらす。
だが、隣には誰もいなかった。
空っぽだった。
息を大きく吸い込む。
空気はやっぱりただの空気だった。
無色無臭、毒もない。
(……)
ウリエルはその何もない空間をじっと見つめたまま、思考の渦に沈んだ。
(誰もいない)
(声はする。でも人はいない)
(声は聞こえた。でも姿は見えない)
(俺はここに倒れていて、声は聞こえたのに、見えない——)
(……)
(俺、もしかして本当に死んでる?)
「ウリエル?」
同じ方向、同じ声。
だが今度は少し困惑の色を帯びていた。
「どうしたの? もう起きていいよ」
「……」
「ウリエル?」
ウリエルはしばらく呆然としていたが、その声に聞き覚えがある気がして、喉から声を絞り出した。
「……お前が、見えない」
その瞬間、空気の中で何かが動いた。
光がふっと折れ曲がる。
誰かが透明な布を体から剥がしたかのように、その折り目が頭からつま先まで広がっていった。
ティアンが、彼の隣に立っていた。
見下ろす表情は、相変わらず「なぜ困惑する必要があるのか理解できない」という顔だった。
「……ウリエル、僕が姿を消せるの、知らなかったの?」
彼女は聞いた。
ウリエルは地面から体を起こし、座り直して、彼女を見上げた。
「知らない。いつから隠れられるようになったんだ」
「中学の頃だよ」
ティアンはいつもの調子で振り返った。
「あの頃、ウリエルがママに言ったでしょ。学校ではあんまり近づかないで、距離を保ってって。薬とかノートとか食べ物とか、とにかく『一切ダメ』って。お姉ちゃんが届けに来たって同級生に見られたら噂になるからって」
「だからママ、考えたの。気配を消して届ければいいんだって。すごいでしょ」
「……」
(中学の頃)
(同級生に見られるのが嫌だった)
(だから、隠形を覚えた。俺に物を届けるためだけに?)
(……)
ウリエルの中で、何とも言えない複雑な感情がぐるぐると渦巻いた。
呆れと、申し訳なさのちょうど中間あたりの感情。
それが口から出た時には、こんな一言になっていた。
「姿を消せるなら、俺が今までこんなややこしいことしてきたの、一体何だったんだよ」
【第三十七話・終】
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