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第二十一話:三メートルの距離

学園に流れる恋人の噂を断つため、ウリエルは母にそう宣言した。

ティナはあっさり頷く。値引き交渉も、ゴネもない。

ただし——目は全部「ウリちゃんを見てる」し、洗濯物はたたまれて戻ってくるし、朝のメモは毎日机の上だ。

時間の流れは速い。

二年目の新学期が始まった日、ウリエルはあることに気がついた。


朝、目を開けると、ベッドサイドのテーブルに布包みがひとつ置かれていた。

ぱんぱんに膨らんでいて、細い紐でしっかりと縛られている。

結び目は几帳面なほど綺麗だ。まるで出前の包みのようだが、中身がコンビニのセット弁当のはずがない。


身を起こして、布包みを手に取った。

解いてみると、中身は朝食だった。

ティナの手作りで、学院の食堂とは別物だ。

肉まんは餡がぎっしり詰まっていて、脇には小瓶が一本入っていた。

蓋を開けると、温かい豆乳だった。


布包みの横に、折り畳まれたメモが一枚挟まれていた。

几帳面な字で、こう書いてある。


「ウリちゃん、昨夜はよく眠れた? 朝は温かいものを飲むと体にいいよ」


ウリエルはメモを読み終えて、きっちりと折り直した。

元の場所に戻した。

それから布包みを両手に持ったまま、ベッドの端で少しの間、座っていた。

ティナはもういない。先に教室に行ったのかもしれない。


残り半分の豆乳をじっと見下ろした。


(今生も、立派なダメ人間への道を着実に歩んでいる気がする)




でも布包みはまだ許容範囲だった。

問題は、それ以外のことだった。


二年目に入って、ティナの「距離感」が、肉眼でも分かるほどの猛スピードで逆走し始めていた。


登校は、一緒に。

下校も、一緒に。

食堂では、向かいの席に。


この辺はウリエルも半分は黙認していた。

止めようとしても止まらないし、正直なところ、道を歩きながら話し相手がいるのは悪くない。

少なくとも同じベッドで寝るよりはマシだ。


問題は、細かいところにあった。


ある夜、机で本を読んでいると、不意に横に人の気配がした。

ティナが、衣類の束を抱えて立っていた。


「ウリちゃん、洗っておいたよ」

「……母さん、俺もう十三だから、自分で洗える」

「ママが洗った方が綺麗だもの」


彼女は当然のように言った。


「ウリちゃんは本を読まなきゃでしょ」

「今日たまたま暇だから読んでるだけで、洗う時間がないから読んでるわけじゃない」

「じゃあウリちゃんはそのまま読んでてね」


ティナは衣類を抱えてベランダへ向かいながら言った。


「ママが洗って干しておくから」


ドアが閉まった。


ウリエルはその場で固まったまま、空になったドア枠に向かって、思わず虚空に力なく手を伸ばした。

ひとまずその件は置いて、本に戻った。


半ページ読んだところで止まった。

本を腹の上に伏せて、天井を見上げた。


(今読んだ半ページ、一文字も頭に入ってこなかった)


本を閉じた。

深く息を吸った。


慣れたら平気になる。そういうものだ。




翌朝、タンスを開けると、洗濯物はきっちりたたまれて戻されていた。


それだけではない。


数日前に隅っこに突っ込んで忘れていた、くたびれた古い手拭いまで発掘されていた。

白くなるまで洗われて、ぱりっと伸ばされて、一番目立つ場所に引っ掛けてある。


ウリエルはその手拭いを数秒見つめた。

何か言いかけて、やめた。

タンスを閉めて、顔を洗いに行った。


頭の中で二匹のペンギンが喧嘩していた。


(お前はマザコンか、マザコンか、マザコンか。お前は一体誰なんだ)


(……マザコンです)




噂が増え始めたのも、たぶんその頃だった。


最初はたまに聞こえる程度だった。

廊下で、食堂で、細切れの囁き声が聞こえて、彼が近づくと静まる。

気にしなかった。

こういうものは気にした方が育つ。


でもある日、教室の隅に座っていると、隣の席のふたりが声量を少し読み誤った。


「……ねえ、ティナさんがウリエルくんを見る目、なんか普通じゃなくない?」

「どこが?」

「なんか……」


一方が少し考えた。


「母さんが子どもを見てる感じ、するんだよね」

「あーーー」

「でしょ。どこにいても目で追って、あいつがちょっとでも咳したらすぐ眉をひそめるじゃん」

「ものすごく好きな感じだよね、それって——」

「うん」


ウリエルは隣で最後の「うん」に込められたニュアンスをしばらく考えてから、省略された部分を大体復元した。


斜め前に目を向けた。


ティナは教室の向こう側で、本を読んでいた。

読みながら、ふと顔を上げて、こちらと目が合って——目元がほどけた。

それだけで、また本に戻った。


ウリエルは視線を手元に戻した。


(あの同級生、わりと正確に見ている)

(でもこれは、俺には誰にも言えない)




噂は増えるにつれ、どんどん荒唐無稽な方向へ加速していった。


最初は「姉弟」説。

これはすぐに棄却された——「姉が弟を見る目が、自分の人生の支えを見る目になってることある?」「じゃあ絶対に姉弟じゃない!」


流言というものは、一度走り出した野馬のようなもので、止める手立てはない。

「従姉弟」説が出た。

その後、誰かが「恋人」説に火をつけた。

そこからは証拠付きで広まっていった。

証拠とはティナの目だ。


さらに重量級の「幼馴染」説が続いて、「名門貴族の政略結婚から逃げてきた哀れなふたり」にまで昇格した。

どこかの天才が考え出した、やたら詳細なシナリオまで出回った。


曰く——家同士の婚約から逃げるために身分を隠してここまで逃げてきた。

女側が男側を守るために、下働きも厭わず料理も洗濯も何でもこなしている。

何よりの証拠は、蜂蜜でも垂れてきそうなティナの視線、ウリエルの「困っているけど断れない」包容力(実態は絶望)だという。


ウリエルはこの過程を通して、一貫して「その他大勢A」レベルの存在感を保ち続けた。


否定はしなかった。

二度の人付き合いの経験が告げていた——このタイミングで「実は養母なんです」と言い出せば、ただのゲス男どころか、奇妙な性癖を持つ変人に昇格するだけだ、と。


ただ、ひとつだけ、目を逸らせないことがあった。


男子から向けられる視線が、最初の「羨ましい」から、じわじわと「敵」に変わっていた。


廊下ですれ違う時、わざと大きな舌打ちをされる。

実戦演習の組み分けで、自分の周りだけ不自然に空間ができる。

食堂でご飯をよそってもらう時、担当が配膳バイトの男子生徒だと、肉をよそう手がなぜか小刻みに震えて、肉が数切れ落ちる。


これらをウリエルは全部、二生分の処世術で受け流した。

この程度で眉を動かすほど若くはない。


ただ、続くのは良くない。




数日考えてから、ある放課後の廊下で、ティナを待った。


「姉さん」


彼は言った。


「ちょっといい?」


「うん」


ティナは真剣な顔でこちらを見た。


「どうしたの」


ウリエルは最も直接的な切り口を選んだ。


「最近、俺たちが近すぎるせいで、クラスに噂が立ってて、俺の人間関係に影響が出てる」


「噂?」


「俺たちの仲が、普通じゃないって言われてる」


「普通じゃない、って?」


ティナが少し眉をひそめた。

ウリエルは淡々と言った。


「恋人、そう思われてる」


「……あ、それは確かに、否定した方がいいね」


ティナは少し考えた。

ウリエルは続けた。


「だから、しばらく距離を置く必要がある。登下校は別々に。食堂も別の席で。洗濯は俺がやる。普段も——」


どのくらいが妥当か、一瞬考えた。


「三メートルは離れる」


ティナは聞き終えて、間を置かずに頷いた。

彼女は言った。


「分かった、ウリちゃんの言う通りにする」


ウリエルは次の言葉を待った。


来なかった。

「分かった、ウリちゃんの言う通りにする」——それだけだった。

値引き交渉なし。ゴネもなし。


彼は彼女を見た。


「……それだけ?」


ティナは目を細めた。


「うん、ウリちゃんがそうしたいなら、そうする」


ウリエルは少し首を傾けた。


「母さん、何も思わないの?」


彼女はごく当然のように言った。


「ウリちゃんが人間関係を大切にしたいって言ってるんだもの、それを応援するのは当たり前でしょ」


ウリエルはその答えをあらゆる角度から検証した。

どこかがおかしい気がする。

でも、どこがおかしいのかが言えない。


早すぎる。

スムーズすぎる。


思考を少し広げた。

ひとつの可能性が浮かんだ。

それは五歳の頃に初めて「母さん」と呼んだ時くらいの奇妙さを持つ仮説で、ウリエルはしばらく自分の中でひっくり返した。


……まさかな。

彼はゆっくりと口を開いた。


「母さん、そんなにすぐ頷いたのって……俺が思春期に入ったから一人の空間が必要だろう、って判断してる?」


ティナがぴたりと止まった。


次の瞬間、口をきゅっと引き結んだ。

あの澄んだ大きな目が、後ろめたそうに三日月型に細められた。

五歳の頃から今まで、何度も見てきた表情だ。

図星を指されたが、認める気はない、という時の顔だ。


ウリエルは「ツッ」と歯の間から息を吸い込んだ。


「母さん、これは反抗期じゃない」


ティナは柔らかく答えた。


「うん、ママも分かってるよ」


分かってる気が、まったくしない。

「分かってる、分かってる、もう説明しなくていいよ」という優しげだが全く撤回する気のない語調は、ウリエルの残り少ない理性を真綿で首を絞めるようにじわじわと削り取っていく、最も残酷な攻撃だった。


ウリエルは廊下に立って、残っていた言葉を全部飲み込んだ。


(はいはい……好きに思ってて。俺はもういい)


最終的に、ただ頷いた。


「分かった。じゃあ三メートル、決まりで」


ティナは繰り返した。


「三メートル、うん」




翌朝から、三メートルルールが施行された。


ウリエルが前を歩き、ティナはおとなしく後ろについてくる。


目の端で後ろを確認した。

ティナは三メートルの間隔を几帳面に守っていた。

ウリエルが速くなると速くなる。ウリエルが止まると急ブレーキをかける。


(これ、小学生のゲームか何かか?)


しかし最大の問題は、表情だった。


「近づけないけど、ママの視線はずっとウリちゃんを追ってるよ」という純度百パーセントの眼差しで、完璧に三メートルを保ちながらついてくる。

外から見れば——冷たい態度の彼氏に傷つきながら、それでも健気についていく少女、そのものだった。


「ひどすぎる……」


すれ違いざまに、女子数人の噛みしめるような囁き声が聞こえた。


「顔がいいからって、あんな風にティナさんを後ろに従えてさ……」


ウリエルは膝に矢を感じた。


(事態は、これ以上悪化しないはず……だよな)




しかし問題がもうひとつあった。


同じ部屋に住んでいる。


昼間は三メートルを保てる。

でも夜、ドアを閉めた後——三メートルは急に微妙な概念になる。


部屋はそういう広さじゃない。

ベッドが二つ、間にナイトテーブルが一つ、合わせても二メートルに届かない。

ウリエルが自分のベッドで本を読んでいると、向かいのベッドのティナとの距離は、どう頑張っても一メートル半くらいだ。


初日の夜、ウリエルはつい口を開いた。


「母さん、部屋の中の距離は——」


ティナはページを一枚めくりながら、今日の夕飯を話し合うような口調で言った。


「部屋の中はカウントしない、ウリちゃんが言ったのは、外で三メートル離れるってことでしょ」


ウリエルは口を開けて、閉じた。


(……正しい)

(俺が言ったのは「登下校は別々に、食堂は別の席で」だった)

(「部屋の中でも三メートル離れろ」とは言っていない)

(そもそも二人しかいないし、まあ、いいか)


寝返りを打って、壁を向いた。

布団を肩まで引き上げた。


「おやすみ、母さん」


「おやすみ、ウリちゃん」


灯りが消えた。


暗がりの中、ティナが近づいてくる気配がした。

蹴り飛ばしていたらしい布団の端を、そっと直された。

それから彼女は自分のベッドへ戻って、かさかさと静かになった。


(……まあ、いいか)

(部屋の中はカウントしないんだし)

(どうせ誰も見てない)




布包みは、翌朝もベッドサイドに置いてあった。


メモの文面は毎朝変わる。

「今日は気温が下がるよ」「昨夜はよく眠れた?」「この課題、別の方向から逆算してみたらどうかな、とママは思う」。


ウリエルは毎回読み終えてから、きっちりたたんで、引き出しの一番奥にしまっていた。

捨てない。

言及もしない。

気づいたら、それなりの量になっていた。


机に向かいながら、ふと思うことがある。


三メートルは三メートルだ。

でもいくつかのことは、距離が何メートルかを、あまり気にしないらしい。


その考えを、ウリエルは静かに棚に上げた。

本を開いた。


慣れたら、悪くないものだ。




【第二十一話・終】

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


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