第二十三話:母性のオーラ
ママ!
また一ヶ月が過ぎていた。
ウリエルはそういう日常に、すっかり慣れていた。
友達がいないことは、もう気にしていない。
友達なんてものは、二つの人生を合算すれば——出会って、失って、大切にする間もなく失って、それでも懲りずにまた出会って——そういうことの繰り返しだ。
今の自分には、いてもいなくてもいい。
それに、そこまで暇でもない。
勉強でいえば、歴史と地理は一から学び直す必要があった。
この世界の流れは前世の知識と重なる部分もあるが、ずれている部分も多い。
重なる部分といえば「モンスーン気候」だの「カルスト地形」だのといった概念くらいで、あとは真剣に整理しないといけない。
他の科目は、前世で積み上げた知識がそのまま使えた。
先生が黒板で解説している間に、すでに後ろの問題を三問解き終えて、教科書を閉じて授業終了を待っていたりする。
生活面では……。
ウリエルは時々、夜中に一人で、自分の現状を客観的に評価することがあった。
朝食は誰かが先に用意していて、ベッドサイドに温めて置いてある。
季節の変わり目には、気づいたら衣替えが終わっていて、タンスにきれいに畳まれて入っている。
袖口の洗い残しは、気づいたら誰かがこっそりもう一度洗い直して、元の場所に戻してある。
体調が悪そうな翌朝には、布袋の中にどこかで見た元気の出そうなお菓子と栄養補給の品が一つ増えている。
課題が多い日の夜には、机の上に適温のお茶が一杯置いてある。
まるで誰かが分刻みで自分の予定を把握しているみたいに。
ウリエルは机の前に座って、その項目を一つずつ頭の中で数え上げて、結論を出した。
もう完全に、「あとは口を開けてご飯を待つだけ」というレベルにまで退化している。
完全に廃人と化している。
深く息をついて、慣れた手つきで湯呑みを手に取った。
温度はちょうどよく、熱すぎず冷めてもいない。
味も最高だった。
……まあ、慣れたらそれはそれで悪くない。
その日、ウリエルはただ単純に、食べたくなっただけだった。
特に深い理由はない。
午後の三限が終わった後、廊下の窓から漂ってきた、焼きたてのパンの甘い香りに負けただけだ。
学院の外からほど近い場所に、ソーセージ入りの焼きパンを売る屋台があった。
入学してから、数少ない「自分から動いた」出来事のひとつだ。
二本買って、一本ずつ両手に持って、寮に向かう渡り廊下を歩いた。
角を曲がって——
足が止まった。
廊下の真ん中に、二人が向かい合って立っていた。
一人はティナ。
こちらに背を向けて立っていて、夕暮れの光の中で、銀色の髪が淡く輝いていた。
もう一人は男子生徒。
ウリエルと同じ学年で、クラスは違うが顔は知っている。
学院内でそれなりに存在感のある男で、騒がしくもないが、「アッカリーン」のように存在感がないわけでもない——そういうタイプだ。
その男が、背筋を伸ばして、肩をわずかに強張らせ、顎を少し引いて——ティナを見ていた。
その目つきに、ウリエルは見覚えがあった。
前世で無数の青春恋愛アニメを見てきた目が、一瞬で判断を下した。
あれは告白という名のプレモーションだ。
「清水の舞台から飛び降りる」という覚悟を全身で表現したあの顔だ。
ウリエルは手の中のパンを一本、無意識にぎゅっと握りしめた。
そっと半歩ずれて、壁の角に身を押しこみ、顔半分だけ出して様子をうかがった。
(やばい)
(同級生だと思ってたのに。お前、俺の親父になるつもりか!)
壁の陰で息をひそめて、ウリエルは待った。
男子生徒が口を開いた。
声が小さくて、距離があって、何を言っているか聞こえない。
ティナにも聞こえているかどうかもわからない。
ただ唇が動いて、止まって、また動いて——まるでSNSの投稿文を書いては消し、消しては書いているみたいだ。
ティナはその場に静止したまま、黙って待っていた。
やがて、ティナの声が届いた。
「どうかしましたかぁ?」
この距離まで届いても、あの声は変わらない。
柔らかく、穏やかで、わずかに語尾が下がる。
男子生徒が、ぴたりと固まった。
「どこか具合でも悪いんですかぁ?」
ティナが続けた。
聞いたことのある声のトーンだった。
ウリエルが物心ついた頃からずっと傍にあった、条件も見返りもない、ただ安定してそこにある——そういう種類の気遣いの声だ。
クラスメートが友達に向けるものとは、明らかに違う。
男子生徒は動かなかった。
鼻をすすった。
そして、くるりと背を向けて、走り去った。
廊下に静寂が残った。
ティナだけが元の場所に立って、遠ざかる背中を、少し首を傾けながら見送っていた。
ウリエルは壁の陰から出た。
「姉……じゃなくて、母さん」
歩みを寄せながら言った。
「何があったの?」
ティナがこちらを向いた。
目を見た瞬間、そこに温かな笑みが灯った。
「ウリちゃん、買い物してきたの」
「ああ」
ウリエルはもう一つの無事なパンを差し出した。
「さっきの奴、なんか言ってたか?」
「ううん」
ティナはパンを受け取って、少し考えた。
「何も言わないで、行っちゃった」
「……行く前は?」
「それも、何も言ってなかった」
ウリエルは頭の中でさっきの光景を再生した。
あの強張った肩。あの目つき。あの唇が何度も動いては止まった、あの沈黙。
——何も言わずに走って逃げた。
「母さん」
「母さん、あいつ、何だったんだ?」
ティナはパンをひとかじりして、頬をふくらませながら、しばらくぐるぐると考え込んだ。
やがて顔を上げた。
「ホームシックじゃないかな」
ウリエルは沈黙した。
「それ、母さんと何の関係があるの?」
「お母さんを見て、自分のお母さんを思い出したのかも」
「……」
ウリエルは黙って自分のパンをかじった。
もうそれ以上、何も言わなかった。
(母さんのことをお母さんだとは思ってないと思うんだけど、絶対)
翌日、男子寮の近くの廊下を通りかかった時、中から声が聞こえてきた。
数人が集まって話している。
声は小さいが、廊下の反響が内容を運んでくる。
「……昨日、告白するって言ってたじゃないか、どうだった——」
笑い声が混じる。
「言えよ、どうなったんだ」
「……」
「黙ってんなよ、出がけにウリエルから奪還するって意気込んでたくせに——」
「もういい、黙れ」
少しかすれた声だった。
「どうやって失敗したんだよ——」
沈黙。
そして、「……わからないんだ」という声。
ゆっくりと、自分でもまだ整理がついていないことを言葉にするような速さだった。
「目の前に立ったら、なんか……気持ちが、消えた」
「消えた?」
「なんていうか」
間があった。
「自分のお母さんの前に立った時みたいな感じがして……」
「そしたら」
「お母さんに会いたくなって」
「それで……逃げてきた」
廊下が約二秒間、静まり返った。
それから哄笑が弾けた。
「はぁ? 何言ってんだお前——」
「告白したらお母さんが出てきた——」
「可哀想すぎる——」
ウリエルは廊下の外に立ったまま、最後まで聞いた。
それから頭を下げて、黙って、しばらく消化した。
昨日ティナが言った言葉を思い出した。
ホームシックじゃないかな。
その言葉と、今聞いた話を、頭の中で重ね合わせた。
理性的に検討した結果、これ以上深く考えると余計に複雑なことになると判断した。
前を向いて、ずらかった。
その後、似たようなことがまた起きた。
ウリエルはなんとご丁寧に、第二の被害者が生まれる瞬間を間近で目撃することになった。
グラウンドの端だった。
その男子生徒が何か言いかけたとき、ティナがわずかに首を傾けて、手を伸ばした。相手の頭に、そっと——軽く、触れた。ウリエルが呆れるほど見慣れた、あの力加減の、あの手つきで。
「寂しいのも、お母さんに会いたいのも、当然のことですぅ」
ティナは穏やかに言った。
「この歳で寮生活をしてるんだから、それだけでもう十分、立派ですねぇ」
「あなたのお母さんも、きっとあなたのことを思ってる」
「でも同時に、誇りに思ってるはずですよぉ」
男子生徒は、その場に数秒間、立ち尽くした。
目が赤くなった。
そのまま泣いた。
鼻水まで出そうな勢いで、大声を上げて泣いた。
まるでずっと張り詰めていた弦を、最も軽い力で弾いたら、そのまま切れてしまったみたいに。
ウリエルはグラウンドの端で一部始終を目に焼き付けてから、そっと足音を消して撤退した。
最初から自分はここにいなかった、という顔で。
その夜、部屋で本を読んでいたら、ティナが扉を叩いて入ってきた。
洗い終えた服を椅子の背にかけて、そのまますぐには出ていかず、隣の椅子に腰を下ろした。
「ねえ、ウリちゃん」
「なんだよ」
「今日ねぇ、ママ、すごくいいものを見た気がするの」
「どんなこと?」
「ウリちゃんと一緒に通えてぇ、他の子たちと同じように、ウリちゃんがちゃんとしてくとこが見られてぇ……それがねぇ、すごく嬉しいんだもん」
ティナは頬杖をついて、ウリエルを見た。
その目には、さっきよりも少し、何かが増えていた。
「それがすごく、嬉しいんだ」
ウリエルは本を繰る手を止めて、顔を上げた。
(自立のどのへんが?)
(服は洗ってもらって、飯は用意してもらって、課題のノートにまで注釈が入ってる)
ただ、それは言わなかった。
「今日の子、泣いてたね」
ティナが続けた。
「ああ、見てた」
「ウリちゃんは、ああいうふうにはならないと思う」
「……なんで」
「ママが隣にいるから」
「……」
「それに」
ティナは続けた。
「ウリちゃんは、他の子よりずっとしっかりしてるから。自分のことは自分でできるから」
「ママがいなくても、きっと大丈夫」
ウリエルは本のページを見つめた。
文字が一瞬、得体の知れない模様に見えた。
しっかりしてる。自分のことは自分でできる。ママがいなくても大丈夫。
その言葉の裏にある論理を解体しかけて、やめた。
解体し始めたら、また複雑なことになる。
「うん、わかった」
ティナが立ち上がって、肩をひと叩きした。
「今日も頑張ったね、早く寝てね〜」
「読み終わってから寝るよ」
「読み終わったら早く寝るんだよ。明日の朝ごはん、卵をもう一個追加して栄養つけなきゃね」
バルコニーの扉が、静かに閉まった。
ティナは洗面所へ向かった。
ウリエルはその扉を見つめたまま、「栄養」という言葉が頭の中で小人のように二人で踊り狂っていた。
視線を落として、さっきのページを開いた。
翌日、気づいたことがあった。
男子生徒たちの嫉妬の密度が、また上がっていた。
ウリエルは何もしていない。
ただ、告白した男は逃げた。泣いた男も逃げた。
そしてウリエルはウリエルのままで、朝食は相変わらず受け取って、並んで歩く時は相変わらず並んで、何も変わっていない。
廊下を歩いていたら、すれ違いざまに、誰かの視線が刺さった。
ぶつかってきたわけでも、何かを言われたわけでもない。
ただ、視線だけが刺さった。
それがどういう感情なのか、ウリエルには一目でわかった。
「なぜお前なんだ」という、焼け付くような、どこにもぶつけられない本物の嫉妬。
その視線と正面からぶつかって、ウリエルは静かに目を逸らした。
頭を下げて、前を向いて、歩いた。
(なんで俺なんだって?)
(俺にも、わからない)
【第二十三話・終】
ママ!




