第三十五話:とあるクソジジイのKPI
今回はいつもと視点が違う。とあるクソジジイの業務KPIのお話である。
オズワルド・ラザフォードが、その少女に目を留めたのは入学式の瞬間だった。
新入生の列に並んでいた彼女。
壇上から見渡していた視線が、その顔でぴたりと止まる。
脳裏に、別の誰かの顔が浮かんだ。
今代の勇者候補。
目の離れ具合。
鼻筋。
生え際のカーブ。
そして、あの瞳。
——一致した。
血というものは、隠しきれないらしい。
きっと、同じ一族なのだろう。
あの時、壇上の裏で、この尊敬を集める学院長が威厳のある表情を保つために、太ももを青あざができるほど強くつねっていたことなど、誰も知る由もなかった。
式が終わり、執務室に戻って鍵をかけた瞬間、彼は見るも無残に椅子へ崩れ落ち、深いため息をついた。
まさに『棚からぼたもち』だ。
夕日の残光の中、その目の下のクマは、もう消えない刻印のように深かった。
執務机の上には、二つの山が積まれている。
左の山は、学院の事務処理。
授業の承認、経費報告、今学期の人事配置案。
一番上には、保護者からのクレーム文書が乗っていた。
文面はやけに丁寧だが、内容は岩のように硬い。
——先学期のとある授業の教材に、史料引用の疑義あり。
学院側に書面での回答を強要してきている、とのことだった。
オズワルドは見向きもしなかった。
相手にする気力すらない。
右の山は、別種の書類だった。
表紙は無地。
何の印もない。
だが紙質が左の山とは明らかに違う。
痕跡を残さないために、わざわざ選ばれたものだ。
オズワルドは右の山を手元に引き寄せ、一ページ目を開いた。
「今四半期 任務進捗報告」
来月頭までに提出。
フォーマットは固定。
空欄を埋めるだけでいい。
彼はその空白の進捗欄を、しばらくじっと見つめた。
(……まだまだ足りない)
頭の中でノルマを計算する。
胸の奥が、ずしりと重くなった。
その鈍い痛みには慣れすぎている。
ここ何年もずっとこんな調子だ。
それに比べたら、しがない学院長業なんてバカンスみたいなものだ。
呪縛教団のKPIは、冗談では済まされない。
ノルマ未達なら、ボーナスなし。
昇進なし。
そして何より——秘薬が手に入らない。
「ヴェリルの霊薬」。
その名前を思い浮かべた瞬間、彼の親指が無意識に右手首を押さえた。
シャツ越しに、古傷がそこにある。
手首の骨のあたり。
筋も骨も傷んだ古傷。
治った今でも、天気が崩れるたびに鈍く疼く。
彼は今年、五十三歳だ。
五十三歳。
戦闘力測定の結果は、やはり五十二。秘銀級。
二十年前から五十二のまま。
これが、自分の限界らしい。
最初にレベルの停滞に気づいた朝のことを、彼はまだ鮮明に覚えている。
目を開けた瞬間、いつも四肢にみなぎっていた生きた力が、ほんの少しだけ減っていた。
ほんの、わずかに。
気づくか気づかないかのレベルで。
かつて「万に一人」と呼ばれた天才。
将来を嘱望された逸材。
その自分の人生の天井が、まさかここで来るとは。
それから数年。
一年また一年、少しずつ、少しずつ。
砂時計のように。
引き潮のように。
止めようとしても止まらない。
反応は鈍くなり、肉体は衰える一方だった。
(……まだ四十だぞ。四十歳でこれはおかしいだろ)
当時はそう思っていた。
そこへ教団の人間が接触してきた。
あの秘薬を見せられた。
効能を聞かされた。
服用後に限界を突破した実例も見せられた。
彼に信仰はない。
人魔両界を超越する、世界の壁を打ち破る——そんな壮大な理念にはこれっぽっちも興味がなかった。
彼が欲しいのは、ただあの薬だけだ。
ただそれだけ。
あの、意気揚々としていた頃の自分を取り戻すこと。
部活動の新入生勧誘の日、彼はわざわざ自分で足を運んだ。
学生がどのクラブを選ぶかなど、どうでもよかった。
ただ単に——セラフィーナという名のあの少女を、その目で確認しに来ただけだ。
オズワルドは人だかりの外側に立ち、ざっと視線を流して、その顔を群衆の中から拾い上げた。
(どこだ……ああ、見つけた)
それから何食わぬ顔で視線を彼女に固定し、じっくりと観察した。
学生記録を取り出してめくり、セラフィーナのページを見つける。
顔写真と照合。
本人確認。
続けて個人情報に目を通した。
実力測定値は29。
この新入生の中ではそこそこ目立つ数字だが、貴族生の中に放り込めば平凡。
人混みに紛れても目立たないレベルだ。
物腰は上品。
幼少期から厳しく叩き込まれた、身の丈をわきまえる節度ある態度がにじみ出ている。
随行人員:護衛なし、付き人一名のみ。
軽装登校。
防犯意識、薄め。
そして最も重要な一点——
ヴァルドリッチ。
間違いない、あの勇者候補と同じ家系だ。
よし。
勇者の血筋。
傍系で多少薄まってはいるが、十分に使える。
実力は強くない——むしろそれがいい。
手を出しやすい。
血脈の触媒として機能すれば、それだけで用は足りる。
オズワルドは、この考えを確信に変えた。
(……この子に決めた)
(私のKPIのために)
(あの薬のために)
彼は視線を外し、いつもと変わらぬ背筋の伸びた足取りで、ゆっくりと執務棟へ戻っていった。
ただ巡回を終えて、公務に戻るだけ——そんな足取りだった。
その夜、執務室の灯りは最大まで点けられた。
教団の書類が全て引っ張り出され、机の上に並べられる。
彼は計画を練り始めた。
自分の手で直接動くのが一番手っ取り早い。
だが——。
自分は強くとも、ヴァルドリッチ家の後ろ盾は侮れない。
あの少女には普段から付き人がついている。
学院内を行き来する学生も少なくない。
事を大きくすれば、痕跡が残る。
教団が求めているのは秘密裏の行動だ。
王都どころか王国全体を揺るがすことではない。
おまけに、今の自分の状態で秘銀級の実力を強引に使えば、この学院の中ではあまりにも目立ちすぎる。
一度動けば即座に正体がバレる。
(……直接、誘拐。これは無理だ)
彼はペンを取り、その案に線を引いて消した。
教団員のリストにも目を通した。
上から協力要員として派遣されてきた幹部——クライン。
それ以外は、戦闘力にしても、せいぜいこの学生たちとどっこいどっこいな連中ばかりだ。
できることは限られている。
彼は少し考えた。
(クライン……あいつは信用できる。だが、一人だけじゃ足りない)
彼はこめかみを揉み、ノートを新しいページにめくった。
必要なのは、大きな動きだ。
それも、全員の注目をそちらへ向けられるほど大きく。
学院の警備、教職員、そして王国の騎士団まで全て足止めできるほど大きく。
誰一人として、どこかの女子生徒が一人静かに消えたことに気づかないほど大きく。
さらに学生たちの動きも封じ込めなければならない。
でなければ、教団のあの役立たずどもでは、学生相手にすら手こずりかねない。
そして同時に——自分とは無関係に見えるほど大きくなければならない。
彼は、混乱の中で秩序を保つ威厳ある学院長でいなければならない。
犯人ではなく。
容疑者でもなく。
被害者として。
大局を取り仕切る者として。
事件後、誰よりも先に調査委員会の前に現れて協力する立場として。
オズワルドはペンを置き、しばらく考え込んだ。
(……学院、襲撃)
その四文字を紙に書き、しばらく見つめる。
十分に大きな襲撃。
十分な混乱。
十分に注意を分散させる規模。
教団の人員を全力投入し、最も混乱したその瞬間に、クラインが彼女を連れ去り、移送し、混乱の中に消える。
完璧だ。
自分につながる手がかりは何一つ残らない。
そして自分はこの学院の院長として、当然のように——学院襲撃の第一発見者。
反撃を指揮する責任者第一号。
怯える生徒たちを最初に安心させてやる、頼れる大人。
(……いける。これは、いい)
彼はその四文字を丸で囲んだ。
時間は引き延ばせない。
兵は拙速を尊ぶ、というやつだ。
——言うまでもない。
冒険者だった頃から骨身に染み込んでいる。
計画の時間が延びれば延びるほど、ボロが出やすくなる。
教団側の結界準備に二、三日。
人員調整にさらに一日。
計算すれば、今週中には実行できる。
ペン先がさらさらと音を立てた。
スケジュール、人員配置、撤退ルート——一行一行、きっちりと書き出していく。
その整然とした書式は、左の山に積まれた行政文書よりよほどきれいだった。
ぱっと見たら、学院のプロジェクト推進表でも書いているようにしか見えない。
彼は自分の字面を一瞥して、思わずぼやいた。
「二足のわらじを五十三まで履いていれば、書類の体裁くらい上手くもなるというものだなあ」
書き終えると、紙を折りたたみ、適当に本を一冊乗せて重しにした。
椅子の背にもたれかかり、目を閉じる。
こめかみがどくどくと脈打っていた。
目の下のクマが、また少し濃くなった気がする。
(……あと少しの辛抱だ。あの薬さえ手に入れば、あの薬さえあれば、全部元通りになる)
(力も、体力も、ぜんぶ戻ってくる)
窓の外、学院の明かりはもう大半が消えていた。
廊下は静まり返り、遠くで風に揺れる木の葉の音だけが、途切れ途切れに響いていた。
オズワルドは執務椅子に崩れたまま、微動だにしなかった。
灯りの下、その生え際が、また少しだけ、音もなく後退したような気がした。
【第三十五話・終】
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