第三十六話:異変
学院を覆う巨大な結界。絞り出せない魔力。そして現れる黒装束の一団——。
だが誰も異変に気づかない。母ですら。
その後、一日は何事もなく過ぎていった。
ウリエルは片手で頬杖をつき、隣のティアンに視線を落としていた。
母さんは真面目に授業を聞いていた。
ノートを取るスピードが速い。
背筋もぴしっと伸びている。
完璧な優等生の姿勢。
(……話は伝わったはずなんだよな)
ウリエルは心の中でぼやいた。
(じゃあ、どこで歯車が狂った?)
昼休み、ウリエルはティアンに目配せして、もう一度試しに行かせた。
自分は遠回りして、絶好の観測ポイントを確保した。
廊下の角。
セラフィーナが何人かの女子生徒と話していた。
手には本を一冊。
寸分違わぬ礼儀正しい微笑みを顔に貼り付けている。
ティアンが廊下の反対側からやってくる。
セラフィーナの視界の端に、その短髪の人影が何気なく入った。
次の瞬間。
彼女は素早く本を閉じ、隣の女子生徒に何かを小声でささやいた。
ティアンが声をかける隙すら与えず、すでに体を反転させていた。
優雅でありながら一切のためらいもない足取りで、反対方向へ消えていった。
残されたティアンは、その場で小首をかしげ、不思議そうにその後ろ姿をぽかんと見送っていた。
一部始終を見ていたウリエルは、無言で視線を外した。
(……なるほどね。話しかけ方の問題じゃない)
(セラフィーナは「ティアン」という存在そのものを見た瞬間、回避モードに入る。これは話が違うぞ)
ウリエルはこの件を一旦腹に収めて、深く考えないことにした。
手を振って、ティアンを呼び戻した。
翌日、セラフィーナの席は空だった。
ウリエルは習慣的にその一角に目をやった。
(……休んだのか?母さんのせいで?それとも別の理由?)
講師は壇上で延々と話し続けていた。
ウリエルはペンを回しながら、意識が徐々に遠のいていく。
突然、背筋を這い上がってくる、言葉にしがたい違和感があった。
まるで周囲の空気が、ある一瞬で音もなく別物になったような。
彼は表情を変えずに、さりげなく【観測者】で外をのぞいた。
そして、見た。
巨大な結界。
それは巨大な椀のように、学院全体を逆さに覆っていた。
縁は彼の感知の限界を超えて延び、極めて狡猾に学院の建造物そのものと一体化していた。
意図的に探らなければ、存在にすら気づけない。
ウリエルの目がスッと細まった。
視線をすぐにノートへ戻す。
(待て待て待て……これ、前からあったやつか?それとも学院がなんか隠しイベントでもやってんのか?)
ウリエルはまず周囲をさりげなく見回した。
みんな授業を聞いているか、よそ見をしているか。
その平穏さが、逆に自分を疑わせてくる。
(おかしいな。これ、ずっとあるタイプのやつなのか?)
そこまで考えて、ページをめくる動作のついでに、隣のティアンをさっと盗み見た。
母さんは相変わらず姿勢正しく座って、重要事項にマーカーを引いていた。
表情に波一つない。
(いくらなんでも、ティアンの正体がバレて、わざわざ俺らを捕まえるためにこんなモノを用意したわけじゃないよな……)
その考えが浮かんだ瞬間、ウリエルはすぐに掌の中で魔力を練ろうとした。
死の静寂。
魔力がまるでストローを塞がれたかのように、力いっぱい絞り出してやっとわずかに練り上げられる程度だった。使えないのも同然だ。
(……どういうことだ?)
机の下で、彼は爪を掌に強く食い込ませた。
横目で隣の席をうかがう。
隣の男子生徒は黒板を必死に書き写していた。
表情は平静そのもの。
壇上の教師に目をやれば、口調も淀みなく、何も異常がない。
誰一人として異変に気づいていない。
母さんですら。
(まさか――)
ウリエルの頭皮がぴりっと痺れた。
(俺の正体までバレてんのか!?これ俺ら二人狙い撃ちか!?)
その考えが浮かんだ瞬間、心臓が一拍跳ねた。
だが理性がすぐにそれを力ずくで押し込めた。
(あり得ない。絶対にあり得ない。あんなに深く隠してきたんだ、バレる道理がない。これは探りだ、ここで慌てるわけにはいかない)
彼は深く息を吸って、その雑念を断ち切った。
(とにかく今は考えすぎるな。まず状況を確認するのが先だ)
ようやくチャイムが鳴った。
ウリエルは席で何度か深呼吸して気持ちを落ち着けてから、立ち上がった。
気だるそうな足取りでティアンの机までふらふらと歩いていき、声を落とした。
「コンビニ行こう」
ティアンはノートを閉じて顔を上げた。
「今から?」
「うん」
ウリエルは言った。
「なんか飲みたい」
ティアンはぱっと立ち上がり、目つきが急に真剣になった。
「じゃあ、急いで行こう」
「行くぞ」
ウリエルはカバンを引っ掴むと、ティアンを連れて廊下へ向かった。
(ついでに、外の状況も見ておくか。少なくとも外なら、いざという時逃げやすい)
コンビニは学院の通用門近く、食堂に続く通りにあった。
連絡通路を抜け、小さな広場を横切る。
道すがらすれ違った生徒も教職員も、たまたま通りかかった清掃員さえも、誰も彼もが普段通りに振る舞っており。
おかしな様子の者は一人もいない。
ウリエルは道中、何度かさりげなく魔力を練ろうと試してみた。
結果は同じ。
コンビニに着くと、冷蔵ケースの前で足を止めた。
ずらりと並んだ飲料に視線を走らせる。
最終的に、視線は鮮やかな赤色の瓶の列で止まった。
(ザクロジュース……?)
これは飲んだことがなかったな。
頭の中では外の結界のことをぐるぐる考えながらも、手の動きは速かった。
無造作に二本つかんで、そのままレジへ向かう。
コンビニの扉を押し開けると、ティアンが手からひょいと一本取り上げ、キャップを開けてから差し戻してきた。
「先に飲んで」
(いや、お前が持ってきたんだからお前が飲めよ)
仲間っぽさを演出しようとしていたウリエルは、思わず言葉に詰まった。
「うん」
仕方なく瓶を受け取り、頭を傾けて一口あおった。
甘酸っぱい液体が喉を通っていく。
だが、味なんてまったく感じなかった。
見えたからだ。
帰り道、通用門の内外をつなぐ小道に、明らかに普通ではないものがいた。
黒い人影。
数にしてまばらに何人か。
通用門の方から、学院の中へと移動していた。
動きは抑えられ、足音一つしない。
ウリエルの足がぴたりと止まる。
一瞬の迷いもなく、すぐさまティアンの手首を掴み、半ば引きずるようにして連絡通路脇の植え込みの茂みへ引っ張り込んだ。
「しっ」
ティアンを木陰の一番深いところに押し込み、自分は半分しゃがんだ姿勢で、葉の隙間を少しだけかき分けた。
視界の中、黒装束の集団が訓練された動きで前進していた。
互いに死角をカバーし合い、視界の穴を一つも残さない。
(……この統率力は、絶対にそこらのチンピラじゃない。やっぱり俺たち狙いか?セラフィーナのやつ、何か事前に察知して、それで休んでたんじゃ……)
ウリエルが脳内で暴走するかのようにあれこれと推測を巡らせていた、その時。
渡り廊下の向こうから、ふいに笑い声が聞こえてきた。
普通科の生徒が二人、本を抱えて、何も知らずにこちらへ歩いてくる。
そして、ちょうど黒装束の進路と正面衝突した。
黒装束の集団が一斉に止まり、躍り出るように生徒たちの前に立ちはだかった。
武器を抜く。
二人の生徒は明らかに驚き、反射的に数歩後ずさった。
先頭の黒装束の背後で、数人が同時に手を掲げる。
掌の中で、刃物特有の暗い光がちらついた。
(……まずい)
ウリエルの瞳孔が、ぎゅっと収縮した。
頭の中で警報が鳴り響き、いくつものIFルートが一斉に展開していく。
【IFルートA:何もせず、この二人の不運な奴らが始末されるのを黙って見ていると】
結果:一般生徒が校内で惨殺される。
明日確実に王国のトップニュース。
治安官、異端審問局、魔法協会の上層部が、この学院を根こそぎひっくり返しにかかる。
結論:ウチの激ヤバな身辺調査に耐えられるわけがない。潜伏、終了のお知らせ。
【IFルートB:ティアンに助けさせる】
結果:黒装束の集団は十中八九、三秒も持たずに灰すら残らない。
結論:武装精鋭三十人を一瞬で殲滅する「普通の男子生徒」?
それこそ敵の思う壺だ。完全に正体が割れる。潜伏失敗。
(……どっちに転んでもクソゲーじゃねえか)
ウリエルは心の中で盛大に毒づいた。
(人は死なせられない。事態を収拾不能なところまで暴走させるわけにもいかない。何より、母さんの実力だけは絶対にバラせない)
(となると——この局面を打開して、被害を最小限に抑える方法は、残り一つしかない)
ウリエルは勢いよく振り返り、隣のティアンを見据えた。
こんなに真剣な目は今までになかった。
口調はマシンガンのように速い。
「いいか母さん、外で何が起きても、お前は絶対に、絶対に手を出すな」
ティアンは一瞬呆気にとられた。
「でも——」
「でもじゃない! お前は今、ビビり散らかしてる普通の学生だ! ここでじっとしてろ、魔力の漏れも一切禁止! 俺が呼ぶまで絶対に動くな!」
ティアンが頷いたのを見て、最大の不確定要素を草むらに封じ込めたウリエルは、深く息を吸った。
まだ飲んでいないザクロジュースの瓶を、無造作にティアンの腕の中に放り込んだ。
ウリエルは最後にもう一度【観測者】で確認した。
この黒装束の集団は、せいぜい白銀級といったところだ。
(よし、これで行ける)
(飛び出して、ボコられる。頭に血が上って美少女を助けようとした実力の伴わない熱血バカを演じる。この程度の実力相手なら、殺されはしないはずだ)
よし、プランは完成した。
戦術的カモフラージュ、起動。
黒装束の刃が二人の生徒に振り下ろされようとした、まさにその瞬間。
植え込みの茂みが、これでもかというほど派手な音を立てて揺れた。
ウリエルは、誰かに見られたくてたまらない流れ弾のような勢いで茂みから飛び出し、黒装束の集団へまっすぐ突っ込んでいった。
「そこらの熱血バカ」を地で行くような声を張り上げながら。
「その子から離れろ!! 俺が相手になってやる!!」
【第三十六話・終】
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