第二十五話:進学前夜の暗雲
「女の人が子どもを連れてて、その子が今十五歳くらい——」
卒業を目前に、学院の廊下で囁かれる不穏な聞き込みの噂。
でも、気づいているだろうか。この聞き込みをしている者たちは、実は悪人ではないかもしれない、ということを。
話は卒業式の二日前に遡る。
その午後、ウリエルはトイレから出て廊下の角を曲がったところで、同じクラスの男子二人にぶつかりかけた。
向こうはウリエルに気づいていない。
二人は固まって、ひそひそと話していた——あの、情報通が「ねえねえ聞いた?」と前置きする時の、独特のトーンで。
「——聞いた?」
「何を?」
「最近さ……この辺で、人探ししてるヤバそうな奴らがいるらしいんだよ」
ウリエルの足が、わずかに遅くなった。
「聞き込み? 何探してんだって?」
「人を探してるみたいで、女の人が子どもを連れてるやつで、その子が今だいたい十五歳くらいだって。このへんに住み着いてるって聞いて、家から家に回って聞きまくってるんだって。俺の知り合いの親戚が町で荷運びやってて、何軒も何軒も聞いて回ってるって言ってた」
声が低くなった。
「え、それって……うちの学校の子じゃないの」
「さあな。何人かで来てるらしくて、普通の人間じゃないっぽいし、なんか……まあ、絶対ヤバいやつらだよ」
ウリエルは廊下の陰で、一切動かなかった。
(……)
(何人か。子連れの女を探している。その子どもが今、十五歳前後)
その三つの情報が頭の中で合致した瞬間、胸の底が静かに沈んだ。
「息子」を連れた女。この辺りに住んでいる。「息子」が今年、十五歳前後。
当てはまる人間は——一人しかいない。
廊下の向こうでは、二人がまだ楽しそうに話し続けていた。
壁一枚隔てた当事者が最悪のケースを全部シミュレーション済みだとも知らずに。
ウリエルは教材を脇に抱え、音を立てずに反対方向へ歩き出した。
顔には何も出ていなかった。
(動いてきた)
(十年も穏やかに過ごせたのに、よりにもよってこの時期に——なんで今なんだ)
ティナを探しに行った。
学院の小さな花壇の傍に、彼女はいた。
花壇の縁にしゃがみ込んで、地面をのそのそと這い回っている毛虫を、真剣な目で眺めていた。
銀色の髪が耳の横に垂れて、陽光が肩に降り注いでいた。
「危機」という言葉とは、どこをどう見ても結びつかない光景だった。
ウリエルは隣に立って、二秒間黙った。
「姉さん」
「ん?」
顔も上げずにティナが答えた。
「虫」
「知ってる。——卒業したら、ここを離れないといけない」
ティナはゆっくり顔を上げて、ウリエルの表情を一瞥した。
何かを読み取って、虫の話をやめた。
「……うん」
静かに答えた。
立ち上がって、スカートについた草を払って、それだけ言った。
「わかった」
ただ二文字。
卒業したら学院を去るのは、当然のことではある。
卒業式が終わった後、ウリエルは教務室に呼び出された。
ティナも一緒に——「同い年のクラスメート」という扱いで。
室内には、普段最も厳しいことで知られる三人の教師が並んでいた。
それでも、この二人の前ではなぜか、その厳しさがどこかへ消えていく。
教務主任の机の真ん中に、二枚の書状が整然と並べられていた。
重厚な羊皮紙に、金箔の紋章。
ウリエルは一目見ただけで、背筋に何かが走った。
王国王立教育委員会の——推薦状だ。
「座りなさい」
教務主任が咳払いをした。
その目に、滅多に見ない種類の熱が宿っていた。
「君たちの三年間の成績、そして実技演習で見せた……『異例』の才能。われわれ教員一同、ずっと注目してきた」
主任は書状を二人の方へ押し出した。
「君たちの力を普通の学院に埋もれさせるのは惜しい。学院として、特別推薦を用意した。王国最上位の名門校への入学資格——ここに署名するだけで、うちから直接推薦できる」
ウリエルはその書状を見つめた。
(まずい)
(署名した瞬間、うちの情報が王都に上がる。貴族、高官、もっと深い層の人間が調べにくる。推薦状どころか、これは追跡状だ。——よりにもよって今、この時期に)
丁寧に、しかし一切ぶれることなく頭を下げた。
「ありがとうございます。——ですが、結構です」
教務室の空気が、一瞬止まった。
「……結構、だと?」
主任が目を白黒させた。
「ウリエル君、この推薦状が何を意味するか、わかっているのか?」
「家に帰ります、家の事業を引き継ぐことになっておりまして。家長の命令は絶対ですので、進学については家の方で既に手配が済んでいます」
ウリエルは目一つ瞬かせずに答えた。
「家業の継承!?」
薄毛気味の魔法薬学担当教師が椅子から立ち上がった。
今にも頭を抱えそうな顔で、ティナの方へ振り返った。
「しかし、ティナ君! 詠唱なしで魔法薬を精製できる、あの感知力は! 家が大きかろうと、そんな才能は万に一つ、いや億に一つだぞ!」
突然名前を呼ばれたティナは、軽く瞬きをした。
彼女は実のところ、全然聞いていなかった。
主任の机の上にある、小さなハエトリグサの鉢植えが動くたびに、じっと目で追っていた。
自分の偽名が呼ばれて初めてゆっくりと現実に戻り、ウリエルの方を見た。
「えっと……」
ティナは完璧に無害な笑顔を浮かべた。
「ウリエルに従います。家からの言いつけですので」
ウリエルは内心でそっと息をついた。
(ナイスだ、母さん)
三人の教師はそこから入れ替わり立ち替わりで説得を試みた。
才能の無駄遣い、将来の可能性、社会への貢献——あらゆる方向から畳みかけて、最終的には「ご両親をここに連れてきなさい、われわれが直接話をする」とまで言い出した。
「これはもう親の決定ですので、もし署名したら、足を折られて勘当されます」
ウリエルは最も誠実な顔で最も途方もない嘘をついた。
半刻ほどの攻防の末、三人の教師はついに溜息をついて、二枚の金箔の書状を引き取った。
せっかくこの田舎から出たエリートが、よりによって実家の家業を継ぐために将来を潰されるなんて——そのやりきれなさを顔に貼りつけたまま。
教務室を出ると、廊下は誰もいなかった。
夏の風が渡り廊下を吹き抜けて、ティナの銀色の髪をそっとなびかせた。
周囲に人の気配がないことを確認してから、ティナが少し首を傾けた。涼やかな声に純粋な好奇心を込めて言う。
「ウリちゃん、推薦状いらなかったのぉ? 売ったらよさそうだったけどなぁ」
「……母さん、アレは売れるもんじゃない」
ウリエルは息をついた。
「あれで王都に入ったら、着いた瞬間から全ての勢力の注目を浴びる。母さんの素性が調べられる。あれを使うくらいなら、普通に受験して、目立たない普通の学生として入った方がいい」
「うん、なるほど」
ティナはすんなりうなずいた。即座に思考を放棄した顔だった。
「ママ、わかったよぉ。ウリちゃんが一番賢いもんねぇ」
ウリエルはその、まったく危機感のない顔を見て、胃のあたりがじわりと締まる感覚を覚えた。
(この人を狙ってる連中がいるかもしれないのに、本人だけが何も気にしていない)
足を止めた。
ティナの方へ向き直った。
「母さん、一つ聞いていい」
「お昼ごはんのこと?」
「違う」
ウリエルはティナの目をまっすぐ見た。
「十年前のこと。俺がまだ孤児院にいた頃、母さんに会う前——母さんが、追われてたって言ってたこと。あれ、どういうことだったの」
ティナの足が、わずかに止まった。
あのガラスみたいな瞳に、かすかな揺らぎが走った。
「もう子どもじゃない、大人の世界のことを何も知らないまま、二人でいるのは危ないでしょ。少しだけ、教えてよ。ね?」
ウリエルは声を少し柔らかくし、ティナの服の裾をそっと引いた。自分でも若干恥ずかしいと思いつつ、少し甘えるような上ずった声を出した。
ティナはウリエルを見た。
少しの間、沈黙があった。
それから、ふっと息をついた。
それはウリエルが知っている、「言い負かされたけど断り切れない」時の、ティナ特有の溜息だった。
「……ちょっとだけね。あんまり楽しい話じゃないし、ウリちゃんを悲しませたくないから」
言いながら、人差し指でウリエルの額をつんと突いた。
「聞いてる」
「あの頃ね、人界の上の方の人たちが、ママのことが気に入らなかったの。言うことを聞かないからって」
ティナは廊下の外の明るい空を見上げた。
声のトーンは変わらない。まるで天気の話でもするように。
「それで?」
「それで、始末しようとしてきたの」
ウリエルの胸が、ぎゅっとなった。
(人界の上層部!?言うことを聞かないからって?いやいや、情報量が多すぎて脳がバグるぞ!)
(いくらなんでも省略しすぎだろ!そのサラッとした概要の裏に、十万文字にも及ぶ血で血を洗う壮絶なドラマが端折られてる気がするんだが!)
「……何人くらい来たの」
「まあ、いっぱい来たかなぁ、だいたい、何十人かな。もしかしたら百人くらいかも。よく覚えてないけど、全部なんとかしたよ」
ティナは首を傾けて思い出すように言った。
「……その全員が、上層部が寄越した刺客?」
「うん、そうだよぉ」
ティナはうなずいて、今度はウリエルの肩をぽんと叩いた。
(終わってない!)
ウリエルは心の中で全力で叫んだ。
「でも全部終わったことだから、ウリちゃんは心配しなくていいよ。ママがちゃんと守るから」
ウリエルはその場に立ち尽くして、こめかみの血管が脈打つのを感じた。
終わってない。
(人界の上層部。国家を握る連中が——十年前、この人を消そうとした)
(その連中はまだ権力の中枢にいる。そして今、この辺りで誰かが聞き込みをしている)
(十年間息を潜めていた女が、まだ生きていると気づいたら——次に動くのは時間の問題だ)
隣に立つティナの顔を見た。
美しくて、穏やかで、無防備で——今頃、昼食の献立でも考えているような顔だった。
(この人が狙われている。それも、相手は国一つを動かせるかもしれない連中に)
ウリエルは静かに息をついた。
「母さん」
少し声が低くなっていた。
「進学先、決めた」
「どこ?」
「王都第一高等学院。王都の」
ティナが少し目を見開いた。
「でもさっき、王都は目立つって……人も多いし、複雑でしょ」
「だから行く」
ウリエルの目が、静かに鋭くなった。
灯台下暗し、だ。
最も危険に見える場所が、最も安全な場所になり得る。
辺境で見つかれば、情報を遮断する手段すら持てない。
だが王都の第一学院ならば——そこは貴族と権力者が集まる交差点だ。
「銀髪」の情報も「勇者」の痕跡も、第一学院ならどんな動きでも一番早くキャッチして、一番早く潰せる。
「とにかく、あそこが一番向いてる。——隠れやすいから」
「俺が、母さんに危害を加える奴らを始末するのに都合がいいからな」という後半を、ウリエルはそっと飲み込んだ。
ティナはウリエルの顔を見た。
その、普段と少し違う目つきを見た。
理屈はよくわからなかったが——それでもティナは、ふわりと微笑んだ。
「わかった、じゃあママも、同じ学院を受けるね。ウリちゃんと一緒にいられるから」
言いながら、手を伸ばしてウリエルの髪をひと撫でした。
「……うん、俺がいるよ」
ウリエルは小さく言った。
そして心の中で、静かに続けた。
(今度は、俺が、前に立って守る番だ)
【第二十五話・終】
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