第二十八話:倫理という名の難問
※今回、やや小高めのエネルギーがあります。ご注意ください。
男子トイレの話題から始まったはずの会話は、なぜか「大人の知識」講座へ。
荷物を片付け終えて、ウリエルはベッドの端に十分ほど座って、お菓子を一つ食べた。
それから、まだ片付いていない問題があることに気づいた。
椅子に移って、軽く咳払いした。
「母さん、確認したいことがいくつかある」
ガラティーナは彼の衣服を棚にしまっている最中で、声を聞いて振り返った。
ちゃんと聞いているという素振りを見せた。
「日常生活の話だけど、部屋の中は二人だけだし、扉を閉めれば元に戻れる、これは問題なし、洗濯は母さんがやってくれる、確定」
ウリエルは指を折り始めた。
そう言ってから、ふっと力が抜けた顔になった。
「あと、トイレ」
「トイレぇ?」
「そう。学院のトイレは共用だ。母さんは男子として在籍してるから、男子トイレに入ることになる。男子トイレには他の男子がいる——」
そこまで言って、この問題の荒唐無稽さが自分の描写できる限界を超えていることに気づいて、中途半端に切り上げた。
「わかるよな」
ガラティーナは真剣に考え込んだ。
瞳が微妙に動いた。
難しい問題を処理している時だけ出る、あの集中した顔だ。
「源質で空間回路を一本組めば、教室の廊下でも個室でも、どこからでも部屋のバス・トイレに繋げられる。行って帰って一秒、周りには絶対わからないよ」
彼女は落ち着いた声で言いながら、二本の指でするすると経路を描いてみせた。
「空間回路」という言葉を聞いた瞬間、ウリエルの思考が完全に停止した。
「なるほど、たしかに」
思わず乗っかってしまった。
いつ起動するか、どうやってタイミングを合わせるか、どのくらいの距離まで気づかれないか——そこまで具体的に考え始めて。
待て。
(……待って)
会話を頭の中で最初から再生した。
(……おかしい)
手を下ろして、しばらく虚空を見上げた。
「個室があれば問題ない」
個室は何のためにある?
視線を遮るためだ。
個室に入って扉を閉めれば、外から何も見えない。
それで元々、問題はなかった。
では空間回路は、何の問題を解決したのか?
(いや全然合ってねぇよ!)
ゆっくりとガラティーナの方を向いた。
「母さん、個室には仕切りがあるよな」
「あるよ」
「個室に入って扉を閉めたら、外から何も見えないよな」
「そうだねぇ」
「だったら個室に入って普通に用を足せばいいよな」
「……そうだね」
「空間回路、何のためのやつだったの」
ガラティーナも黙った。
瞳孔がやや上を向いて、しばらく考えた。
「……なんか、必要なかったね」
彼女は少し気まずそうに頭をかいた。
「必要なかったね」
「うん」
「つまり、俺たちさっき、何を話してたんだ」
ウリエルは白目を剥いた。
ガラティーナは答えなかった。
珍しいことに、「いま余計な回り道をしていた」という、かすかな茫然とした表情が顔に出ていた。
ウリエルは手で顔を覆って、黙って反省した。
(母さんが不要な解決策を出した。俺はそれを真面目に検討した。危うく「いい案じゃないか」と思いかけた)
しばらくして、気を取り直して姿勢を正した。
本当の問題に戻る。
「俺が言いたかったのは、男子トイレには、母さん以外にも男子がいる。男子トイレだから、母さんには見えてしまう部分がある、ということだ」
一語一語はっきり言った。
具体的に何とは言わなかったが、ガラティーナなら伝わるだろう、たぶん——
ガラティーナの目が、ぱっと開いた。
この十数年、一度も見たことのない表情だった。
固まった。
ウリエルはその顔を見て、内心でひっそりと満足した。
(初記録——ガラティーナの動揺、確認)
(原因:男子トイレ)
それからガラティーナは、軽く自分の手のひらをぽんと叩いた。
「何かを理解した時」だけ出る、あの習慣的な小動作だ。
「そうか、ウリちゃん、今年でもう十五歳近いもんね。もう大人になるね」
その目に、母性の慈愛と責任感がじわっと満ちた。
この大陸では、十五歳が成人とされている。
「……そうだけど、だから——」
ウリエルの右まぶたが激しくひくつき始めた。この話の向かう先が読めなくて怖い。
「大人のことを教えてあげないとね」
402号室に、完全な沈黙が降りた。
ウリエルは首を傾けた。
聞き間違いではないことを確認した。
それから非常に静かな声で言った。
「母さん、今なんて言った。俺は男子トイレの話をしてたんだが」
「大人のこと、男の子がこの年齢になると、体のことや、そういう知識のことを、ちゃんと知っておく必要があるから」
ガラティーナは真剣に、自然に繰り返した。
まるで以前からずっと考えていて、ちょうどいい機会が来たと判断したような、そういう口ぶりだった。
「……」
「そう、それもその一部で、男の子の体の仕組みは、私たちとは違うでしょ。それ、知ってるのぉ?」
彼女は続けた。
(……)
ウリエルの脳が、一瞬止まった。
再起動した。
(……この展開)
(この展開は想定していなかった)
(俺の問題は男子トイレの話だったのに、なんでそこから——)
目を閉じた。
すーっと息を吸った。
額に手を当てた。
深いところから疲労が湧いてくる感覚があった。
「母さん」
「うん」
「知ってる」
ガラティーナが少し止まった。
「何を?」
「言おうとしてること、全部知ってる」
ガラティーナは真剣な目でウリエルを見た。
「知ってる」の範囲を評価するような目だった。
「……どのくらい?」
「理論だけなら、かなり網羅してると思う」
ウリエルは落ち着いて言った。
それから、咳払いをして、話し始めた。
約五分間。
その間、ガラティーナの顔は真剣な傾聴から始まり、やがて少し眉をひそめ、納得したように頷き、最後には深い沈黙へと変わっていった。
ウリエルは話し終えて、姿勢を正して、反応を待った。
「すごいすごい、ママ勉強になったよぉ。ウリちゃんの方が、ママより知識があるんだねぇ」
何の迷いもなく、さらりと言い切った。
その堂々とした潔さに、ウリエルは一瞬、意識が飛んだ。
(……この方向で褒められるのは、微妙すぎる)
「母さんも知ってたんだろ、これだけ長く生きてれば——」
ウリエルは目を泳がせながら言った。
「理論は知ってる、でも実践経験がゼロだから、具体的なところは——」
彼女は真剣に、まるで数学の問題を議論するような顔で言った。
「それで十分、理論があれば十分だから」
ウリエルは即座に遮った。何か危ないものを聞く前に。
「でも理論と実践って、やっぱり違うよぉ。本は読んだけど、本に書いてあることと実際は——」
彼女は首を振った。相当真剣な顔で。
「母さん」
「うん?」
「何を読んだの」
「図解のやつと、あと婚俗誌。町の本屋で買ったやつ、挿絵がすごく詳しくて——」
「わかった、わかった、そこまでにして」
ウリエルは手を上げて止めた。
「それで、理論はわかった、と」
ガラティーナは話の流れの隙間で、また軽く手のひらをぽんと叩いた。
「……まあ、だいたい」
彼はじわじわ迫ってくる不吉な感覚を覚えながら答えた。
「じゃあ実践は」
その瞬間、ウリエルの顔はムンクの『叫び』のように激しく歪んだ。
「……実践、って」
「理論の次は実践だよねぇ。ウリちゃんもそろそろそういうお年頃だし、この分野が空白のままじゃ、よくないでしょぉ——」
彼女は穏やかに、当然のことを言うように言った。
まるで「足し算を覚えたら次は引き算」みたいなトーンで。
「ママ——」
「実践の相手って」
彼女はウリエルの声の中にある、臨界点寸前の細かい震えにまったく気づいていなかった。
「マ——マ——」
ウリエルが椅子から跳ね起きた速度は、彼自身の人生における『最速起立記録』をぶっちぎりで更新していた。
「ダメです!!」
「なんで」
ガラティーナは顔を上げた。
その瞳に、ウリエルが警戒していたような何かは、何一つなかった。
それがかえって、もっと言葉に詰まらせた。
「腹が減った」
ウリエルは言った。
「え?」
「めちゃくちゃ腹が減った。今朝から何も食べてない。相当まずい、すぐ飯を食わないと」
「さっきお菓子——」
「腹が減ってる」
ガラティーナはウリエルを見た。
ウリエルは目を見開いたまま、一点を見つめ、表情一つ動かさなかった。
彼女はしばらく沈黙してから、何事もなかったように立ち上がった。
「……わかった、ご飯が先ね」
「ありがとう、母さん」
ガラティーナはバス・トイレの扉の方へ歩いていき、少し準備をしてから、収納室の扉を開けた。
ウリエルは彼女が迷いなく小さなキッチンの場所を知っていることに気づいた。
来た時点で、既に部屋の構造を全部把握していたということだ。
(……いつの間に下調べしたんだ。というかキッチン付きなのか、なかなか高級な部屋だ)
そこで、ふと思いついて声をかけた。
「……待って」
言葉が出た。
自分でも予期していなかった。
ガラティーナが足を止めて、振り向いた。
「うん?」
「本を読んだって言ってたよな、挿絵が詳しいほうじゃなくて、もう一冊の方。何の本だったの」
ウリエルの名探偵センサーが反応した。
ガラティーナは少し思い出してから、答えた。
「ああ、あれ。すごく売れてるやつだよ。タイトルが『ねえ、ママが教えてあげる——大人の気持ちよさのすべてを❤』で、ハートマークが付いてて——」
ウリエルはベッドの上で目を限界まで見開き、口をあんぐりと「O」の字に開けた。
窓の外で木の葉がざわざわと鳴っていた。
隣の部屋から笑い声が聞こえてきた。
世界はいつも通りだった。
「……」
「入学手続きの日に町をぶらっとして、売り場のおじさんが売れ筋だって言ってたから——」
「それ、そういう……そういうやつです!!」
ウリエルは立ち上がって、声が二段上がった。
ガラティーナの肩をつかんで、軽く揺さぶった。
「タイトルを見ればわかるでしょ!! そういう本なんです!! そういう本は読んじゃいけないんです!!」
「そういう、って——」
「そういうやつです!! そういう!!!」
直接言う勇気がなかった。
ガラティーナの肩から手を離して、両手で顔を覆って、指の隙間から言葉を絞り出した。
「母さん、よく聞いて。今すぐ頭の中でその本を探し出して」
「見つけた」
「忘れて」
「……なんで——」
「全部忘れて。一ページ残らず、一文字残らず、一枚の挿絵も残らず、完全に、永遠に、忘れて」
「でも参考になるところも——」
「忘れて」
「参考に——」
「忘、れ、て」
一語ずつ区切った。
声は静かだった。嵐の前夜のような静けさで。
ガラティーナは口を半開きにして、「忘れる」の実行可能性を真剣に検討していた。
「忘れたら、実践の理論的基盤がなくなるけど——」
「実践はありません!!」とウリエルの声がついに割れた。
「実践という概念ごと消して!! 今すぐ!!」
「でもさっき理論は——」
「理論も全部忘れた!! 俺は何も知らない!!!」
まるで駄々をこねる子どもみたいに、床に寝転がって手足をばたつかせる一歩手前だった。
「母さん、約束して」
「何を?」
「その本のこと。その内容。それから実践という二文字。この三つを、絶対に、永遠に、二度と持ち出さないって」
「……」
「約束して」
「うん、約束する」
ガラティーナは少し茫然としたままキッチンに入っていった。
後に残されたウリエルは、心身ともに消耗していた。
(……)
(俺は正常だ)
(確認した。俺は非常に正常な人間だ)
(正常な人間として、この状況では、腹が減った、を選ぶ。これが正しい)
ベッドに倒れ込んで、天井を向いた。
言語化できない、相当複雑な気持ちが胸の中にあった。
(……実践の相手、彼女が次に言おうとしていたのは、彼女自分のことだ)
(わかってた)
(彼女の論理では、お母さんが子どもに教えるのは当然のことで、その行為のどこかに問題があるとは、一ミリも思っていない)
(だからこそ、ツッコミをどこから入れればいいのかすらわからない)
【第二十八話・終】
本章終了後、以下の出来事は一切発生しておりません。
・「実践編」は未実施
・「お相手」は未指定
・挿絵付き百科系書籍の類は未閲覧
ウリエルは平穏に夕食を済ませました。ただそれだけです。皆さまのご心配とご理解に、作者より感謝を申し上げます。




