第二十二話:計画に誤算あり
ウリエルの計画は、確かに実行された。
ティナは文句ひとつ言わず距離を守り、登下校も食堂も別々。完璧な運用だった。
ただ、計画は奇跡的な逆走を決め、教室の空気はむしろ悪化。
一週間。
たった一週間で、ウリエルは状況が誤った方向へ進んでいることを悟った。
少し逸れた程度ではない。
方向が、まるごと逆だった。
発端はある朝、教室へ向かう廊下でのことだ。
反対側から歩いてきた誰かが、肩を直接ぶつけてきた。
立ち止まらなかった。
振り返りもしなかった。
そのまま歩き去っていった。
ウリエルは半歩横にずれて、その背中を一瞥した。
昨日もあった。
一昨日もあった。
毎回違う相手だが、力加減は同じだ。
(マジか! これって学校内いじめかよ!)
心の中で警鐘を鳴らした。
席に着いて、視線を目立たないように走らせ、教室全体の情報収集を始めた。
男子側の敵意は、一週間前より明らかに一段上がっていた。
嫉妬交じりの冷淡さから、もっと積極的な何かへ変わっている。
あと一歩で掴みかかってくる——その一歩手前で、かろうじて踏みとどまっている。
何が歯止めになっているのかは、まだ分からない。
女子側も変わっていた。
ただし、変わった方向が違う。
以前は「分かった、関わらない」という中立だった。
今は違う視線が混じっている。
ウリエルにとって見慣れた種類の目だが、自分へ向けられるのは初めてだった。
軽蔑。
これより正確な言葉は思いつかない。
二日かけて、こっそり調査した。
名探偵モード、起動。
やり方は単純だ。
人の多い場所を何周か歩いて、あちこちに散らばっている断片を拾い集め、つなぎ合わせる。
全部つなぎ終えてから、廊下の段差に腰を下ろした。
真相はこうだ。
自分とティナの「三メートルの距離」は、クラスメートの観察眼にこう映っていた。
——別れた。
もしくは少なくとも、冷戦中だ。
最も筋が通っている噂を一本選んで、再構成してみる。
ティナとウリエルの間で何かがあったが、ウリエルから言い出した以上、問題は彼の方にある。そしてティナは距離を置かれても彼への視線を一ミリも減らさず、三メートル離れた場所からでも目で追い続けている。
つまり、深く想い続けている側だ。
となると彼は——
ウリエルは新しい女にすぐ目移りする恩知らずで、高嶺の花の感情を弄んだ最低のクズ男だ。
そこまで考えた瞬間、ウリエルは笑い声を漏らした。
限界を突破して、逆に呆れ笑いが出た。
クズ男。
しかも俺が。
自分の手を見下ろした。
今生をずっと、地味で存在感のない、完全に「モブ」として生きてきたつもりだ。
その結果できあがったのが、クズ男って。
……いや、いや待て。それはおかしいだろ。
男子の敵意が一段階上がった理由も、これで説明がつく。
最初は単なる嫉妬だった。
そこに「あんなにいい子なのに、お前には勿体ない。でも俺たちにはどうすることもできない」という、正当な怒りが加わった。
ぶつかってくるのは、その詰まった気持ちの出口を探しているからだ。
女子側はもっとシンプルだった。
嫌悪の対象は自分で、同情の対象はティナだ。
何人かがすでにティナのところへ慰めに行ったという話も聞こえてきていた。
ウリエルはその場面を少し想像して、途中で止めた。
それ以上考えるのが怖かった。
想像を止めたその場面が、同じ日の午後、別の経路から耳へ入ってきた。
廊下の曲がり角に差し掛かった時、女子がふたり話していた。
声量は普通の会話と変わらない。
別に隠す気もないらしかった。
「……あたし、ティナさんに言いに行ったんだよ。あんな男に尽くす価値ないって。そしたらティナさん、かばうんだよね」
「なんて言ったの?」
「ウリエルはそんな人じゃないって。たぶん自分の勘違いだろうって。それでね、あの人のここがいい、あそこがいいって、ずっと話してて——」
少し間があった。
声に、うまく名付けられない複雑さが混じった。
「……そういうティナさんを見てたら、なんかこっちの方がしんどくなってきて」
「ほんとに、あんないい子だから、余計ね」
ウリエルは角の裏側に立ったまま、最後まで聞いた。
向きを変えて、逆方向へ歩き出した。
十数歩で、誰もいない廊下で足が止まった。
壁に背中を預けて、天井を見上げた。
ここがいい、あそこがいい。
ずっと話してた。
……なんか、さっきまでのあの理不尽な感じ、どこかに行ってしまった。
人間関係維持計画は、正式施行十一日目にして失敗を宣言された。
ウリエルは心の中で短い追悼の辞を読み上げた。
出発点は正しかった。
実行過程も正しかった。
結果は壊滅的だった。
悪いのは自分ではない。この世界の方だ。
計画を終了させることに決めた。
ただ、ひとつ問題があった。
ティナは失敗したことを知らない。
知らないどころか、彼女はおそらく——
母さんのここ最近の様子を思い返した。
毎朝、部屋で先に朝食を渡してくる。
その口元に、かすかに「ウリちゃんの計画、うまくいってるね」という安堵の色がある。
毎晩、同じ部屋に戻れば、旧い家にいた頃とほぼ変わらない。
自分で洗濯をするようになった以外は。
だから夜、部屋にいる間の自分の状態は、ひどく微妙なものになっていた。
昼間は三メートルを保つだけで手一杯だ。
夜、部屋に戻ればティナはベッドで本を読んでいる。
自分は机で勉強のふりをしている。
そこで彼女がふと顔を上げて、こちらを見て、にっこり笑う。
あの笑顔の意味は明確だ。
「ママ、ちゃんと協力してるよ。ウリちゃんの計画、うまくいってるね」というやつだ。
ウリエルはそのたびに視線を本へ戻して、全然頭に入らない文字を眺めながら、心の中で呻き続けた。
(母さん)
(ねえ、知ってる?)
(息子は外でクズ男認定されてるんだよ)
(そっちで計画大成功だと思ってる間ずっと)
でも口に出せなかった。
「母さん、計画が失敗した。クラス中が俺たちは別れたと思ってて、俺がクズ男だと思われてる」——そう言うことが、できなかった。
面子の問題じゃない。
言った時のティナの表情が、頭に浮かんでしまうからだ。
「あ、ママがやらかしたんだ」という表情。
申し訳なさが混じって、彼女はきっと真剣な顔で言う。
「ごめんね、ウリちゃん。ママのどこが悪かったのかな」
その表情を、見たくなかった。
だから。
計画は失敗した。
ティナは知らない。
彼女は成功していると思っている。
さらに三日、堪えた。
廊下で後ろから肩をぶつけられた。
手元のノートから二ページが飛んだ。
しゃがんで拾っていると、背後から声が聞こえた。
「何いい子ぶってんだ」
紙を拾い、はたいて、立ち上がり、歩き続けた。
廊下の端で止まった。
もうやめだ。俺一人で辛い思いをしていても、母さんは解決策も分からないまま、ただ一緒に悲しむだけだ。
踵を返して、ティナを探しに行った。
見つけた時、彼女は寮棟の下にあるベンチで本を読んでいた。
三メートルの外側から。
近づく気配に気づいて、顔を上げた。
何も言わなかった。
動きもしなかった。
三メートルの距離を守ったまま、静かに彼が口を開くのを待っていた。
ウリエルは歩いた。
三メートルの線で止まらなかった。
そのままベンチまで行って、隣に座った。
ふたりの距離が、三メートルから一歩分に戻った。
ティナが瞬いた。
自分がずれた方がいいのか、判断しかねている顔をした。
「ウリちゃん?」
「計画、終了」
彼は言った。
ティナが少し首を傾けた。
「え? でも……うまくいってたんじゃなかったっけ?」
ウリエルは彼女を見た。
(うまくいってた)
(母さん、どの角度から見てたの)
彼は言った。
「いってなかった、失敗してた」
「失敗?」
ティナは本を閉じて、こちらへ向き直った。
金色の瞳に、真剣な困惑が浮かんでいる。
「ママはうまくいってると思ってたけど……前はみんながいろいろ声をかけてきて大変そうだったのに、この間はそれがずっと減ってたでしょ。それがウリちゃんの望んでたことだと思って」
ウリエルは口を開きかけて、止まった。
(……ああ)
(なるほど)
(母さんの観測指標は「声をかけられる頻度」だったのか)
(そっちから見れば確かに成功してる。慰めに来てもティナが話を聞かずに俺をかばい続けたら、誰も来なくなるよ)
(クラスで俺が何と言われてるか、母さんは一切知らないんだ)
言いかけた言葉を、飲み込んだ。
「……そうだな、その効果は出てた。でも別の問題が起きた」
「どんな問題?」
ウリエルは言った。
「気にしなくていい、とにかく計画終了。元に戻す」
ティナは二秒間、彼を見た。
それから目元がほどけた。
「じゃあ今夜から、ママが洗濯する」
「……いい、自分でやる」
彼女は言った。
「ウリちゃん、袖口の洗い方が甘いんだもの、ちゃんと確認してたから。毎回ここだけ少し残ってる」
「……」
ウリエルは力が抜けて、その話題を手放した。
「好きにして」
ティナはまた本を開いて、さっきのページを探した。
隣に座って、穏やかで、落ち着いていた。
まるでこの十一日間の三メートルが、読み飛ばせる小さな余談だったかのように。
ウリエルは背もたれに身を預けて、庭の木を眺めた。
葉はほとんど落ちていた。
枝が剥き出しで、午後の風に揺れていた。
この異世界、自分への当たりが強すぎる。
二週間、あれこれ策を練って、結局戻ってきた場所は母さんの隣だ。
もう降参でいい。
元に戻すと、クラスの雰囲気も少しずつ落ち着きを取り戻していった。
潮が引くように、まず一番表面の層から、それから下の層へ。
男子側では、あの鬱屈とした怒気がまず散った。
廊下でぶつかってくることもなくなった。
すれ違う時に、一度や二度はまともに目を合わせてくるようになった。
ウリエルが授業で正解を出した後、渋々だが、本物のため息が誰かから漏れた。
嫉妬が戻ってきた。憎悪の代わりに。
嫉妬ならまだ折り合いをつけられるが、憎悪は厄介だ。
女子側の嫌悪の目も消えた。
もっと以前の、少し距離を置いた中立に戻った。
廊下ですれ違っても、何も感じない。ただ通り過ぎていく。
ある日の食堂で、盆を持って席を探していると、近くにいた女子がさっと横へ詰めた。
席を半分ほど空けてくれた。
何も言わなかった。
でも「ここ埋まってます」とも言わなかった。
ウリエルはそこへ座って、一言礼を言った。
相手は頷いた。
ふたりとも、各自の飯を食べた。
まあ、少しは良くなっている。
ほんの少しだけど。
食べ終えて、盆を返して、ティナの方へ歩いた。
彼女はもう出口で待っていた。
出てくるのを見て、何かを手に押しつけてきた。
「これ持ってて。午後に授業があるから、夕飯前にお腹が空くでしょ」
ウリエルは受け取って確認した。
小さな布包みだった。
温かい。
中身は焼き菓子だ。
「母さん、俺、もうそんな子どもじゃないんだけど」
彼は言った。
「大きくなっても食べるでしょ。行くよ」
(違う、「大きくなった」って言いたかったのは「おやつなんていらない」ってことじゃなくて、「いい加減ちびっ子扱いはやめてほしい」ってことなんだけどな)
ウリエルは手の中の布包みを見下ろして、残りの言葉を飲み込んだ。
彼女の歩調に合わせて、次の授業の教室へ向かった。
廊下で誰かが目を向けてくる。
一瞬こちらを見て、また前を向く。
もう見慣れた種類の視線だった。
羨ましさ、嫉妬、そしてもうひとつ——うまく名前の付けられない何か。
もしかしたら、悔しさかもしれない。
ウリエルはそういった視線を全部受け流して、顔色を変えずに歩けるようになっていた。
少し、余裕が出てきていた。
一緒に騒げる友達がいない。
それはもう、あまり気にしていない。
変えられないことは、しょうがない。
布包みを少し強く握った。
じわりと、布越しに温もりが滲んでくる。それだけで、なんとなく、もういいかという気になった。
【第二十二話・終】
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