第三十一話:ティナって、男の名前なの?
「ご飯にする? お風呂にする? それとも——」
男子寮の一室で、花柄エプロンの男装母親が放った、人妻満点の危険な帰宅三択。息子の渾身のストップが間に合って本当によかった。
続いては命名問題。
宿舎の扉が開いた瞬間、煮込み料理の香りが波のように押し寄せてきた。
ウリエルは中に入って、無言でドアを閉めた。
(って、マジで宿舎で料理してんのかよ! こんなイイ匂いさせたら他の奴らにバレるだろ)
本来なら男子学生の汗と靴下の臭いで満ちているはずのこの空間に——
厨房の方角から、例の「普通の男子学生」はきれいさっぱり消えていた。
代わりにいたのは、髪を無造作に後ろでまとめ、ゆったりとした部屋着を着て、その上から花柄のエプロンを結んだガラティーナだった。
手には長柄の木のお玉を持っていて、ドアの音を聞いてくるりと振り返った。
小さなコンロに鍋が一つ。
ぐつぐつと湯気を上げている。
不揃いなジャガイモ、艶やかに煮えたニンジン、それから肉が何切れか、褐色のスープの中でゆらゆらと揺れていた。
鍋の隣には小さなまな板台が置かれていて、まだ剥いていないニンニクが数かけと——明らかに宿舎の備品ではない、布を巻いた古い柄の小さな菜切り包丁が一本、並んでいた。
(……この包丁)
ウリエルには見覚えがあった。
家から持ってきたやつだ。
母さんがニンニクを叩くのに使っているお気に入りの包丁。
(なんでそれまで荷物に詰めてきたの)
ウリエルが戻ってきたのを確認して、ガラティーナのきれいな顔に、見慣れた満開の笑みが浮かんだ。
「ウリちゃん、おかえり〜。ご飯にするぅ? お風呂にするぅ? それとも……」
ウリエルは感電したかのように無表情で手を上げ、無表情でその詠唱を遮った。
「ストップ」
彼は、人生の酸いも甘いも噛み分けたようなひどく哀愁漂う目で彼女を見つめた。
「今の『それとも』のあと、一瞬間を置いたよね。あのトーンとあの溜め、どう聞いても続きは『わ・た・し』でしょ。そういうつもりだったでしょ」
「え?」
ガラティーナは目をぱちぱちさせた。
「どうして『わ・た・し』になるのぉ?ママが言おうとしてたのは、『疲れを吹き飛ばす魔法』だよぉ?」
「どこの危ない新妻台詞だよそれ! 真似しないで! ……って、そんな魔法あるの?」
「あるよ」
そう言ってガラティーナは両手でハートを作り、ウリエルへ向けた。
「疲れよ、飛んでいけ」
「それ、ただの『痛いの痛いの、飛んでいけ』のパクリじゃないか!! 俺はもう子どもじゃないんですけど!!」
(……やっぱり)
(魔王だの深淵の陰謀だの、そんなものは何もない)
(常識の欠如した、ただのバカかあちゃんだ)
ウリエルは深く息を吐いた。
帰り道に胸の奥にわずかに残っていた「叙事詩的な重み」が、この「いたいのいたいのとんでいけ」で完璧に吹き飛んだ。
文字通り、とんでいった。
「先にご飯。お腹すいた」
食卓は宿舎の勉強机だった。
椅子を二脚並べて、窓に向けた。
ウリエルは教科書を端に押しやって、お椀を二つ置く場所を作った。
窓の外はすっかり暗くなっていた。
学院の構内にも、街灯がいくつか灯り始めていた。
箸を持ったとき、ふと気になっていたことを思い出した。
「そういえば」
ウリエルは、嬉しそうに肉を取り分けているガラティーナを見た。
「外では今、男装してるよね」
「うん」
「じゃあ名前がいるよね。学校の中でいつまでも『ルームメイト』って呼ぶわけにもいかないし」
ガラティーナは箸を一瞬止めて、真剣に考え込んだ。
少しして、箸を置いた。
両手を顎の下で重ねて、びっくりするほど真剣な顔で答えた。
「ティナ」
ウリエルの口の中の肉スープは、見事に気管へと直行した。
「ゴホッ、ゴホッ!」
体をくの字に曲げ、盛大にむせた。
顔が碗に突っ込みそうになった。
ガラティーナはすぐに立ち上がって回り込み、背中をそっと叩いた。
「ゆっくり、ゆっくり」
とんとん叩きながら、柔らかく言う。
「まだそんな子どもみたいにむせるの」
「……大丈夫」
ウリエルはティッシュで口元を拭いて、なんとか息を整えた。
背筋を伸ばして、相手を見た。
「お前、今、男の格好をしてるんだよな」
「そうだよ」
悠然と席に戻って座り直す。表情はまったく揺れていない。
「で、名前がティナ」
「そう、ティナ。何か問題ある?」
「……」
「この名前、おかしい?」
「おかしいどころの話じゃない!ティナは女の子の名前だろ!!」
ウリエルは自分の常識回路に過負荷がかかるのを感じた。
「男子学生でティナなんて聞いたことないから!男の顔してて、名前を聞かれて『ティナです』って言ったら、この学院で俺たちがどれだけ目立つかわかってる!?」
「そう?」
ガラティーナは一段階テンションを落として、さらりと言った。
「ティナでよくない? 名前って記号みたいなものだしぃ、この発音に慣れちゃったから、変えるの面倒なんだもん」
(……まったく聞いてないじゃないか!)
ウリエルはそのツッコミを全力で飲み込んだ。
「もう決めた、変えない」という表情を全力で読み取った。
十中八九、呼ばれ慣れているから変えたら自分で反応できなくなるんだろう、というのは理解できる。
「……わかった。じゃあ苗字だけでも作ろう。さすがに必要だし」
「あ、それはまだ考えてなかった。ウリちゃん、考えてくれる?」
ウリエルはその一言の重さを受け止めた。
箸でご飯をつついて、長年眠っていた前世の記憶の引き出しを開けた。
その中から、とある有名な名前を引っ張り出した。
「……ペンドラゴン」
「ん?」
「苗字はペンドラゴン」
頭も上げずに言った。
「聞かれたら、ティナは家族の間で使ってる愛称だって言えば、なんとかなると思う」
ガラティーナはその名前を小さく口の中で繰り返した。
それから、ふっと笑った。
目の奥に、やわらかい光が灯った。
自分が一番大切にしている人に、ちゃんと向き合ってもらったときにだけ生まれる、あの光だ。
「うん、ウリちゃんに任せる」
箸を持ち直して、一番大きな肉の塊を拾い上げた。
ウリエルの碗に、静かに置いた。
「なに」
「ご褒美」
昔、寝る前のお話をしてくれるときと同じ声の温度で、言った。
ウリエルは碗の中の肉を見つめた。
一拍置いてから、食べた。
「……苗字を一つ考えただけで褒美まで出るの」
(適当に言っただけだし、他のキャラからパクったものだしな)
よく煮えていた。
塩気もちょうどよかった。
(これが良妻賢母ってやつか)
ウリエルは黙って飯をかき込んだ。
(男子学生なのにティナ)
(……まあ、あの人のことだから、どんなに無茶苦茶でも、なんだかんだで誤魔化して生きていけちゃうんだろうけど)
(そうは言っても、さすがにこのままではまずいだろ、いや本当に)
窓の外から、虫の声が細かく密やかに聞こえてきた。
草むらの奥から、夜の輪郭をひたひたと埋めるように。
ぼんやりと、あの旧い家での夕飯の時間が重なった。
翌朝、ウリエルは薄い目の下のくまを引っさげて、有無を言わさずガラティーナを学生会の事務室の前まで引っ張ってきた。
昨夜はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、入学式で教務長が名前を読み上げて、中性的に整った顔立ちの男子学生が立ち上がり、「はい、ティナです」と答える光景が浮かんだ。
そしてそれに続く、全校生徒と教師からの奇異の視線が。
(絶対にだめだ。ティナという男子学生と『普通』の二文字は、天と地ほどかけ離れている)
そこで彼が思いついたのは、最小限の修正だった。
Tina を Tian に。
ティナをティアンに。
「よく聞いて」
事務室の前でウリエルはガラティーナの両肩を掴んで、遺言を読み上げるような顔で言った。
「中に入ったら、自分で口を開いて言うこと。聞き間違いがあったとか、訛りがあったとか、それっぽい理由は何でもいい。とにかく名前を『ティアン』に直してもらう。覚えた?」
「ウリちゃん、ティナでよくない……?」
「だめ。これは俺たちの身の安全と、今後四年間食堂で静かにご飯を食べられるかどうかの話だ。行くよ、ティアン・ペンドラゴン」
扉を押し開けて、まるで命を懸けた決戦に臨むような覚悟で踏み込んだ。
受付にいたのは眼鏡をかけた二年生の先輩だった。
書類の山から顔を上げ、眼鏡を押し上げて、二人を見た。
そして視線が、その「男子学生」の顔の上で、少し長く留まった。
「名簿の修正ですか」
先輩の声に疲れが滲んでいた。
ウリエルはさりげなく隣の人の脇腹を肘でつついた。
ガラティーナは合図を受け取った。
面倒くさそうにしていたけれど、今にも本人が卒倒しそうな顔をしているウリエルを見て、素直に口を開いた。
少し低めの、でもどこか天然っぽい中性的な声で、慣れない様子を作って言った。
「あの、先輩。名簿に間違いがあって……僕、ティナじゃなくて、ティアンなんっすよ」
先輩は手元のペンで顎をとんとんとして、ガラティーナの顔を少し長めに見つめた。
魔法で偽装しているとはいえ、ガラティーナの男装した顔立ちは、整いすぎていた。
キメ細かく、目元に何も知らない田舎育ちの坊ちゃんみたいな、ちょっとした人見知りの気配まで漂っている。
「ティナ(Tina)からティアン(Tian)ね……まあ、聞き間違いはあるか」
先輩は名簿に目を落として、またガラティーナの顔に戻って、それから何かを小声でぼそっと言った。
「顔がこんなに整ってる男の子が本当にティナだったら、男子寮でいじめられかねないし……」
ペンを取って、さらさらと直した。
「修正完了。身分証明書の写しを一枚提出しておいて。次は名簿係の聞き間違い対策もしっかりしてね」
「ありがとうございます、先輩!お手数をおかけしました!」
ウリエルは半ば書類を引ったくるようにして受け取り、ガラティーナの腕を引いて事務室を出た。
廊下を走るように進んで、建物の外へ出て、ようやく外の空気を吸った。
(……なんとかなった。名簿は直った。これでキャラ崩壊は免れた)
(この、何も起きない平和な毎日を、俺は死守する)
振り返ると、「ティアン」が路傍の街灯を、何の気なしにじっと見上げていた。
「いいか、これからはティアン。わかったな」
「……うん、ティアンね、ティアン」
ガラティーナはこてんと首をかしげた。
朝の光の中で、短い髪がさらりと揺れた。
ウリエルがそこまで必死になる理由は、彼女にはよくわからなかった。
でも、この子が決めたことなら、なんでも面白くて、ついそのまま頷いてしまう。
ウリエルはその、あっけらかんとした顔を見て、口の端を一回だけ動かした。
それから、諦めたように息をついて、教室への道を早足で歩き始めた。
【第三十一話・終】
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