第三十四話:ウリエルの奇策
ウリエルが学院長の危ない目つきに気づき、ティアンを送り込んで令嬢に忠告させる。作戦は成功したが、会話はカオスを極め、令嬢は速攻で撤退。
しばらく歩いていると、ティアンの足が急に半拍遅れた。
列から外れる。
ウリエルはすぐに気づいて、立ち止まって振り返った。
「どうした?」
「部活、まだ終わってないみたい」
「食堂、今なら空いてる」
「夕飯、買って帰ろう」
ウリエルはそう言うと、また歩き出した。
ティアンは賑やかな方向をちらりと振り返って——そして、すぐに彼の歩調に追いついた。
二人は脇道を通って人混みを避けた。
グラウンドの歓声がだんだん遠ざかっていく。
角を曲がると、辺りには二人の足音しか残らなかった。
ウリエルは歩きながら、あのことを考えていた。
学院長の、あの目つき。
何度も何度も、前後左右からひっくり返して検討した。
(普通なら、見なかったことにするよな)
わざわざ学院長に喧嘩を売るやつなんていない。
後で目をつけられて、ネチネチ嫌がらせされたらたまったもんじゃない。
だが——
自分は違う。
このタイミングの自分は、いわば灯台下暗しの位置にいる。
ティアンと並んで人混みに紛れれば、どこにでもいる新入生二人組。
一番目立たない隅っこに収まる。
誰も二度見しない。
(この作戦、絶対にうまくいく)
——が!
学院でスキャンダルが起きたら話は別だ!
たとえば。
五十がらみの学院長と、名門出の女子生徒の間で何か起きたら。
注目度が跳ね上がる。
調査が入る。
あらゆる勢力が集まってくる。
(……それは、まずい)
この危険な可能性を摘み取るべく、極めて現実的な危機感が怒涛のように押し寄せてきた。
これは芽のうちに摘んでおかなければならない。
問題は——男子生徒がこの手の話をするのは、めちゃくちゃ説明しづらいということだ。
なぜ気づいた。
なぜ口を出す。
下心があるんじゃないか。
こじれにこじれて、自分が面倒なことになりかねない。
おまけに、彼はもう三年も女の子とまともに会話していない。
いざ口を開こうとすると、共感性羞恥で死にそうになるレベルで気まずい。
声が、出ない。
ウリエルは横目で、ティアンをちらりと見た。
ショートヘア、整った顔立ち。
そこに立っているだけで、警戒心を抱かせない雰囲気がある。
(……可愛い顔してるし、親しみやすいはず)
(それに、こういう話は女の子同士のほうが、男から言うよりずっと話しやすい)
ウリエルは頷いた。
「これでいける」
食堂は案の定、ガラガラだった。
二人は手早く夕飯を詰めて、弁当箱を提げて寮へ戻った。
ティアンが箸と茶碗を並べ、ウリエルが弁当箱を開ける。
机に向かって座った頃には、窓の外はもう夕焼けのオレンジ色に滲んでいた。
「ひとつ、頼みたいことがあるんだ」
ウリエルが切り出すと、ティアンはぱっと顔を上げて、真剣な目で頷いた。
ウリエルは自分の推測を話した。
学院長が、若い娘を食い物にしようとするエロオヤジかもしれないって話を。
「……その女の子、知ってるの?」
ティアンの瞳には好奇心がたっぷり詰まっていた。
「たぶん知らない。だから、教えてあげる必要がある」
「君が行くの?」
「いや、ティアンが行ったほうがいい。そっちのほうが向いてる」
その一言で、ティアンはあっさり頷いた。
「わかった」
ウリエルは箸を置いて、考えてあった注意事項をもう一度頭の中で復習してから、口を開いた。
「いくつか、絶対に覚えておいてほしいことがある」
そこから、彼は長々と語った。
起こりうる状況から、言葉選びの加減まで、一つ残らず説明した。
そして、一番大事な一点だけは、三回繰り返した。
「絶対に、変なこと言うなよ」
ティアンは向かいに座って、真剣に聞いていた。
一度も口を挟まず、最後まで聞き終えると、こくりと頷いた。
「わかった」
「ほんとに、わかった?」
「ほんとに。変なこと言わない」
ウリエルは二秒ほどティアンの顔を見つめ、適当に流している様子がないことを確認して、ようやく肩の力を抜いた。
「よし」
翌日の放課後、ティアンは出発した。
ウリエルは寮に戻り、問題集を開いて勉強しているふりをした。
ペン先が紙の上で止まったまま、長いこと一文字も動かなかった。
(……大丈夫、なはず)
(ああいう時、母さんは頼りになるから)
ついていきたい衝動を押し殺して、ウリエルは問題集に視線を戻した。
セラフィーナ・ヴァルドリッチは、午後のお茶を楽しんでいた。
伯爵家のお嬢様ともなれば、お茶一杯飲むのにも骨の髄まで叩き込まれた作法がある。
カップの位置、茶葉の温度、お茶請けの並べる順番まで、全てに型がある。
だが彼女にはそれがなかった。
肩の力を抜いて、カップに注いではそのまま飲み、空になればまた注ぐ。
斜め向かいに座る学友は、時々今日見聞きしたことや、面白い話をしていた。
そこへ、ティアンが歩み寄ってきた。
テーブルの前で立ち止まり、丁寧に切り出す。
「すみません、少しお話よろしいですか?」
学友が顔を上げて、来訪者をさっと観察した。
整った顔立ち、それほど高くない背丈、制服はきっちり着こなしている。
なんとも言えない「無害そう」な雰囲気がそこにあった。
学友はしばらくティアンに視線を留めてから、セラフィーナに向き直った。
口元に「察した」とでも言いたげな弧を浮かべて、カップを持って立ち上がる。
「じゃあ、お湯もらってくるね」
そう言って、なめらかな足取りで去っていった。
セラフィーナはカップを置き、目を上げて、向かいに座ったティアンを見つめた。
表情は穏やかなままだった。
生まれつき感情が顔に出ないタイプ。
嬉しい時もこの顔、不機嫌な時もこの顔。
よほど近くで見なければ、表情の機微など読み取れない。
スーパーの優秀な店員もかくやという、完璧な「営業スマイル」。
「どうぞお話しになって」
セラフィーナはそう言いながら、ティアンにもお茶を注いだ。
貴族らしい気取りは一切なかった。
「どのようなご用件ですの?」
ティアンは話し始めた。
昨日の部活動での出来事を、前後の経緯ごと整理して伝える。
肝心なところは遠回しにせず、言うべきことを全て言い終えて、相手の反応を待った。
ウリエルにそう指示されていた。
だから、その通りにした。
セラフィーナは、黙り込んだ。
テーブルの上のカップを、しばらくじっと見つめていた。
その「営業スマイル」の奥に、一瞬だけ困惑と嫌悪がよぎった。
それから、彼女はその感情を必死に押し殺し、ティアンを見つめて丁寧な口調で口を開いた。
「……あの、あなたは男の子ですわよね?」
誤解を恐れたのか、彼女はもう一言付け足した。
「……女の子ではないですよね?」
ティアンは瞬きをした。
(ウリちゃん、これは聞いてなかったな……まあ)
「ええ」
ティアンはかなり真剣に答えた。
「僕、いつも男子トイレ使ってますよ」
セラフィーナのカップを持つ手が、空中でぴたりと止まった。
数秒かけて、その答えを咀嚼する。
「……」
ウリエルがこの場についてこなくて本当によかった。
このカオスすぎる問答を聞いていたら、間違いなく現場に飛び出して「ストップ!」と叫んでいただろう。
「わかりました」
セラフィーナは目を閉じ、少し間を置いてから答えた。
「ご忠告、感謝いたしますわ」
口調はあくまで礼儀正しく、声も平坦そのものだった。
だが、その手はすでにテーブルに突いて体を支え、立ち上がっていた。
周りの荷物をものすごい速さでまとめている。
まるで早送りのような動きだった。
「では、これで失礼します」
言うが早いか、彼女は踵を返した。
歩くスピードは異様に速く、スカートの裾が風を巻いて揺れていた。
学友は、いつの間にか戻ってきていた。
お湯を注いだポットを手に立ち、ティアンを見る目には「世の中いろいろ見てきたけど、これはちょっと同情するわ」という色が浮かんでいた。
後にティアンがその目つきをウリエルに伝えたとき、ウリエルは脳内で勝手に変換した。
——要するに「見事にフラれた哀れな奴」を具現化したような目だったのだろう、と。
ティアンが寮に戻った頃、ウリエルはようやく問題集に一行だけ書き込んでいた。
「伝えたわよぉ。あの子、とっても礼儀正しい子だったわねぇ」
ウリエルはペンを置いて、頷いた。
「反応は?」
「お礼を言ってぇ、帰っていったわよぉ」
ティアンは少し考えてから、二文字付け足した。
「速攻で」
「……了解、お疲れ」
ティアンはベッドの端に腰を下ろし、しばらく黙り込んだ。
何か言いたげな表情が浮かぶ。
何かしなくちゃ、と思ったのか、口を開いた。
「性格よかったわよぉ、あの子」
「うん」
「可愛い顔してたし」
「うん」
「育ちもよさそうだったし」
ティアンはだんだん調子に乗ってきた。
声が、ウリエルのDNAに刻まれた「いつもの流れ」を帯び始める。
「それに、二人とも同学年だし——」
ウリエルは問題集を置いて、振り返った。
「ティアン」
「ん?」
両手を伸ばし、彼女の頬を両側からむぎゅっと挟んで固定した。
その続きを言わせない。
ティアンの口は軽く押しつぶされて、声がこもる。
「んむ、ウ……りっ——」
「ルームメイトモード」
ウリエルは平然とした顔で、極めて冷静に告げた。
「今はルームメイトモード。母さんモードじゃない。わかった?」
「んんー」
「詮索しない」
「んー」
「返事は?」
ティアンは手の中で少し抵抗したが、抜け出せず、最後には観念して「うん」と頷いた。
ウリエルは手を離して、また問題集に向き直った。
ティアンはその場に座ったまま、赤くなった頬を手の甲でさすりながら、ぼそりと呟いた。
「……可愛かったもん」
「聞こえないなあ」
ウリエルはページをめくった。
「何か言った?」
「ううん、なんでもない」
窓の外を、夕方の風が木の葉を揺らしながら吹き抜けていく。
その音が、二人の間に落ちた小さな沈黙を、ちょうどよく埋めていった。
【第三十四話・終】
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