第三十話:勇者は魔王
「勇者は魔王」。
史料は冷たくそう断じていた。魔王城にて偽の魔王を斬殺後、引き続き勇者として偽装。正体発覚後、討伐済み——と。
図書館の光は柔らかく、書棚はすべて天井近くまで一列に整然と並んでいた。
ウリエルは足を止めた。
少し先の書棚の前に、上級生が一人立っていた。
彼は移動式の梯子を押さえにも行かず、七段目の一冊に目を向けただけだった。
そのまま右手を上げ、人差し指と中指を揃えて、その方向にさらりと引き戻した。
「スッ——」
本は素直に棚から滑り出した。
空中で一本の弧を描いて、広げた掌の中へすとんと収まった。
流れるような一連の動作。息をするように自然なドヤ顔ムーブで、前後合わせて三秒もかからなかった。
ウリエルはその場に五秒間、微動だにせず立ち尽くした。
(……カッコいい)
(超カッコいい……!!!)
「二度目の転生者としての成熟した精神」とか「目立たない生き方の基本原則」とか、そういうものが、この瞬間ことごとく空の彼方へ吹き飛んだ。
(世の中の男で、念動力ムーブに抵抗できる奴なんているわけないだろ!?)
(これが魔法世界の究極のロマンってやつだろ!!!)
彼は内心の昂りを必死で抑えながら、早足で歴史区へ向かった。
「勇者と冒険者伝説」の分類棚の前に立った。
左右をさっと確認した。
周りに誰も見ていない。
さっきの上級生とまったく同じように、足を少し開いて構えた。
やや顎を上げ、眼光鋭く、一冊の『勇者年代記』を標的に定めた。
右手を上げた。
人差し指と中指を揃えた。
さらりと引き戻した。
心の中では「来い♂」とすら付け加えた。
……風が吹いた。
何も起きなかった。
(姿勢が間違ってる? それとも動作だけじゃなくてエーテルの共鳴が必要?)
ウリエルは諦めず、より真剣な構えに変えた。
眉を寄せ、意識の全てをその一冊に集中させ、脳裏に見えない手を具体的にイメージした。
目覚めたばかりの【観測者】の感知と、言葉では言い表せない自分の意図を混ぜ合わせ、一気に出力を引き上げた。
(来い! こっちへ来い!!)
ガラガラガラ——!!!
耳を劈く轟音。
飛んできたのは、一冊だけではなかった。
書棚の「勇者」「英雄」「討伐」という文字が含まれるすべての本が、いっせいに棚を飛び出した。
まるで巣を突いたスズメバチの群れのように。
大小さまざま、厚薄まちまちの、二十数冊の豪華ハードカバー本。
ゴウッという風を引きながら、ウリエルの頭を中心として四方八方から——まるで「剣よ来たれ!」のノリで。
「うわっ——」
悪態も半分しか口に出せず、無意識に目を固く閉じ、両腕で頭を覆って、凄惨な『物理的成仏』を受け入れる覚悟を決めた。
……
しかし、覚悟していた鈍い痛みは、一向に来なかった。
おそるおそる片目を開けた。
二十数冊の本が、ウリエルの正面五十センチのところで、きっちり一列に整列して浮いていた。
一冊ずつ隙間なく並んで、まるで知識で積み上げた壁みたいに、静かに彼の点検を待っていた。
ウリエルはゆっくりと、頭を守っていた腕を下ろした。
(……うん、一応、魔法は発動した。あの先輩は精密な狙撃。俺のは無差別爆撃)
顔色ひとつ変えずに手を伸ばし、宙の本の壁から『第七代勇者討伐記』を一冊抜き出した。
くるりと向きを変えて、近くの空き閲覧机へ向かった。
「俺は最初からこれだけ借りるつもりだったが」と言わんばかりの、緩慢で悠然とした歩き方で。
一歩進むたびに、本の壁もついてきた。
机の前に着いた。椅子を引いて、腰を下ろした。
「ドスン! バラバラバラ——ガサガサ——!!」
移動の意図を失った瞬間、宙に浮いていた本の群れは一斉に魔法の支えを失い、土砂崩れのように机の上へ落下した。
小山が出来上がった。
図書館が静まり返った。
数秒後。
「……ぷっ」
どこかの席から、堪えきれなかった誰かの笑い声が漏れた。
すぐ手で押さえた気配がした。
受付カウンターの図書委員が顔を上げた。
その声は、何かを必死に堪えているせいで微かに震えていた。
「……学生さん、静粛に願います」
「す、すみません」
声の主がすぐ謝ったが、語尾の震えは誤魔化せていなかった。
ウリエルは頭を低くして、目の前の一冊目の表紙を死んだ目で見つめた。
耳の付け根が、火が出るほど熱くなっていた。
(全部聞こえてるけど、俺は何も知らない。俺は勉強熱心な一般学生であり、世俗の嘲りは聞こえていない)
強引に表紙をめくった。
しかし三十秒も経たないうちに、視線は本のページから離れた。
ゆっくり上へ滑って、目の前に聳える五十センチの本の山を、絶望的な目で見つめた。
(待って)
(……本を棚から呼ぶのは「引く」力として)
(返す時に棚の正確な三次元座標へ「押し込む」のって、どうやるんだ??)
硬直したまま、さっきの高い書棚を振り返った。
七段目は、床から少なくとも三メートルある。
(……借りる時は天国、返す時は地獄)
(詰んだ。今日は梯子を持ってきてよじ登りながら一冊ずつ戻すやつだこれ)
静かに目を閉じ、深く息を吐いた。
(……とりあえず先に読もう)
ウリエルは視線を本の紙面に固定して、件の本の山は完全に自分の意志で積み上げたものだという体で読書を始めた。
一ページ目、厳格な歴史体で一行の標題が書かれていた。
『勇者列伝——伝説の始まり』
ガラティーナの世代についての記録は、長い文章もなければ、仲間たちの名簿もなかった。
大きな羊皮紙の上に、何者かによって意図的に削ぎ落とされたような、骨格だけの乾いた数行がある。
【勇者の身元、不詳】
【聖教会による確認の結果、魔王による偽装と断定】
【魔王城において偽の魔王を斬殺後、引き続き勇者として偽装】
【その後正体が発覚し、人界の上層部の連合包囲を受け、エクシア村の戦いで敗北】
【状態:討伐済み】
ウリエルはその数行を、長い間じっと見続けた。
「彼女」について詳しい戦いの描写はひとつもない。
英雄譚もない。
あるのは冷たく、まるで賊を扱うような「魔王偽装」と「討伐済み」だけだった。
さらに七、八冊めくって、別の年代の史料を探した。
他の歴代勇者が描かれているものはすべて——「九死に一生を潜り抜けた」「大魔術師が命を燃やす禁忌魔法で隊を冥府の渡し河を渡らせた」「騎士団長が己の肉体で魔龍の吐息を受け止めた」——そういう史詩的な悲壮の記録、あるいは輝かしい武勲の記録ばかりだった。
ガラティーナの項に至ると、絵面ががらりと変わる。
行間ににじんでいるのは、用心深い臆病さと、それを隠しきれない動揺だった。
(……魔王が化けた勇者)
ウリエルは本を閉じて、椅子の背にもたれた。
(ありえない。絶対にありえない)
普通の転生者が自分の育ての親を「世界を滅ぼす魔王」と史書に書かれているのを見たら、今頃冷や汗びっしょりで陰謀論の大作でも脳内上映し始めていただろう。
ウリエルにはそんなことはなかった。
ただ、強烈な、閉じようのない認知の齟齬があった。
「悲壮で重大」な史書を読みながら、耳に勝手に甦ってきたのは——何年か前、ガラティーナがベッドの端に腰かけて、眠りに落ちかけた彼に聞かせてくれた「寝る前のお話」だった。
『……それでね、ママはその遠い場所へ行ったの』
『ただ道が暗かっただけでねぇ、途中の川がなぜかプクプク泡立ってて少し熱かったから、えいって頑張って跳んだら、渡れちゃったのよぉ』
『門番のね、大きな骨でできたおじさんがすっごく怒ってたんだけどねぇ、ママを見て刀を振ってきたのよぉ。どかそうとちょっとだけ押したら、自分で転んじゃって、ぐちゃぐちゃになっちゃったのぉ。ひとつひとつ拾って繋げようとしたんだけど、もう元に戻らなくてねぇ』
(……)
謎が解けた。
陰謀もなければ、魔王の偽装もない。
単純に、この女の戦闘力がバグっているだけだ。
地獄難度のダンジョンを、買い物感覚でソロ攻略したのだ。
彼女の背中すら見えなかった人界の上層部は、彼女が髪の毛一本乱さずに素手で魔王を物理的に解体しているのを見て、盛大に世界観を崩壊させた。
(人間とはそういうものだ。理解できないほど強いものを、とりあえず怪物と定義する)
ウリエルは長く息を吐いた。
さっきまで胃の底に居座っていた重さが、すっかり消えた。
残ったのは、当時の歴史学者たちへの深い同情だけだった。
(どうでもいい。史書に何が書いてあろうと関係ない)
(魔王だろうと、不老の化け物だろうと——本質的には、常識のない、戦闘力だけ無駄に高い、うちのバカかあちゃんに過ぎない)
(そして、ずっとそうやって、彼女の面倒を見てきたじゃないか)
ウリエルは立ち上がって、三メートルの書棚と、本が一段分ごっそり空いた棚を見上げた。
深く息を吸い込んだ。
横の木の梯子に手を掛けた。
(……この何十冊、どうやって戻せばいいんだ)
結局、本を一抱え持って書棚に向かったウリエルに、図書委員が歩み寄ってきた。
図書委員が指をクイッと動かすと、本はスルスルと簡単に棚へ戻っていき、ウリエルはホッと胸を撫で下ろした。
帰り道、風が少し強くなっていた。
空の端の雲が押されるように西へ流れていく。
広場の端の高い木の葉が、ざわざわと鳴っている。
日差しが一段と翳り、学院全体に薄い、まだ温かみの残る夕暮れ色が広がっていた。
ウリエルは手をポケットに突っ込んで、ゆっくり歩いた。
図書館の中で「魔王偽装」の件は十中八九、人界の上層部の戦力パニックが生んだ大誤解だという結論を出したわけだが——それでも、全部を「普通の人間」の物差しで測り切れないことも、確かにある。
道端の小石を蹴った。
石が石畳の上で二度跳ねて、草の隙間に静かに収まった。
(たとえば、あの人は老けない)
五歳のあの雨の日、自分が彼女を拾ったのか彼女に拾われたのかは、今更どうでもいい。
あの頃の彼女はあの通りだった。
今の自分は十六歳で、彼女はまだあの通りだ。
今は魔法で短髪の少年の姿に変えているが——彼女の上に時間が止まっているような感覚は、ずっと変わっていない。
(……長命種か。あるいはもっと古い何かか。最悪の仮定として、あの爺さんたちが当たっていたとしたら——本当に魔王と何らかの関係があったとしたら)
その極端な仮定を、頭の中でぐるりと回してみた。
……だから何だ。
それがどうした。
彼女と一緒に十年暮らした。
真冬に布団を掛けてもらった。
スプーンの熱いスープを、不器用にふーふー冷ましてもらった。
ほどけた靴紐を、ぶきっちょな指で結び直してもらった。
拾ってきた他の三人の子供たちも育て上げてくれた。
あの日々は、あの理不尽なほど純粋な温かさで、ぼろぼろの旧い家をぎゅうぎゅうに埋め尽くしてくれた。
そのすべてに、自分はその場にいた。
(もし本当に魔王だったとしても——それは常識のない、俺から目を離したら世界をめちゃくちゃにするかもしれない、うちのバカな魔王かあちゃんなだけだ)
(だったら、今まで通り目を離さずに、面倒を見ていればいい。ずっとそうしてきたじゃないか)
遠くの学生寮に、ぽつぽつと暖かい灯りが灯り始めていた。
ウリエルはその光の粒を見つめながら、いつの間にか歩くペースを少し上げていた。
【第三十話・終】
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